6.首のない亡霊
車内から飛び出て降り立った場所は、電気の灯っていない湿気の充満した便所だった。
勢いよく押し開けた名残か、個室の扉がゆらゆらと揺れている。
車内の様子は見て取れず、洋式便器が上蓋をぽっかり開けたままだ。
正面の壁に備え付けられた小便器が3基。
その上に貼られた宮科駅の駅長名義で美化運動を宣言したポスター。
左奥には縦に細長い窓がどんと構えているが、向こうの景色は暗闇に落ちて判然としない。
俺は無事、宮科駅構内のトイレに辿り着いていた。
夜の閑散を切り裂く騒音が劈き響き渡っている。
便所の出口へ顔を向けると、線路を右から左へと駆け抜ける貨物列車の姿が視界に割り込んだ。
トイレの出口へと、尻に火がついたように走り出す。
線路までの直線距離は目測でも十数メートルほど。
走行している線路は反対側ではなく、こちら側。
問題なく乗り込めそうだ、と安堵していた矢先、視界に列車の最後尾である車掌車が現れた。
眼前をあっさりと通り過ぎていく姿が脳裏に焼きつく。
トイレを抜け出した俺は、そのまま貨物列車を追うためにホームを全力疾走するが、人間の脚力と列車の馬力では到底埋められない差が存在するわけで、無情にも段々と距離を離されていってしまう。
なんとかして列車に追いつきたい。
こういった人体を越えた能力を必要とするとき、織術という魔法的手段は宝石のように光り輝くのだ。
「壱圏、
唱えた途端、俺の両脚を囲うように網目状の白い光線が明滅し、空間へ溶け込んでいく。
本当は精彩を欠いた状態で乗り込みたかったが仕方ない。
前へ繰り出した右脚が地面に接地した瞬間、コンクリートごと踏み砕かれた。
尋常ならざる脚力をもって、俺は地を蹴り走り出す。
肉食動物みたく、貨物列車へと凄まじい速度で猛追するが、無情にも列車が駅のホームを颯爽と抜け出していた。
俺は是が非でも追いつくために、ホームが終わる手前に設置された柵へ飛び移り、そこから一気に跳躍する。その衝撃で柵がひしゃげた感覚を如実に感じたが、犯罪者を追うためには仕方ない犠牲だ。
その甲斐もあり、俺は車掌車後方の手摺を掴んで、なんとか列車に乗り移ることができた。
山中にひっそりと構える宮科駅が遠ざかっていく。国境駅のくせに田舎の無人駅と遜色ない外観で、この先にあるトンネルを抜けたら異国が広がっているとは到底思うまい。
少々手こずりながらも、なんとか列車に辿り着けたが、一安心する暇はなかった。
俺は田舎駅に思いを馳せつつ、車掌車の扉を開け、車中へと入り込む。
こじんまりというより、窮屈な空間だと思った。
車両の両側に開け放たれた小さな窓が等間隔に3つずつ並んでいる。
列車の騒がしい走行音が雪崩れ込んでいた。
左の窓際には背もたれのないロングシート。
反対側には、車掌が書類作業をするための簡易的な机と椅子が備えつけられていた。
壁から生えた机を照らす電灯がひとりでに灯っている。
机の下に頭を突っ込むように、黒いコートを羽織った男性がうつ伏せで倒れていた。
頭を強く打ったのか、額から血を流している。
安否を確認するためにしゃがみ込み、首元に手をやると脈動が感じられたため、ただ気絶しているだけだと分かった。
男性の身体を仰向けにすると、コートの胸元についた名札が目に留まる。『車掌』と書かれていて、その下には『笹川』とあった。おそらくこの人の名前だろう。
襟には鉄道会社の一員を示す徽章がついている。
俺は、やはり腑に落ちなかった。
貨物駅で車掌を処理しておけば、計画が失敗するリスクは格段に減らせたはずだ。
現に、車掌を降ろさなかったから、警報を鳴らされたのだから。
それを気絶させて車内に留めておく理由が見当たらない。
ヤードに侵入し、周囲に気付かれずに貨物駅を抜け出した者たちが、まんまと車掌に救難信号を出されてしまうといったヘマをするとは考えづらかった。
そこはかとない違和感と定義づけるしかないが、それ以外の表現を使うなら、『警報を鳴らされた以外は完璧だった』とも言い換えられる。
俺は、ある結論へと至った。
「車掌は必要だったってことか」
今頃になって社長のふざけた顔の意味を理解した。俺が犯行グループの計画は完璧じゃないという考えを明らかにした際に、加えて車掌を駅に放置したらいいと言ったが、それは全てを知っている社長からすれば、数学問題を誤った方法で解いている子供を観察するような気分だっただろう。
推測が誤っている可能性もあるが、そう考えた方が道理が利く。
俺は苛立ちに任せて舌を打ち、すらっと立ち上がった。
一呼吸置いてから、さっき入ってきた方とは真反対の扉を見やる。犯行グループがいるとすれば、もっと前方の車両だろうか。
織術を行使して列車に乗ってしまったことから、奇襲による先手必勝はできないかもしれない。最悪の場合、奴らにバレていることも考慮し、俺は取手をなぞってから握りしめ、慎重に扉を開けた。
それはまさしく青天の霹靂だった。
車掌車を出た直後、辺りが鮮紅に染め上がり、肌を焼くほどの熱風が吹き荒んだ。
俺は咄嗟に燃え盛る炎を握りつぶして鎮火できるほどの水源を思い浮かべる。
それは半ば無意識下での防衛本能に近いが、俺の織術がオートで作動し、大雑把な水壁を発生させるまでに至った。
臓器に届き揺さぶるほどの爆発音が鼓膜を打ちたたき、車両を震わす衝撃が体内に響き渡る。そこに付随して、何かが一気に蒸発する音と、視界を遮る蒸気が舞い上がった。
「うっわー、あそこから防ぐってアンタ何者」
水壁の向こうから軽々しい口調で誰かが話しかけてきた。
俺は織術を解き扉を閉め、足場に鉄板が張られた空の貨車の上に躍り出る。
前方の貨車に積載されたコンテナを足場にしてしゃがみ込んでいる人影に話しかけた。
「自己紹介する気だったのに、これじゃ挨拶もできやしない」
「あはは、ごめんね。先手必勝だと思ってさ」
「仲良くなりたいからツラ見せろよ」
「無理」
人影には、肩より上が何もなかった。
ノイズが走ってなお低い声質から、性別は男だと推察できるその姿には、首以上の部位がなく、おのずと顔の分からない状態になっている。
服装も目立った装飾や意匠はなく、屈むとコンテナの上にベタつくほどに裾の長い黒マントを羽織っていた。
右手には銀色の杖を持っていて、両先端に黒い布を巻きつけている。
「逃げ帰る気はないかい」
俺は首なし杖男の問いかけを無視してズボンのポケットからスマホを取り出し、社長へ『犯人見つけました』とメッセージを送った。
「度胸あるね、君」
緩やかに立ち上がる杖男は、やや上空へ布を当てがった杖の先端を向ける。
「
杖の布に丹紅色の炎が灯ると、左右に線が伸びていく。織術を行使する際に漏れ出る網目状の光線、喪織線が赤色に彩られ、彼の手元に寄り添うように揺らめいて消えていった。
下半円の曲線が引かれていき、笑みを浮かべた口元に似ているなと感想を浮かべていると、その曲線が縦方向に分裂し円状に形を成す。まるで閉じた瞼を開けたようだったが、その円の中でぽつぽつと火の玉が現れはじめた。
「
天変地異ともいうべき神の後光が視界を奪い去る。
火の玉たちは、無数の槍へと姿形を変えていき、明確な殺意を矛先に込め、弧を描きながら火雨のごとく俺を喰らい尽くさんと降り注ぐ。
「参圏…」
火雨を凌ぐために織術を使おうとした俺の脚元に杖男が颯爽と現れた。
動きが頗る早く、安易に懐に入られる。
「壱圏」
杖男はそう呟いてから、何も掴んでいない右腕を振りかぶらんと構えをとる。
俺は咄嗟に回避するため、後ろに退がろうとした。
「
彼の言葉を口火に、右手から赤みを帯びた刀身が光体となって生まれ伸びる。枝木に近い細さを持つそれを、杖男は躊躇いなく存分に振り上げた。
俺の身体を下方から袈裟斬りにした紅の一閃と同時に、時間差で無情に身体へ降り、突き刺さる火の槍たち。
たたらを踏んで立てなくなり、車掌車の扉に倒れかかった俺を見下げる杖男。
火雨の中で彼だけは、変わらぬ夜空の下にその身を置いていた。
「それほどでもないね、君」
杖男は幕を下ろすように、赤い刀身を俺に向かって振り下ろす。
「鈍感だな、アイツ」
俺は離れたコンテナの上から、自分の幻影が敗北する様を観察していた。
織術には環織という作用部位を表す概念が存在する。
槍が刺さった俺の幻影は視覚に作用するため、視環織にカテゴリーされるのだが、彼がそれを認識する素振りはなかった。
今も何かと偽物の俺に対して高説を垂れている。どうやら車掌車から出た俺を襲った一撃を止められたことが意外に納得できずにいるらしい。
「あとで謝ってやろっと」
優先事項は、電車を止めるに限る。
コンテナが隙間を空けずに複数置かれていたり、一個ずつ人が横たわれるくらいの隙間を空けて置かれていたりしていた。
宮科駅のホームで使用した
コンテナの上を飛び移りながら機関車へと移動する最中、妻面の扉が開放されたコンテナを発見した。
俺は貨車に飛び降り、警戒は解かず、その中へ進入し状態を確認する。
もぬけの殻となった殺風景さに清々しさを感じた。
「もう盗まれてるな、これ」
床に敷かれた木製パレットの上には、黒いバンドルベルトが落ちている。
セイレイがどんな荷姿をしているか、俺は詳しく知らないが、ベルトで縛るくらいには大物であると推測できた。あるいは、金属の地金みたいに幾つも積み上げた形態になっているかもしれない。
既に貨物の一部が移動済と判断していいだろう。
これは社長の慌てふためく姿が見れるかもしれないな。
「動くな」
正直、油断したと素直に反省した。
俺は相手を刺激しないように、目線だけを扉前に忍び寄せる。
そこに、剣を構えた首のない人影が悠然と立っていた。
声音はノイズ入りでも僅かに高め。
社長は犯行グループに女性もいると話していたな。
彼女の握る両手剣は、神々しい風格を漂わせつつ、凛とした貞淑さを併せ持つ。
曇った銀光を晒す肉厚両刃の剣身に、琥珀色に彩られた角を生やす牛の顔面と、その額に咲く飴色に染まった梅の花弁が際立った鍔。
暗所に溶け込む外套を羽織った首のない姿から剣士の亡霊を僻目させる容貌。
ここまで現実に作用する織術は稀だなと感心した。
「相当な視環織使いがいるんだな。さっきの杖野郎も首が全く見えなかった」
「蜜吏じゃないね、アンタ」
「ぜひ講義を受けたいもんだ」
「答える気はないんだね」
首なし女剣士は、両手剣を後方に引き、鋒をこちらに向けたまま刺突の構えを取る。
何か対策を取らないとコンテナ内にいる俺は袋の鼠だ。斬撃をいなすこともできずに、情けなく撃沈まっしぐら。
正しく鼠取りにハマってしまったわけか。
「
女剣士の叫びが合図となり、反対の妻面扉が障子をぶち抜くように押し破られた。
背後から大砲となった黒い塊が、猛然と俺目掛けて襲いかかる。
それが首のない大柄な人間だと判別できた瞬間に、女剣士が再び力強く声を張り上げた。
「
俺は素早く、上着の左衿を掴んで顔を隠した。
紫の喪織線が彼女の剣から流れ出すと、辺りが白むほどの稲光が視界を覆い尽くし、岩を穿つような衝撃音が鳴り渡る。
女剣士の身体を這う金糸雀色の電流と、その周りを取り囲む雷の矢が浮遊していた。
生き延びるために寸刻争う中で、俺は左手で掴んだ上着をむんずと翻した。
目の前に広がる視界が、映像を巻き戻したかのようにぐるぐると切り替わり、車掌車の扉が吹き飛ぶ勢いで開かれる。
俺は一転して、杖男と相対した最後尾に舞い戻ってきていた。
「1面に逆戻りかよ」
雷鳴が犇く列車の先を見据える。
この扉に予め、仕掛けをしておいて正解だった。
俺の幻影はすでに姿を消していた。
こちらに背を向け、明々とした列車の前方を眺め突っ立っている杖男がじりじりと振り返る。
強烈な光に焦がされた夜は、元の鞘に巻き戻った。
「どうだった、俺の視環織は」
車掌車の扉を閉めてから、杖男に嫌らしく問いかけてやる。
首がないから表情が見受けられないのが残念だ。
「何者だ、君は」
杖男は、得物を構えて体勢を低くしつつ、言葉を投げかけてきた。
列車がトンネルを潜るまで、残り数分といったところか。
時間を食ってしまったが、まだ巻き返せるだろう。
「ツラ見せたら教えてやるよ」
月光を遮る雷光の十字架が闇夜に刻まれた。
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