今日、僕を誘拐してください。
お茶漬け
第1話
——その日は、朝から酷い空模様だった。夕方からは雷を伴う大雨だと言って、バイトに行くのが憂鬱になる日だった。
大雨のせいで客入りも悪く、楽をできたのはせめてもの救いだろうか。いつもよりも一時間早く退勤して、家に着いたのは午後一〇時半前頃だった。
そいつは、そこにいた。
「……お願いします。僕を、誘拐してくれませんか」
ずぶ濡れになった小学生くらいの男の子が、俺の部屋の扉の前で待っていた。
* * *
「おつかれっしたぁ」
『雨のせいで客が少ないから早上がりしてくれ』という店長からのご命令を受け、午後一〇頃、土砂降りの中で帰路に着く。駅から近いこともあってか、早足で歩くサラリーマンの姿が多い。皆、考えていることは同じだろう。心の中で、雨雲に呪詛を唱えているに違いない。
いつもは自転車で走る道を、肩と足を濡らしながら歩く。明日はバイトも休みで、帰ってシャワーを浴びて寝るだけ。多くは明日も仕事であろうサラリーマンよりも足取りが軽いのは、そのせいだろうか。
自転車なら一〇分程度で帰れる道のりを、二〇分ほどかけて帰宅する。築何年になるのかも分からないボロアパートが、視界に映った。
二階の一番奥……二〇四号室。雨で殺人級に滑る鉄階段を上がり切ると、部屋の前に見知らぬ子供が立っているのが見えた。通路には屋根はあるものの、穴だらけで雨を防ぐのには何の役にも立たない。辛うじて穴の空いていない場所で、ぼうっと立ちながら俯く子供は、傘も手にしておらず、酷くずぶ濡れだった。
「……あの、うちに何か用?」
そう声をかけると、子供はゆっくりと顔を上げた。
男の子だった。小学校高学年くらいの歳の子だ。男の子は目をまんまると見開き、じっと、こちらを見つめている。二度目にはなるが、見覚えはない。
「……お兄さん」
少年が口を開く。何を言うのかと疑問に思っていると、少年の口から、衝撃的な言葉が発せられた。
「……お願いします。僕を、誘拐してくれませんか」
「……は? ゆ、誘拐?」
こくりと、小さく頷く少年。一瞬、聞き間違いなのかと耳を疑ったものの、どうやらそうではないようだ。
新手の詐欺か何かだろうか。ここでこの子を招き入れると、裏から親が現れて、あらぬ罪を着せられる、だとか。物騒な世の中だ。あり得ない話ではない。
「えっと……知らない人をそういうのに巻き込んじゃ駄目だよ。巻き込むにしても、もっとお金を持ってそうな人にしないと」
「お願いします。少しの間だけでいいんです。僕を……誘拐してください」
優しく諭したつもりではあったが、少年は諦めずに、頭まで下げた。何か事情があるようには見える。だがしかし、こんな遅い時間に、小学生くらいの男の子が一人、見知らぬ男の部屋を尋ねるなど……ましてや、そんな子供を部屋に招き入れるなど、世間に知られれば、どんな目で見られるだろう。
極力、面倒ごとを避けたい性分だ。そうやって生きてきた。そういう意味で言えば、面倒ごとの種には水をやらないのが良い。この子供にどんな事情があるにせよ、関わらなければ巻き込まれる心配もないはずだ。
「……悪いんだけど、そういうのは他の人をあたってくれるかな。あんまり、面倒ごとには巻き込まれたくなくてさ」
ポケットから部屋の鍵を取り出し、傘を畳んで鍵を開ける。再び俯いた少年を横目に、部屋の中へ入った。
濡れたままの傘を傘立てに差し、鍵を閉めて靴を脱ぐ。そうして、框を跨いだその瞬間——何者かに背中を引っ張られたような感覚に襲われた。
思わず振り返り、覗き穴の蓋を回して外を見る。少年は相変わらず部屋の前に立っていて、横から叩きつけるような猛烈な雨に曝されていた。
面倒ごとには巻き込まれたくない。ましてや、こんなに小さい子供が、夜中に一人、『誘拐してください』だなんて、とびきりに面倒な事情を抱えているに違いない。
だが、もし……もしこれが詐欺などではなく、本当に困っているのだとしたら。この行動が、この子なりの精一杯のSOSだったとしたなら。
「……ああ、もうっ……」
面倒ごとには関わりたくはない。しかし、大人としての倫理観というやつが邪魔をして、見捨てることもできない。鍵をひねり、扉を開けると、少年はこちらを見つめた。感情が希薄なのだろうか。特別喜んでいる様子も、悲しんでいる様子も見られない。
「風邪引くといけないから……とりあえず、中で暖まりなよ、少年」
親指で背後にある部屋を指差すと、少年は小さく頷いて、扉をくぐった。このままでは廊下までびしょ濡れになると、急いで風呂場に向かい、ありったけのバスタオルをかき集め、少年を迎えた。
今日、僕を誘拐してください。 お茶漬け @shiona99
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