果てなき夜明け
岡部龍海
第1話 絶望の始まり
廃墟と化した都市の空気は、どこか腐敗した鉄と油の匂いを漂わせていた。灰色の空が延々と広がり、太陽の光はほとんど遮られている。ここは、貧困層が押し込められた街、通称「スラム」。富裕層が住むという「楽園」とは、決して交わることのない場所だ。
ダイは一日の始まりを告げるアラーム音で目を覚ました。狭い部屋の天井は剥がれ落ちた塗装の跡だらけで、ところどころに雨漏りの痕が残っている。隣のベッドには妹のアイが静かに眠っていた。その顔色は青白く、浅い息遣いが彼女の体力の衰えを物語っている。
「また今日も、どうにかして金を稼がなきゃな……」
ダイはつぶやくように言うと、椅子に掛けてあった薄汚れたジャケットを羽織り、机の上に置いてある薬瓶を手に取った。アイの命をつなぎとめているこの薬も、あと数日分しか残っていない。
彼はそっとベッドの横に座り、薬を用意する。アイの目がゆっくりと開いた。
「兄ちゃん」
アイのかすれた声が響く。ダイは無理に笑顔を作りながら、
「おはよう、アイ。今日は体調どうだ?」
「うん、平気」
そう答えるものの、彼女の声は力なく、皮膚の薄さが浮き彫りになる腕を見ると、その言葉がどれほど虚勢なのかがわかる。彼女は笑顔を作ろうとしたが、その笑顔もすぐに消えてしまった。
ダイは薬を飲ませ、布団を整えた。妹を一人残して外に出るのは心苦しいが、金を稼がなければ生活すら維持できない。スラムでは、何もしなければ飢えと病に押しつぶされるだけだ。
街に出たダイは、陰鬱な雰囲気に包まれたスラムを歩く。錆びついた鉄骨の下をすり抜け、瓦礫が散乱する路地裏を進む中で、彼の表情は険しくなっていった。通りを歩く人々の顔も、希望を失った者たちの無表情さが浮かんでいる。
ダイは、日雇いの作業場へと向かった。そこでは、廃材を解体し、有用な部品を回収する仕事が待っている。作業場には同じような境遇の者たちが集まっており、ダイもその一人として黙々と手を動かす。しかし、得られる賃金は微々たるもので、アイの薬代や生活費をまかなうには到底足りない。
昼休みの時間、同僚の一人がダイに話しかけてきた。
「ダイ、今日も大変そうだな。妹さんの具合はどうだ?」
「正直、よくはない。薬が足りないんだ」
「そうか……」
同僚は気まずそうに視線をそらした。彼もまた、家族を支えるために働いている身であり、余裕がないのはお互い様だった。
仕事を終えた夕方、ダイは賃金を受け取り、その足で薬局へと向かった。しかし、彼が買えるのは最低限の量だけだ。アイの症状が進行している以上、これでは焼け石に水だと理解している。それでも、他に選択肢はなかった。
家に戻る途中、ダイは「楽園」を見上げた。高層ビルが立ち並ぶその場所は、スラムとはまるで別世界のようだ。光り輝く街並み、きらびやかな広告、そして清潔さ。そこでは、病気も貧困も存在しないという。
「奴らがこんなにも裕福なのに、俺たちはこんな生活をしている。どうして、こんな不公平な世界が許されるんだ……」
ダイの胸には怒りが渦巻いていた。しかし、その怒りは何も変えられない現実の前で空虚なものに終わるだけだった。彼は拳を握りしめながら、うなだれて歩き続けた。
家に戻ると、アイはベッドの上で本を読んでいた。彼女がこんな小さな楽しみを見つけられるのは、まだ救いだとダイは思う。
「ただいま、アイ」
「おかえり、兄ちゃん」
彼女の微笑みに、ダイは少しだけ気持ちが和らぐ。しかし、これ以上の時間を無駄にしている余裕はなかった。彼は机に向かい、何かしらの方法で状況を打開する策を考え始める。
その夜、ダイはスラムの闇市場に足を運んだ。そこでは、日常の物資から違法な品物まで、あらゆるものが取引されている。ダイはそこに集う人々の間で、噂話に耳を傾けた。
「聞いたか?あの『希望の薬』の話」
「いや、何だそれ?」
「すごい薬らしい。どんな病気でも治せるって。ただし、値段は法外だ」
ダイの胸がざわめいた。「どんな病でも治せる」その言葉が彼の耳に残る。
「それはどこで手に入る?」
「さあな。ただ、金持ち連中が持ってるって話だ。俺たちには縁のない代物さ」
その言葉に、ダイは悔しさを覚えながらも、何か希望の光を見た気がした。
帰路につく中で、彼は考え続けた。この噂が本当ならば、アイを救える可能性がある。しかし、そのためには多額の金が必要だ。どんな手を使ってでも、彼はその薬を手に入れる決意を固めていった。
その夜、アイが静かに眠る中、ダイは一人、闇の中で拳を握りしめていた。
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