第一章<行方不明のセイレイ>

4.直線の夢

 容易く日夜は超えても、心に星は宿さない。

 鮮明に思い出せる中でもっとも最初の記憶は、片手の指で数えられる年頃の一幕。


『この手渡したペンで綺麗な一本の線を引いてほしい』

 

 幼稚園を抜け出した先、隣接した神社の境内にある池のほとりでそう頼まれた。

 途中で編入してきた黒髪の女の子。

 名前はサトウハナコと名乗っていて、いつも黒い服を着て、オバケちゃんと揶揄されることもあった。

 誰とも接点を持たずに、いつも隅っこや遊具の上といった、一人になれる場所で悲しげに黄昏れている姿は記憶に新しい。

 先生からも仲良くしてあげてほしいと頼まれた。

 ひとりぼっちは可哀想だからと、明るく元気になってほしいという老婆心から、一緒に絵を描こうと何人かで誘ってみたりしたけれど、まるで餌をねだりに来た動物を卑しむように睨まれる始末。

 何度か声をかけて、終いには誘う人が一人きりになったあたりで趣向を変えた。自分で書いた絵本を読み聞かせようと思いつく。ハナコちゃんを主人公にした寓話を作って、挿絵と一緒に披露する。

 彼女はやっと言葉をくれた。


「絵下手くそ、話つまんない、とっとと失せて」


 俺がどうして絵本を書いたのか、それは今になって言語化はできるけれど、その当時は理由も考える気すらなく、全くこだわっていなかった。

 みんなと関わらずに暗い場所で佇むハナコちゃんをどうにか明るい場所へ連れ出して笑顔にさせたかった。彼女からすれば、いらぬお節介だったろうが、俺にとっては勝手にどこぞの王から授かった宿命に思えていた。

 ただ描いた絵本を持っていくだけでは効果はない。それなら隣に陣取って描くのはどうだろうか。

 思い立ってすぐに実践した。

 色鉛筆とスケッチブックを持って、ハナコちゃんを探しては隣に座り込んで絵を描いた。時には、ストーリーについてどうしたらいいかを訊ねたりもしたが、無視を決め込まれた。気づけば隣にいなくてどこかに消えてしまうこともあったが、めげずに毎日彼女を見つけては隣で絵を描き続けた。

 何日かかったのかは定かではないある日、神社の池のほとりでハナコちゃんを探し当て、いつものように絵を描いていると、黒鉛筆の芯を折ってしまった。鉛筆削りは園内にあるため、取りに行かないといけなかったが、ここから離れてしまうと、また彼女はいなくなると思った。

 黒鉛筆は、ハナコちゃんの髪を塗るためには必要不可欠だった。


「はい」


 スケッチブックの上に、黒のボールペンが出てきた。そこらの安物ではなく、万年筆のようなステンレス製のペン。それを持つ手を辿ると、ハナコちゃんがこちらに顔を向けていた。

 目が合うと、彼女は「使って」と言う。

 俺はハナコちゃんから話しかけてくれたことが嬉しくて、ボールペンを快く借りて、さっそく髪を黒く塗った。

 紙の上をペン先が抵抗感なく滑らかに走って、すごい描きやすいと子供ながらに思った。

 彼女に「線を引いてほしい」と頼まれた。

 続けて「布を引き裂くように力強い線を書いて。真っ直ぐで澱みない平野を横切る果てしない直線を描いて」とぶっきらぼうに、されど上品な声音でそう付け足してきた。

 子供だった俺が首を傾げると、ハナコちゃんは髪の毛を指でくるくると弄りながら「とにかく綺麗な線を引いて。そんくらいできるっしょ」と不機嫌そうにぼやいた。

 俺は彼女を怒らせまいと、そそくさとスケッチブックの紙をめくって白紙のページを開いた。

 ペンを構えて線を引く準備をする。

 ハナコちゃんが身を乗り出してスケッチブックを覗いてきた。俺の肩と彼女の肩が当たるくらいの距離感で、柔和なジャスミンの香りがした。幼子だった俺の心臓が弾み高鳴り、手の震えを感じて、それを抑えようとし、さらなる振動が生まれた。

 

「早く引け」

 

 上目遣いで睨んできたハナコちゃんに見惚れながら、俺は半ばヤケになってペンを右から左へ走らせた。

 ハナコちゃんはしばらくの間、俺の引いた線を食い入る目つきで見つめていると、俺の手元からペンを抜き去り、指でクルクルと回しはじめた。


「私のこと、どう思う?」


 万感の笑みを浮かべるハナコちゃんがそこにいた。

 彼女に見惚れた神秘的な時間に、当時の俺はあまりの情報量に放心していた。

 先の続かない尻切れとんぼの夢、彼女の微笑みが思い出の終着地となっている。

 虫食いに遭ったウール生地の記憶。

 ハナコちゃんへどんな言葉を返したのか、俺は上手く思い出せないでいた。

 痒くて仕方ない瘡蓋を決して剥がれない加減で身体を掻きむしる。

 思い出せない過去の湖畔をだらだらと歩いて、一日を終える俺の人生と重なり中和する。

 そうして、齢十五となった。

 未だに、俺の心に星の灯りは宿っていない。

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