第2話 希望の薬の噂
夜が更けても、スラムの街並みは静けさを知らなかった。酔っ払いの怒声やどこか遠くで聞こえる銃声、そして腐った空気の中に浮遊する低いざわめき。ダイはそんな不穏な空気の中、いつもの路地を通り抜けていた。どこへ向かうのか、その足取りには迷いが感じられる。
「希望の薬」その言葉が彼の頭の中で繰り返される。闇市場で耳にした噂話が本当なら、妹アイの病気を救う可能性がある。しかし、それを手に入れる方法も、そのための金も、ダイには何一つ具体的な見通しがない。ただ、心の中で募る焦燥感だけが彼を駆り立てていた。
スラムの端にある、今にも崩れ落ちそうな建物に足を踏み入れると、中は薄暗い光で満たされていた。古びた電球がかろうじて灯りを放つ中、怪しい人々が群れていた。そこは、スラムの中でも特に危険とされる場所だった。闇市場で生き抜くには、狡猾さと無慈悲さが求められる。
「ダイ、お前も来たのか」
突然、背後から声が響いた。振り返ると、そこには知り合いの青年マルクが立っていた。マルクはダイと同じく日雇い労働で生計を立てているが、その一方で危険な仕事にも手を染めているという噂が絶えなかった。
「マルクか……。お前、希望の薬って話を聞いたことがあるか?」
ダイの問いに、マルクはしばらく沈黙した後、口元に薄い笑みを浮かべた。
「ああ、聞いたことはある。だが、お前が手に入れるのは無理だろうな。あれは金持ちの連中が遊び半分で手を出すような代物だ」
「それでもいい。どこに行けば手に入るか教えてくれ」
ダイの真剣な眼差しに、マルクは少し驚いた様子を見せたが、すぐに表情を引き締めた。
「……情報をやるのはいいが、タダじゃない。お前にそれだけの価値を見せてもらわないとな」
「どういう意味だ?」
「簡単な話さ。俺の代わりにある取引に参加しろ。成功すれば、薬の手がかりを教えてやる」
ダイは迷った。マルクの言う「取引」がどれほど危険かは想像に難くない。しかし、妹を救うためには何かを犠牲にする覚悟が必要だった。
「わかった。やるよ」
その返事を聞いたマルクは満足げに頷き、詳細を語り始めた。
その夜、ダイは指定された倉庫へと向かった。そこで待っていたのは、黒いスーツに身を包んだ男たちと、積み上げられた箱の数々だった。取引相手らしき人物が現れると、緊張感が一気に高まった。
「こいつが新人か?」
スーツ姿の男がダイを一瞥する。マルクの口利きがあったおかげで、何とかその場に留まることが許された。
「荷物を運べ。それだけでいい」
簡単な指示に見えたが、倉庫の外に出ると、異常な数の監視カメラや見張りが配置されていることに気づいた。運ぶ先はスラムの外れ、富裕層の居住地に近い場所だという。
車に乗せられたダイは、深い闇の中で自分の選択が正しかったのかを問い続けた。もしこれが失敗すれば、自分だけでなく、アイの命までも危険にさらすことになる。それでも、止まるわけにはいかなかった。
到着した先は、明らかにスラムの雰囲気とは異なる清潔で整った施設だった。荷物を指定の場所に下ろし、ダイはマルクに連絡を入れる。
「終わったぞ。次は何をすればいい?」
電話越しのマルクの声は、どこか満足げだった。
「よくやった。お前には報酬として例の情報を渡す。だが気をつけろ。その薬を手に入れるには、もっと大きな覚悟が必要だ」
その言葉を聞き、ダイはようやく一息ついた。しかし、彼の心の中には、次に待ち受ける困難への不安と覚悟が交錯していた。
夜空を見上げると、灰色の雲の隙間からわずかに星が見えた。それは、スラムに生きる者たちにとって遠い希望の象徴だった。そしてダイは、その希望を掴むために、さらに深い闇へと足を踏み入れる覚悟を決めた。
果てなき夜明け 岡部龍海 @ryukai_okabe
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