後日、尽時は今までになく軽快な足取りで陰陽寮に足を向けていた。


 書物を抱えて渡り廊下を歩いていたあの学生を見つけて声をかけ、「真遠はいるか?」と訊くと、「あぁ検非違使どの。師匠なら、もうすぐ戻られると思いますよ」と嬉しい答えがあった。

「中で待たれますか?」

 親切にもそう訊かれて、尽時は一拍おいてからわざとらしくうーんと首をひねる。

「ま、そうさせてもらってもいいんだけどな~。なんせ俺、ついこの前とんでもねえもんを斬ったばっかりだからよぉ。穢れを祓う陰陽師サマの本拠地に上がり込んで障りがあったら悪いし? 遠慮したほうがいいと思うんだよな~」

「あっ、そうでしたね!」

 純朴な青年はぽんと手を打ち、頬を紅潮させる。

「聞けば検非違使どのは、蔵人頭どのを取り殺そうとした法師陰陽師の悪霊を見事に撃退なさったとか! 主上も驚いておられたそうですね!」

「はっはっは、いや~やっちまったわ~こんなに目立つ予定じゃなかったんだが!」

 口ではそう言いつつ、顔がにやけるのは止められない。


 あの晩の尽時の判断は間違っていなかったようで、煙のようにかき消えた式神と法師陰陽師はあれきり姿を見せていない。

 蔵人頭は朝にはすっかり快復し、自宅に籠もって喪に服しながら呪殺された娘の弔いをどの吉日にするのが適当かを検討している。

 尽時のもとには蔵人頭からの使者がやってきて、後始末が落ち着いてから改めてお礼をさせてほしいと書かれた文とともに、「今はこれだけなのですが」という前置きで絹の反物を贈られた。しかも掻練(かいねり)である。絹の生糸を灰汁で煮込み、絹の光沢と柔らかな肌触りを引き出した高級品だ。

 それだけでも踊り出しそうだったというのに、尽時が自慢するまでもなくあっという間に噂は千里を走り、主上の耳まで驚かせたらしい。

 真遠が「検非違使なら穢気に対抗できる」と言った通り、特に体調を崩したりもしていないし、これで浮かれずにいられようか。


 ただ強いて言うなら、解せないのは真遠の対応だ。

 尽時はこの学生が真遠の教え子らしいということを踏まえ、ちょっと人目を憚りながら訊く。

「けど……あー、これ言っていいのか分かんねえんだが……実はあの晩、安先生は来ずじまいだったんだよ。使用人連中には安先生が来るって嘘ついちまったから噂じゃ安先生が活躍したことになってるが、屋敷にいたのは俺とあいつだけだった。なのに真遠のヤツ、なんで安先生の手柄ってことにされて黙ってんだ? あいつ安先生が嫌いなんだろ?」

「……ああ、やはりそうだったのですか」

 学生は驚きもせず苦笑する。

 蔵人頭は当然それどころではなかったので、主人を呪詛から救った陰陽師と検非違使の噂を広めたのはあの晩避難させておいた彼の使用人たちだった。

 彼らは安先生が駆けつけてくれたものと思い込んでいたので、噂の中の真遠は名も無き助手扱いだ。

 別に真遠は尽時に口止めなどはしなかったが、かといって自分で「あの晩安先生は蔵人頭を見捨て、屋敷に来なかった。彼を守ったのは自分と尽時だ」と訂正することもなかった。

 意識がもうろうとしていた蔵人頭も真実は知らない。

 しかし、尽時相手にさえああなのだから、安先生にはもっと手厚く礼をするだろう。

(ただでさえ嫌いなやつに手柄かっさらわれたんだ。怒り狂ってもおかしくねぇよな)

 自分がもらえたはずの莫大な報酬を、保身にかかりきりだった上司にかっさらわれて平気な人間なんてこの世にいるのだろうか。

 尽時には真遠が何を考えているのだかちっとも理解できない。

「本気で意味が分からねえ。あいつ霞食って生きてる仙人かなにかか?」

 報酬に興味がないのにあれだけ仕事熱心でいられるのは、よっぽど実家が太いとか、金持ちの女がいるとかだろうかと邪推してしまう。

 だったらいっそ羨ましいが。

 いやむしろ、絶対に許せないが。

 ところが学生は首を横に振り、

「師匠も好きで沈黙しているわけではないと思いますよ」

「なら、何で?」

 首をひねる尽時に、学生は苦い顔で打ち明ける。

「……大きな声では言えませんが、師匠のご実家は由緒ある呪禁(じゅごん)の家系なのですが、父君と兄君を失い、母君もこの二年病気で伏せっていらっしゃって、かなり苦しい状況にあります」

 また知らない専門用語が出てきた。

「……じゅごんって?」

「自然界の事物を気の操作によって活殺する大陸由来の術で、本来は、鬼神の気にあてられて病気になった人を治す医術でした。術を行使している間はほぼ身動きができないと言われるほど非常な集中力を要する、難しい術なんですが……。たいていの陰陽師は、現職のうちに裕福な家のお抱えになるのが一番ですが、呪禁の術には分かりやすく現世利益を約束する祭祀などはないので、なんというか、派手ではないですし、集客力もありません。今となっては時代後れと言われたりして……」

「し、集客力ときたか……」

 尽時はあんまり身も蓋もない言い方に口元をひくつかせるが、学生はうっかり口を滑らせたわけではなかったようで、「現実は厳しいですよね」と溜め息をつく。

「……たとえいま真実を言ったとしても、安先生の発言力と政治力にはとうてい敵わないんです。だったら安先生には不気味に見えるくらい完全に沈黙を貫いて、いつか安先生が勝手に疑心暗鬼になって、ご機嫌うかがいをしてくるのを待ったほうがいいと判断なさったんでしょう。以前にも何度かこういったことはありました」

「……はあ。ったく、権力には勝てねえな……」

 世の中には陰陽道とか宿曜道とか密教とか仏教とか、超自然的な技術を使う宗教家がひしめいている。

 その中で真遠が使う呪禁というのがどれくらい強力な術なのかは尽時には分からないが、少なくとも陰陽寮内では、すでに主流を外れた古くさくて地味な術だと思われているらしい。

 二年以上も病を煩っている母親を抱えていては、金持ちの女がいるという線はなさそうだし、経済状況も芳しくないだろう。

(つっても、気をどうこうする術だったからこそ安先生が匙を投げた式神を撃退できたんだし、今でも全然通用してんじゃねえか。自己演出が下手な陰陽師は稼げねーんだよって言われたらそりゃそうかもしれねえが、派手ならいいってもんでもないと思うけどな……)

 官人陰陽師と法師陰陽師だけでなく、官人陰陽師のあいだでも派手だ地味だと格付けなんかされるんだなあと知ったところで、ただ空しくなるばかりだ。

 尽時は白けた顔で頭を掻く。

「蔵人頭からじゃなく、いつか安先生から報酬って体の口止め料をもらえりゃ御の字ってことで呑み込むことにしたわけか」

「だと思いますよ。師匠だってお金は必要です。……お母上のために」

 しみじみと言われ、尽時はふと首を傾げた。

「……それならそれで、またなんで君はそんな真遠に弟子入りしたんだ?」

 すると学生は少し恥ずかしそうに視線を下げ、

「僕の場合は……その、一族では落ちこぼれ扱いだったものですから、初めは反発心で。僕、いちおう安倍の人間なんです」

「えっ、安倍?」

「はい。ですのでぜひとも安倍とか安倍くんではなく、下の長明(ながあき)でお呼びください」

 照れくさそうに笑う長明は、とても安先生の血縁にして真遠の弟子とは思えない純朴さだ。

 失礼ながら、尽時は目を瞬いた。

 この素朴な人格で、実家の当主と自分の師匠が紙一重で正面衝突を免れているような現状をどう受け止めているのだろう。もしその負荷で長明の性格が歪んだら、真遠はちゃんと謝ったほうがいいと思う。


 そのとき、「なんでここにいるんだ?」と怪訝そうな声がかかった。

 真遠が出先から戻ってきたのだ。

「おう」

「おう、じゃない。もう用はないはずだろ……」

 軽く手を挙げると、ますます苦い顔になって足早に近づいてくる。

「どこ行ってたんだよおまえ」

「安先生の屋敷だよ、朝っぱらから呼び出されたんだ。長明、不審者の応対ご苦労。行っていいぞ」

 師の許しを得て、長明はでは失礼しますと一礼して学舎のほうへ去って行く。

 尽時は片方の眉を跳ね上げ、

「だぁれが不審者だよ。こちとら一躍噂の的になったお手柄検非違使サマなんですけど」

「ずいぶん気をよくしてるが、次に噂の的になる検非違使は、おまえじゃないぞ」

 真遠はわざと尽時の興味を惹くような言い方をする。

 長明の前だったから態度を引き締めていただけで、本気で尽時の訪問を迷惑がっていたわけではないらしい。

「さしあたり安先生は、検非違使庁そのものに陰陽寮から正式に抗議するのはやめるそうだ。といっても、蔵人頭の娘という犠牲者が出た以上、その責を負うべきは儀式を怠った経仲だということははっきりさせておきたいから、最低でも主上にはその旨を伝えると言ってる。俺としては別段、現状になにも言うことはない」

「言うことはあるだろいくらでも……。けどまぁ、つまり経仲が名を落とすのは確実なんだな?」

 尽時は露骨に顔を明るくする。

 元はと言えば、今回は上司の経仲の手抜かりで始まった事件なのだ。

 尽時としてはただ出世の邪魔というだけでなく、バチの当たってほしい人物だった。

「主上には告げ口するけど言いふらしはしないよ、なんて建前、通用するわけないからな。主上に言うってことは、天下に発表するのと同じだ」

「おお~……最近俺に都合のいいことばっかり起こって怖いくらいだぜ……」

 あまりに吉報が続くので、尽時は思わず手廂をして苦悩する真似などしてしまう。

 真遠はそれを冷めた目で眺め、

「こうなるのを期待してたくせに。どうせ、安先生の意向を探りにここへ来たんだろ?」

「それだけが理由じゃねえって」

 真遠の考えが気になっていたのも事実だし、用件は他にもある。

 尽時はにやりと笑って真遠の冷え切った目を覗き込む。

「おまえさ、俺を説得したときに『これも功徳だ、運気が上がるぞ』って言ったろ? あれって案外真理なのかもしれねーと思ってよ。鬼を斬って名を上げるのも、案外悪くねぇのかも?」

「……、はあっ?」

 文官だけあって、真遠は早くも尽時の言わんとすることを察したようだった。

 日常的に異形のものを見ているその目に浮かぶ色が、信じられない珍品を見たときのそれに変わっていく。

「……お、おまえ……バカなのか? 鬼神を斬らされて味を占めるヤツがあるかっ?」

「そこは奉仕精神に目覚めたと言えよ。日々の業務をこなしても誰も褒めちゃくれないが、善行ってのは一度デカいのを達成すれば臨時収入が入ったり、主上にまで評判が届くこともあるんだな。そのことがようやく分かったんだ……俺は生まれ変わった! 真遠、毎日ひいひい言いながら上司に振り回されてる嵐の中の小舟どうし、協力してこの京を守っていこうぜ!」

 尽時がはつらつとした笑顔で差し出した手を、しかし真遠は柳眉を吊り上げて振り払う。ちっ、つれないやつだ。

「カネのために手段を選ばないにもほどがあるだろ! 生まれ変わって早々臨時収入なんて言葉を使っといて、なにが奉仕精神だ? どの口が京を守るって?」

「なんだよ、おまえの言う理屈を信じて斬った張ったを演じてくれて、しかも穢れにめっぽう強い検非違使が、今ならタダで手札に加わるんだぞ?」

 そう熱弁を振るっても、真遠はふんと鼻で笑う。

「俺はそんな札を握ってやりたいことなんかないし、取り入るなら俺じゃなく安先生にしろよ。そのほうがずっと手っ取り早く出世できる。噂になってるうちに今みたく売り込めば、話くらいは聞いてくれるかもしれないぞ」

 この返しには尽時のほうが舌を出した。

「冗談言うなよ、それは俺が嫌だ」

「はあ? 天下の安先生だぞ、関白左大臣御用達の。これ以上ない出世の近道じゃねぇか」

「そりゃ知ってるが……」

 言いさして、尽時は今回の件での安先生の対応の数々を思い返す。

 彼は、死に瀕していた蔵人頭からの要請にだんまりを決め込み、屋敷に駆けつけもしなかったのに、蔵人頭が助かったのは自分の功績だとする噂を放置している。

 加えて、経仲への糾弾を含め、自分がこの件に関して表立って発言する前に、真遠ひとりを自邸に呼んで話をつけたあたりも周到だ。

(……いくら金持ちでも、こっちが使う側ならまだしも使われるとなると、その周到さが怖え)

 陰陽師も自己演出に四苦八苦する時代である。

 安先生も人知れず苦労しているのかもしれないが、尽時としてはもう彼の言う言葉を信用する気は起こらない。

 真遠は指示に際して陰陽師の論理を尽時に理解させようとするが、安先生なら、理解されないほうが都合がいいと考えて煙に巻こうとするのではないだろうか。

 おそらく陰陽師としては、真遠の思考のほうが珍しいのだ。

(少なくとも、真遠のほうがよっぽど信用できるぜ)

 ちょっと正義漢で口うるさくて、言うことが鼻につくが。百歩譲ってそれくらいは我慢しよう。

 尽時は肩をすくめ、

「アレはちょっと、形だけだとしても頭を下げる気になれねえわ。正直、おまえの安先生嫌いも仕方ねえと思ったしよ」

「おまえは俺にも頭下げる気なんか毛頭ないだろ」

 真遠はそう吐き捨ててはきたが、尽時が平気な顔でじっと見下ろしていると、しばしの沈黙のあと根負けしたように大きく溜め息をついた。

「…………上司の悪口に共感されただけでまぁいいかと思う自分が、本っっ気で嫌になる……」

「……。俺が言うことでもねえけどよ、おまえ一回休み取ったほうがいいって」

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2024年12月5日 23:00
2024年12月6日 23:00
2024年12月7日 23:00

陰陽始末~出世のためなら鬼、斬ります。~ 花村すたじお @SutaHana

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