第5話 見えるスタート

地方大会での4位という結果から数日が経った。雅の心の中には悔しさが残っていたが、その感情は「もっと速くなりたい」という強い意志に変わりつつあった。


陸上部の練習場では、佐藤が雅に新しい課題を提示していた。


「次のステップとして、スタートをもっと磨こう。」

佐藤は手話で伝える。「スタートダッシュが速くなれば、それだけでタイムが大きく変わる。」


雅は真剣な目で頷き、佐藤の指示に従ってスタート練習を始めた。だが、耳が聞こえない雅にとって、スタートのタイミングを完璧に掴むのは簡単なことではなかった。


練習が始まると、雅は何度もスタートで出遅れてしまう。旗の動きに反応するはずが、一瞬の迷いが遅れを生む。


「うーん……まだ遅いな。」

佐藤は少し頭を抱えながら考え込み、雅に手話で話しかけた。


「雅、君の場合、視覚でスタートを取る必要がある。でも、それを正確に掴むにはコツがいる。君がスタートの瞬間に何を感じているのか、教えてくれないか?」


雅は少し考え、手話で返す。


「旗の動きを見ているけど、見逃すことがあります。そのせいで反応が遅れるんです。」


佐藤は頷き、しばらく考えた後に提案した。


「旗の動きだけじゃなく、もう少し視野を広げてみよう。周りの選手や、スタートラインの全体的な動きにも注目するんだ。視覚情報を最大限に活用するのが君の強みになる。」


雅はその言葉を聞き、次のスタート練習で意識を変えることにした。


新しい方法での練習が始まる。雅は旗だけでなく、隣の選手の動きやスタートライン全体に注意を向けた。そして、自分の身体の感覚にも集中する。


「いける……!」


旗が動く瞬間、雅は一気に地面を蹴り、これまでよりも速くスタートを切った。風が体を押し、足が自然と前へ進む。佐藤はストップウォッチを確認し、満足そうに頷いた。


「いいぞ、雅!タイムが上がった!」


雅は息を切らしながらも、初めての成功に少し笑顔を見せた。


練習後、佐藤が雅に手話で伝えた。


「スタートを掴んだ君は、これからもっと速くなる。その調子で練習を続けよう。ただ、次の課題もある。スタートからゴールまで、ペースを維持する力も必要だ。」


雅は真剣な顔で頷きながら、次の課題に向けて気持ちを切り替えた。


その日の夜、雅は母親と一緒に夕食をとりながら、手話で自分の気持ちを伝えた。


「私、スタートが少し速くなった気がする。次の大会では、もっといい結果が出せるかもしれない。」


母親は微笑みながら頷き、手話で励ました。


「その調子よ。雅が頑張っている姿を見ると、私も元気が出る。」


母の言葉に雅は胸が温かくなった。音がなくても、自分の努力を見てくれる人がいる。それが何よりも大きな支えだった。


翌日の練習では、スタートだけでなく、100メートル全体を意識した走り込みが始まった。雅は隣を走る悠馬と競い合いながら、タイムを縮めることに集中する。


「君、本当に速くなってきたな。」

練習後、悠馬が手話で言った。


「でも、まだ満足してない。もっと速くなるよ。」

雅は力強く答えた。その目には、次の大会でリベンジする決意が宿っていた。


音のない世界でも、雅は少しずつ前に進んでいる。スタートラインに立つたびに、彼女の中で新たな挑戦が始まっていた。そしてその挑戦が、やがて世界の舞台への道を切り開く第一歩になることを、彼女は信じ始めていた。

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