真昼の海
藤堂こゆ
真昼の海
「そのむこう真昼の海をうつしている」
かすかにそう聞こえた。
それは彼女の声に違いなかった。
「ピアノ?」
私は誰もいない窓辺の椅子に向かって問いかける。
「そう、ピアノ」
ふわりと窓布がふくらむ。
「谷川俊太郎の、ピアノ」
窓布が窓に吸いついたとき、窓辺の椅子には一人の少女が座っていた。
枯れかけた花の匂いがする。
彼女をなくしてから、百年。
従妹が嫁ぎ、都市が燃え、国が興って。
そのあいだ、私はずっと待っていた。
切れ切れのピアノの音を聞きながら。
「誰かがピアノを弾いている」
呟いてみる。
「塀はどこまでもつづいていて」
彼女は微笑んでいる。
「道には人影ひとつない」
風に乗って、ピアノの音がはっきりと聞こえた。
誰もいないはずのこのまちで。
「誰かがピアノを弾いている」
もはやどちらの声かわからない。
鏡があった。
彼女が幾度となくその姿をうつした鏡が。
今その鏡は日を受けて、この部屋でまぶしく輝いている。
彼女はすっと指をさす。
「戸口に倒れたひとりの兵士をうつしている」
うっすらと、砂をかぶった床の上。
「そのむこう真昼の海をうつしている」
日がかげり、鏡は輝きをなくし。
椅子には誰もいなかった。
窓はわずかに開かれていて、枯れかけた花の匂いがする。
誰かがピアノを弾いている。
鏡にうつった海を見ながら、その音をいつまでも聞いていた。
*原典:岩波文庫『自選 谷川俊太郎詩集』より『ピアノ』
真昼の海 藤堂こゆ @Koyu_tomato
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