四
日没が迫っている。
手分けして寝殿内に蔵人頭以外の人間が残っていないか見回ってから、尽時と真遠は蔵人頭が寝込んでいる寝所の前に戻ってきた。
ただ、心配事がひとつあるとすれば。
(本当に安先生は来ずじまいか……)
邸内の様子を見る限り、安先生は適当な理由をつけて「申し訳ありませんが本日はうかがえません」と使者を遣わすことさえもしていないようだ。
まぁ、もしそんなことを連絡されれば尽時たちの言い分との食い違いを怪しまれ、屋敷を追い出されるかもしれないから、好都合ではあるが。
真遠が「安先生は他人のために、ダメ元で自分の評判を落とすような賭けに出るほど優しくはない」と主張する理由が少し分かってきた。
(しょせん摂関家の縁者でもない、いち学者の官人陰陽師が昇り詰められる官職なんてたかが知れてるし、呪詛を請け負って荒稼ぎもできねえんだから、権力者のお抱えになるしか一財産を築く道はねえってことかね。安先生も超然としたツラの下じゃ、自己演出の心配ばっかしてんのかなぁ。……やっぱ世の中カネだわ)
尽時は色んな意味で暗澹たる気分になってきた。
寝所を取り巻く廂のさらに外側、簀(すのこ)と呼ばれる濡れ縁に腰を下ろす。
その際に真遠がごく自然に単衣でくるんで抱えていた法師の首を床に置き、尽時はやれやれと肩をすくめる。もはや死穢がどうのと騒ぎ立てる気も起こらない。
「これなら実は安先生が来てないってバレねえだろうけどよ……。で、こっからどうするんだ?」
呻き声とぜえぜえと苦しげな呼吸音が、御簾の向こうから聞こえてくる。病状が悪化の一途を辿っている蔵人頭に、間違ってもこの密談が聞こえてしまわないよう、尽時は小声で訊ねた。
真遠は尽時の腰の太刀をちらりと見る。
「一か八か……式神が蔵人頭を呪殺しに姿を現したところを、俺とおまえで打ち倒す。それしかない」
この言葉は完全に尽時の虚を衝いた。
ぎょっと目を剥いて、
「お、俺もか!?」
「じゃなきゃここまで連れてきてねえよ」
「分かるかよそんなの!?」
生首を回収させるのに手が要っただけで、まさか見えない式神との対決に巻き込まれるなんて予想できるわけがない。
「なんで俺が出張ることになんのよ? 源氏の武士でもあるまいし化け物退治なんかしたことねーぞ!」
血の気を引かせ、わが耳を疑う尽時に、真遠がふっと笑む。とはいえその面には冷や汗がにじみ、追い詰められて開き直った窮鼠の強がりのようにしか見えない。
「今回武士かどうかは関係ない。検非違使であることが重要なんだ。俺が蔵人頭に説明したの、聞いてなかったのか? お前なら穢れに耐えられる。適役だ」
「あ、あんなのただの方便だと思うだろ……!」
呪術は専門外の検非違使がなぜこの場にいるのかと訊ねる蔵人頭に、検非違使とは捕らえた犯罪者の罪業を清算し、京内の汚穢物を清め、主上のご意志を各地の神々に伝える者だ、と真遠は答えていた。
しかしそれが本気の言葉だとは思いもしなかった。
混乱する尽時を、真遠は根気よく諭す。
「いいか、検非違使は武士とかと違って、日常的に穢れに触れていながら、それと同時に穢れを清められる唯一の存在だ。普通は禊祓もなしにこれだけ死穢に触れ続けて、ぴんぴんしていられるはずがないんだよ」
国家の一大事である祭事の前に掃除をやらされるのも、一種の清め。
天皇の名において主要な神社へ奉幣を捧げる役目も、検非違使の仕事に含まれている。
追捕の際に犯人や逆賊と殺し合いになることも珍しくなく、肉刑の執行では大量の血の穢れに接し、死刑の場合は死穢に触れ、殺人の罪業まで負うことになるのに、その都度の禊祓が義務づけられているわけでもない。
にも関わらず、穢れがあってはならない京内に暮らし、差別されたり特定の区画へ追いやられたりといったこともない。病人や妊婦は穢れを生ずると考えられて、身内に京外へ追い出されることすらあるのに。
どうだ、考えれば考えるほど特別だろうと真遠は言う。
「この国の命運を背負う主上に選ばれた検非違使だからこそ、穢気(えき)に対抗できるんだよ。『気』の対処なら俺の得意でもあるから、細いとはいえ、ここに勝ち筋を見いだせるはずだ。法師の首もあることだし」
「……んなこと言われても、式神って暗殺者みてーなもんなんだろ?」
尽時はまだ食い下がった。
どんなに備えても常人では式神の攻撃を防げないという話をさっき聞いたところだ。
検非違使が特別だといったって、自分が対抗できるとは思えない。
「穢れにあてられはしねえってだけで、化け物の剛力で取って食われたりバサーっと斬られたりしたら、それだけで死ねるだろ。真っ向勝負の土俵にも上がれねえよ!」
「確かに、そういう物理的な暴力を行使することで標的を殺す式神もいる。朝廷に仇なす逆賊が現れたときに、凶神を式神にして鏑矢で射殺させる呪法なんかはその最たるものだな。だが、今回の式神がそのたぐいのものじゃないことは分かってる。その証拠に、蔵人頭は病に伏してはいるが外傷はなく、突然死した蔵人頭の娘の遺体にも傷らしきものはなかった」
「……」
そういえば真遠は、わざわざ家司に案内を頼んでまで、奥の部屋に安置されていた娘の遺体を確認していた。尽時はあぁまた進んで死穢を食らうようなことをとげんなりしつつ、もはや反抗する気力もなく溜め息交じりについていったのだが。
(……同じ『遺体に外傷がない』って情報でも、陰陽師サマにはそういう違いを判別するとっかかりになるわけか)
今朝、娘に傷らしいものはないと看督長に報告を受けていた尽時は、だったら病死か、やはり呪詛による死なのだろう、としか思わなかった。
「死霊や鬼神の毒気にあてられたせいで突然死したり、人事不省・発熱・譫妄・下痢・嘔吐などの急激な心身の変調に見舞われることは『鬼病(きびょう)』と呼ぶ。蔵人頭とその娘の症状はこの鬼病によるものだ。つまり、気を武器にしている式神に対して、穢気に強い検非違使なら有利を取れる。そう心配するな」
真遠は諦め悪く、繰り返し尽時を発奮させようとしてくる。
特に蔵人頭に恩があるとか、利害関係にあるわけでもないくせに、よくもここまで親身になれるものだ。これが正義漢ってやつなのか。
尽時はなにか反論しようと言葉を探すのだが、訳の分からない陰陽師の論理をどう突き崩せばいいのか、見当も付かない。
真遠にはもとより折れる気などなさそうだし。
(ちくしょー……素人を思いっきり戦力に数えやがって。ハナからそのつもりだったのか? 俺まで矢面に立たされると知ってたらとっくに逃げてたっての……)
窮した尽時は、座り込んだまま両手を後ろに突き、赤い陽が今にも曇天に別れを告げて沈もうとしているのを呆然と眺める。
このまま蔵人頭が死に、安先生の言いつけを忘れて全てを台無しにした間抜けな処刑人の部下として主上に記憶され、出世の可能性を永遠に失うか。
今日知り合ったばかりの陰陽師に付き合って、命がけで化け物と対決するか。
沈んでいく夕陽はどんどん光量を落として輪郭をぼやけさせ、刻一刻と夜が近づいてくる。天秤をいじくり回している猶予はあまりない。
はあ、と大きく溜め息をついて、尽時は億劫そうに真遠を見た。
「……しゃーねえなぁ。仕事中毒の陰陽師に行き当たっちまったのが運の尽きだと思って諦めるか」
「ふん、たまには徳を積んどけよ。運気が上がるぞ」
真遠がからかうような笑みを浮かべ、軽口を叩く。ぜひともそうであってほしいものだ。
陽が沈む。
闇が京の空を覆う。
ふたりが緊張を気合いに変換するかのように深呼吸した、次の瞬間、月と星が頭上から消え失せていた。
明らかな異常が起ころうとしている。
漆黒に塗り替えられた屋敷の庭の中ほど、なにもないはずの宙にボッと赤く炎が灯った。
黒雲がどこからともなく集まってきて、腐乱した家畜の死体のようなじっとりと湿った悪臭が漂い出す。
ぐぶ、ぐぶ、ぐぶ、と、嫌な水気のある笑い声が地の底から響いてくる。
赤々と燃える炎に照らされたわずかな空間から、ぬうっと唐突に異形の顔が生えた。
額には太い角が突き出ている。
童子の衣装をまといながら、体躯は顔が前のめりになればなるだけ続いているように巨大だった。
「…………っ」
(これが、本物の鬼……)
思わず息を呑んだ尽時を、真遠が目で制する。
彼はいつの間にか右手で刀印――陰陽師が術を行使する際によくする、刀を模した人差し指と中指のみをまっすぐ揃えて伸ばす仕草――を結んでいる。尽時に式神の姿が見えているのも何らかの術の効果なのだろう。
(……なるほど、こんなもんを日常的に見てるヤツは対応が早い)
太刀に伸ばす手の震えは、武者震いだと思うようにする。
尽時は恐怖と驚きが一周回って敵意に変じた笑みを口の端に浮かべ、敵の動きを観察する。
ぐぶ、ぐぶ、ぐぶ、と笑いながら巨躯を現した鬼が、べちゃりと濡れた重たい肉が落ちる音をさせて着地する。
地面がどこにあるのかも、この漆黒の闇では判然としないが、確かに着地した。
額の角の先に腐臭を凝縮した炎を燃やし、六本の痩せこけた腕で丸く腹の出た胴体を支えて、首だけが無限に続いているような長い身体を一度大きくうねらせる。
尽時が穢れというものを目で見たのは、これが初めてだった。
すさまじい悪臭が吹き荒れ、悪寒と吐き気がせり上がる。
ひどく近い場所から遠雷が轟き、黒雲が庭に満ちていく。
(真遠――)
とっさに視線を向けた先の真遠は、刀印を結んだ姿勢でじっと式神を睨んでいる。
「――おのれ――誰じゃ」
異形の口が真っ赤に裂け、地響きのような声を発する。
「あの男へ向けた我が邪気を遮るは――」
寝所の御簾が式神の呼気ひとつでバタバタと台風の晩のように揺れた。蔵人頭の呻き声がひときわ大きく、苦しげになる。
(どうするつもりだ、真遠)
どうやら式神には尽時たちの姿が見えていないようだ。
不意打ちの好機だが、太刀に手を掛け、息を潜めて真遠の判断を待つ。
短い沈黙のあと、真遠が静かに口を開いた。
「……死人の使いっ走りとはご苦労なことじゃないか、囚われの鬼神よ。その穢気を収めろ。今なら許してやろう」
ぐぶ、と鬼が口角に人血の泡を飛ばす。
「貴様――陰陽師か。しかし安先生ではない――雑魚めが、ほざいたな」
筋ばった六本の腕が闇をうごめき、巨躯がまたぶるんと波打つ。
「我が邪気でひねり殺してくれるわッ」
異形が叫ぶと同時に、ぶわりと穢気の塊が膨れ上がる。
が、尽時にも真遠にも、次に押し寄せるかと思われた穢気の暴風は届かなかった。
奇妙な事態に尽時は戸惑う。
すると異形の式神が「ぐううっ」と身をよじって苦しみだした。
巨躯が闇をのたうち、赤い炎が火の粉と残像をまき散らす。
「ぐううう、ううっ……わ、我が気を減ずるか! よくもかような古き手を――」
「気を封じられて苦しいか? 自由がほしいだろう?」
声音は涼しげに取り繕いながら、刀印を結ぶ真遠は額に汗を浮かせている。
二、三、と式神がのたうつ度、続けざまに穢気が黒雲となって襲うが、真遠の努力によって防がれているのだと分かる。
(けど、そういつまでも防戦一方じゃ……)
尽時は焦燥に背を炙られ、今すぐにでも太刀を抜いて自分の身を守る本能だけで無茶苦茶に振り回したくなる。だが、真遠の指示を待たねば勝ちは掴めない。
真遠は何食わぬ様子を保ちながら続ける。
「この御簾の奥の男を殺さない限り、おまえは自由になれないんだろう? 式神とはそういうものだ」
「ううう、うう……」
「なあ、死んだ坊主がそんなに偉いか? あわれな鬼神よ。さっきからおまえが一生懸命放っている穢気だが、そよ風みたいだ。死人なんかに使われて弱ってるんじゃないのか?」
「うううううう……ッ」
悶え苦しむ式神は、人間で言えば呼吸を封じられたのに近いのだろうか、苦痛のあまり天に伸び上がって、そしてその勢いのまま巨躯をさらに膨れ上がらせた。
空を背負っているかのような図体が穢気の黒雲をまとい、立ち塞がる。普通に考えればもはや太刀の斬撃が効く規模ではないが、尽時はただ油断なく待ち続ける。
(弱ってる今なら、やれるかもしれねぇ……相手が鬼でも……!)
真遠は式神を火で炙るように追い詰めていく。
「あのエセ坊主に立場を分からせてやりたくても、死人ではどうにもならんな。おかげで一蓮托生の術者はとっくにいち抜けしてるのに、おまえひとりが駆けずり回る羽目になってる。腹が立たないのか? 恨めしくないのか?」
矛先を式神のあるじに向けようとしているようだ。
「うぅ、う――」
血に濡れた牙が生えた大きな口が、しゅうしゅうと音を立てて穢れた呼気を吐き出すと、煙となって立ち上る。
「う――恨めしい――」
式神がそう怨嗟を吐き出したとき、真遠が尽時をちらりと横目で見た。
かと思えば、式神に気づかれないうちに再び意識を戻し、
「負け犬の遠吠えだな。何と言おうがおまえは死んだ坊主よりも下だ」
「違う……」
「何が違う? だって、死んだ坊主の使いっ走りをやってんだろ?」
「違う……」
「いや、その使いっ走りすら満足に出来てないな。挙げ句の果てに安先生でもない陰陽師に気を封じられてるんだからひどい落ちぶれぶりだ。……とはいえ、坊主がちゃんと生きておまえを使ってれば違ったかもな?」
「坊主が――いれば――」
「こんな横紙破りをされなけりゃ、俺なんか敵じゃなかったはずだ、そうだろう?」
「――そうだ、貴様など」
「俺も、蔵人頭も、本当ならひと捻りにできたのにな」
「そうだ、坊主さえ生きておれば――」
坊主さえ、というその恨みが凝り固まっていくように、真遠は苦悶の中にある式神を誘導していった。
(そうか、だからこの場に首を持ってきたのか)
ここに至って、尽時にも真遠が法師陰陽師の首を持ち出した理由が分かった。
呪殺に用いられるような猛悪凶神は強力だからこそ、自分も命令を遂行するまでは自由になれない代わりに、主人が自分と命運をともにすることを要求する。
それは超自然的な人外の者に対する報酬であり、礼節なのだろう。
法師陰陽師は、いわばその報酬を支払わないまま、式神を働かせているのだ。
安先生を出し抜くための策であっても、契約内容に縛られる習性を悪用され、報酬未払いでほとんど騙されたような立場の鬼神が憤らないわけがない。
もし今この瞬間、いち抜けして自分を旨味のない命令で縛った主人が現れたなら。この式神が、蔵人頭とどちらへ襲いかかるかなど火を見るより明らかだ。
このために、魂の残っている法師の首が必要だったのだ。
式神が水死体のようにぶよぶよした灰色の皮膚を怒りに震わせ、闇に真っ赤な恨みの炎をたぎらせる。
真遠が単衣でくるまれた法師の首を取り上げたのが、視界の端に映った。
「その坊主、ここにいるぞ!!」
真遠が単衣ごとそれを思いっきり放り投げる。
ほどけた単衣が宙に舞い、かっと血走った目を見開いた法師の首があらわになる。
その瞬間、また異変があった。
宙を飛んでいく法師の首を包囲するように、周囲の景色が塗り替えられていく。
古びた土塀が左右から巨大な門を挟むように闇に生じる。
それは間違いなく地獄への門、左獄の門の幻だった。
これを待っていたとばかりに、罪人たちの血を吸ってきた門は口を開けている。
天へ伸び上がっていた式神が、蛇のように長い身体を法師の首めがけて折った。
闇にバッと血が飛び散る。式神と法師の首が互いに喰らいついたのだ。
(――――やるしかねぇっ!!)
恐れを忘れろ。
その瞬間、尽時はほぼ反射で式神の尾を踏みつけ、高く飛び上がって、その首を両断した。
左獄の門が喰らいあったふたつの首を吸い込むように遠ざかる。
そして尽時が着地したときには、全ての異変は跡形もなく消え去って、薄雲に覆われた月と星が天空に戻っていたのだった。
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