左獄の門前には、京中の人々が貴賤を問わず集まって、ひどく騒いでいた。稚児を連れた僧侶や、左獄の獄吏までが寒空の下へ出てきて見物しながら「恐ろしい、恐ろしい」と言い合っている。

 人いきれに煩わされながらも、尽時と真遠は人垣をかき分けて前に出た。

 獄舎の周辺はいつもなんとも言えない悪臭が漂っている。

 古びた高い土塀に囲まれた板葺きの獄門は、簡単に打ち壊せそうな粗末な造りのはずだが、おびただしい死穢に触れ続けてきたためか、実際よりもずっと大きく、人を圧倒する不吉な威容を誇っているように見える。首があるときは特にだ。

 地獄門、などと世間で呼ばれるのも無理はない。

 法師陰陽師の首は門前に生えている栴檀(せんだん)の樹に晒されていた。

 剃髪している者の首は髻(もとどり)を使って固定することはできないので、頭蓋に空けた穴に赤い紐を通し、名を記した札をつけてくくりつけてある。

 異常だったのは、首が全く劣化していなかったことだ。

 その頬は妙な艶をぬるりと帯びており、噛みしめるように閉じている唇にはヒビのひとつもない。頭皮には湿り気を含んだ脂がにじみ出ている。

 固く閉ざされた瞼の奥の眼球も、体液を失ってしなびているような様子はない。

 それは尽時の心胆を寒からしめるには充分な光景だった。


「……まるでたった今斬られたみてえだ。や、やっぱ怨念とかそういうのが作用してんのか……?」

 呆然と呟くと、真遠がとんでもないことを言い出した。

「尽時、アレ外せるか?」

「はあ!?」

「別に汚れ仕事を押しつけてるわけじゃないからな。俺がやったっていいが、たぶん夕方まではかかるぞ」

「……堂々と言うことかぁ?」

「この奇妙にみずみずしい首、呪詛を解く糸口になるかもしれん。この際使えるものはなんでも使うさ」

 自分がやっても構わないと言った真遠の言葉に偽りはないようだ。恐ろしいことを平然と言ってくれる。

 気は進まないが、今は真遠の手を借りるほかない。

(ま、まあ、どうせ後で外して門の近くのどっかに埋めなきゃなんなかったしな、それが早まっただけと思えば……)

 尽時は湧き上がる怖気を抑え、樹に歩み寄る。

 太刀を佩き、特徴的な赤い布衫という出で立ちから、見物人はすぐに尽時が検非違使だと察したらしい。「なんだ?」「もう首を外すのか?」と騒ぎ立てるのんきな野次馬たちを無視して、すばやく樹に登り、紐をほどこうと試みる。

 しかし風雨にさらされても首が落ちないように固く結ばれた結び目はなかなか外れず、面倒になった尽時は腰の太刀を抜いてこぶの浮いた太い枝を根元から断ち切った。

 見物人がどよめき、獄舎の中から囚人たちまでが声をあげる。

 片手で太刀を持ち、もう片手で切り落とした枝をくくりつけられた首ごと掴んだ尽時は、バランスを崩して落ちてしまう前に自分から飛び降りた。

 これくらい、大した仕事でもない。

 着地の衝撃で手にした首がぶるんと揺れる感触が、吐き気がするほど不愉快だが、困惑している獄吏たちが止めに来る前にこの場を去らねばならない。

「なにしてんだ真遠、首は取ったんだから早く逃げるぞ」

「あ、ああ……」

 尽時の運動神経の良さを見て目を丸くしていた真遠が、急かされるまま少し遅れてきびすを返す。

 左京の四条以北の一帯は今をときめく貴族たちの高級住宅街で、街路の路面も日々牛馬に踏み固められていて歩きやすいし、主要な通りに面する屋敷の使用人たちがときどき清掃しているから、左京一条にあるこの左獄から蔵人頭の邸宅まではそう苦労せずに行けるだろう。

 蔵人頭のもとへ急ぐ道中、すれ違う通行人を驚かせてしまうのはもう仕方ない。

 優雅な女車に乗っている貴人すら、供の者たちが驚き騒ぐのに興味を引かれ、御簾の内側からこちらをうかがっているのは、少々痛快でもあったが。


.◆


 門の前で厭物を捜索していた蔵人頭の使用人に声を掛けると、粗末な水干姿の若い使用人は、振り向くなり「ぎゃああ!」と悲鳴をあげた。

 当然、その視線が釘付けになっているのは、尽時の手にある生首だ。

「く、く、くびっ……!? あ、あの法師の!?」

「待て待て話を聞いてくれ! ほらこの赤い布衫、俺は検非違使でこっちは陰陽師! しかも安先生の部下だ。こちらの蔵人頭どのが窮地にあると聞いて、急ぎ駆けつけたわけ! 首については呪法に必要なものだから、今回だけ許してくれ!」


 尽時が生首を袖で隠しながら言葉を尽くして弁明すると、使用人もどうにか事態を呑み込んでくれたようだった。

 彼の取り次ぎを受けた家司(けいし)――執事にあたる使用人――には、これで首を隠してほしいと単衣(ひとえ)を渡された。

 いまだに現役を張っているのが珍しい老年の家司は、経験豊富だけあって主人のために今は柔軟に対応すべきときだと悟ったようで、尽時と真遠は非常時ゆえの特例として邸内へ通された。

 貴族の最上位である公卿や、由緒ある名門の殿上人のそれに比べればまだ控えめな規模なのだろうが、美しい寝殿造(しんでんづくり)だ。

 主屋である寝殿の東西には渡り廊下で繋がれた副屋が設けられているし、船遊びは出来ないまでも立派な池もある。牛車を置く車宿や護衛を待機させておく侍所なども完備されている。

 これだけの構えが、式神の前では何の役にも立たないというのだからたまらない。

 蔵人頭は寝所で伏せっていた。

 その手前で先導していた家司が険しい顔で振り返り、

「……すでに厭物に侵され死穢の生じた邸内とはいえ、その首を持ち込まれるのは困ります。病床にある主にさらに死穢が障れば、安先生が到着される前に手遅れになりかねませぬ」

 尽時はそりゃそうだと納得したが、真遠は頑として譲らない。

「呪詛を解決するために必要なことです。蔵人頭どのには気づかれないようにしますから、どうかご容赦ください」

 と押し切ってしまった。まったく、こいつの強情さは筋金入りだ。

 仕方ないので、尽時は単衣でくるんだ生首を急いで背中に隠す。

 家司が下ろされていた御簾をあげ、几帳の奥に看病していた女房たちを引っ込ませ、主人に「安先生の部下の陰陽師どのと、検非違使どのがいらっしゃいました」と告げる。

 夜具をかぶって枕に頭を預け、うなされていた蔵人頭がうっすらと瞼を持ち上げて、縋るような目でこちらを見る。

 四十歳になるかならないかという歳の男だが、高熱と脱水に苦しめられている面貌は痩せこけて見えた。

「安先生の……? こ、これはありがたい……このような恰好で申し訳ないのですが……」

「お気遣いなく。楽になさってください」

 尽時と並んで廂(ひさし)――母屋の周囲に確保された空間で、襖や障子で区切って客人を招じ入れたりする――に敷かれた畳に腰を下ろしながら、真遠が言った。

 尽時はというと、蔵人頭の様子を目の当たりにして完全に呑まれていた。

(……思ってたよりひでえな。本当に死にかけてんじゃねえか……)

 尽時は呪詛された人間が苦しんでいるところを目の当たりにした経験などない。

 これだけ立派な家と使用人に守られ、優秀な女房たちに看病されている蔵人頭が、訳も分からず見えない式神の力によって殺されようとしている光景は衝撃的だった。

 蔵人頭は喘ぐように言う。

「あ、安先生は……安先生はいつ来て下さるのです?」

「……」

(まさかバカ正直に『嘘です』なんて言わねえだろうな)

 自分も背後に法師の生首を隠しているので冷や汗ものだが、尽時は真遠の反応をじっと注視した。

 真遠は落ち着いた態度を崩さず、

「安先生なら、いま呪法の準備を整えていますからもう少しの辛抱です。私が先にこちらへ参上したのも、呪法を確実に成功させるため、御身の病状をあらかじめ確認しておくよう指示されたからです」

「け、検非違使どのはなぜ……?」

「……検非違使とは捕らえた犯罪者の罪業を清算し、京内の汚穢物を清め、主上のご意志を各地の神々に伝える者たちです。御身にかけられた呪詛の穢れを清めるのに、役立つ人材です」

(おまえ嘘つくの向いてねえよ真遠……)

 検非違使がお祓いの場で果たせる役目などあるはずがない。

 心の中でツッコむ尽時の生ぬるい視線に気づいたのか、真遠は居住まいを正し、

「ついては、床に伏しているときに煩わしいとは思いますが、こちらに少々長居する許可をいただけますか?」

「……。わ、分かりました……安先生がいらっしゃるまで、お二人にはくつろいでいただける場所へ……家司に案内させましょう……どうか……お助けください……よろしく、お願いします……」

 消え入るような声でそう言ったところで限界が来たらしく、蔵人頭は目を閉じた。ぜえぜえと喉が痛々しく鳴っている。

 指示を受けた家司が心配そうに眉をひそめながらも、「どうぞこちらへ」と促してくる。

 尽時たちは畳から立ち上がり、庭へ続く階段を下りた。

 この階段は本来、高貴な賓客の訪れがあったときに使うもので、牛車で乗り付けられるように張り出した屋根が作り付けられており、足元の辺りは凝った植え込みにしてある。

 すぐさま背後で御簾が下ろされ、女房たちが忙しく立ち働く気配が伝わってくる。

 中に声が届かないのを確認してから、家司が額に滲んだ脂汗をぬぐい、

「……本当にその首を廂にあげたことに意味があったのですか?」

「もちろん。尽時、ちょっと首を取り出してみろ」

「あーはいはい、ここまで来たらお安いご用だぜ。ったく、俺まで穢れにあてられて病気になりそうだ……」

 実際に呪詛で死に瀕している人間も見てしまったことだし、生首を抱えていた尽時の感覚もそろそろ麻痺してきていた。一方まだ神経が通常の細さのままの家司は「ええっ!?」と狼狽している。

 取り出してみろってなんだよ生首だぞと半目でぼやきながらも、巻き付けていた単衣を思い切って取り去る。

 生首があらわになると同時に、尽時は「うっ」と顔をしかめた。

「ひ、表情が……変わってる」

 間違いなく固く引き結ばれていたはずの法師の口が、なにかを怒鳴りつけるように大きく開いている。

 首の形相自体が、かっと目を見開いた怒りのそれに変じているのだ。

 思わず取り落とさなかったのが奇跡だ。

 尽時は愕然と首を見下ろした。

「な、なんですかこの首はっ? 禍々しい……早く仕舞ってください陰陽師どの! け、穢れが……!」

 主人を呪って斬首に処された者の首に現れた異常に、家司も顔色を失ってぶるぶると震える。

 驚いていないのはただ真遠ひとりだけだ。

「ふん。二、三日は耐えられても、呪詛をしかけた標的を前にしちゃ我慢が続かなかったらしいな。元気な表情筋で何よりだ」

 恐怖の光景にも関わらず、この陰陽師ときたら、ひとり憂いが晴れたように口角を上げている。

 あまつさえ、頭蓋に通された赤い紐を握って尽時の手から首を奪い、わざわざ視線を合わせるようにするので、尽時は驚倒した。

「おい、そんなもん矯めつ眇めつすんな! 何してんだ!?」

 怒鳴りつけられた真遠はしれっとして、

「怨念の中で死んだ首の劣化が遅れるのは割とよくあるが、特定の場面によって表情を変えるのは、魂がこの世にしがみついてる首だけだ。魂だけとはいえ、式神を伏した法師本人がまだこの世にいると考えれば、力業を試す価値が出てくるだろ?」

 呪詛を命じられた式神を無力化するにあたって大きな障害になっていたのは、術者がすでに死んでいてこの世にいない点だったのだから、首に術者の魂がいまだ宿っていると分かったのは吉報だろうと、真遠は言う。

 そこでようやく尽時も気づいた。

(蔵人頭の寝所の廂に首を持ち込みたがったのは、法師の魂がこの世に残ってるかを確かめるためだったのか)

 だったらそう言っとけと思わなくもないが、このあと安先生がやってきて主人が助かると信じ切っている家司に聞こえるところでは、うかつに説明できなかったのだろう。

 真遠は首を眺めながら、また小さく笑う。

「ふっ、もっと怒った顔になった。生きてるうちにどんなに周到な計画を立てようが、誰しも自分が死んだらどうなるかなんて分からんもんだな。覚悟を決めて死んだはずが、意志が強すぎて首を晒されても魂が残っちまうとは、運のない男だ……ん? ……あ、見ろ、目も血走ってきてる」

「それおまえが煽った結果だろうがよぉ……いい性格してるぜ。なんとか突破口が見えたからって嬉しげに生首見せてくんなよ、ほら、その紐よこせ」

 やっと八方塞がりの状況から解放されたのはいいが、放っておくと真遠がどんどん法師の首を煽りそうだ。

 それに応じて表情を変じていく首を見せられ続けるのはごめんだ。

 尽時は手を差し伸べたが、真遠は、急に怜悧な文官の顔に戻ってそれを断った。

「いや、魂があると分かった以上は俺が持っておいたほうがいい。ここからが正念場だ」

 そう言って目を白黒させている家司に向き直る。

「ご令嬢のご遺体を見せてもらえますか? それと、日没と同時に安先生の呪法を行いますから、それまでに使用人を避難させて蔵人頭どのお一人だけを邸内に残してください。何か奇妙なものが見えたり聞こえたりしても、決して声を出さないようにお願いします」

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