2.飯田茉侑子⑤

青川丞

 朝。知らない天井があった。

 顔を横に向けると、ガラスの天板のローテーブルがある。

 視線の先、ローテーブルの向こうに見えるのは、黒い革張りのソファだった。どうやら私が眠っていたソファも同じ物のようだ。応接スペースのように、二対のソファが向かい合わせに置かれている。


 なんだここは。


 部屋の壁に目線を移せば、飾り棚に並んだ数々のトロフィー。


──これはいったい……誰のものなのだろう。


 それよりも目立つのが、この部屋のモダンなインテリアには不似合いな、可愛らしいぬいぐるみの群れだった。見覚えのあるキャラクターも多い。ピコモンのペカチュウとか、モクマルとか……。


 奥にはダイニングやキッチンらしきスペースも見える。つまり、どうやらここはリビングのようだけれども。


──誰の家だっけ。

 

 霞がかった脳みそで、私は昨夜の記憶を探った。

 昨日は確か、詩歌と名乗る大学生とカラオケに行って、それから──。


 ひとまず身体を起こそうとする。が、腕が動かない。何かが引っかかっているのだろうか。そう思って確認すると、体が袋のような布でぐるぐる巻きにされていた。


「……?」


 よく見たら膝から下にも布が巻かれ、動かないよう固く結ばれている。


……昨日、酔ってミイラごっこでもしてた?


 布で巻かれた記憶はない。寝ている間に縛られた?


「おはようございます、マユさん」


 声のした先を見ると、件の自称大学生──木場きば詩歌しいかがゆったりとした足取りで近付いてきていた。


「ぐっすり眠れました?」


 そう尋ねてくる彼女の服装は隙なく整えられており、顔には化粧も施されている。すぐに出かける予定でもあるのだろうか。


「……ええと、私、詩歌の家に泊めてもらっちゃったんだよね?」


「ええ、そうなりますね〜」


「あ、ありがとう?」


 詩歌があまりに平然としているので、自身の状況に違和感を持ちつつも礼を述べてしまった。


「それより、これ……どうなってるの? 布?」


「布ですね。正確に言うとシーツです」


「……動けないから、解いてもらいたいんだけど」


「すみませんけど、それはできないんです」


「え?」


 どうして? という疑問で頭の中が埋め尽くされる。


「わたし、実は兄に頼まれごとをしてまして」


「兄?」


 不意を付かれた気分だった。

 いったい誰の妹だと言うのだろうか。

 木場という苗字の知人はいただろうか。必死に記憶を掘り返していたところ、詩歌にくすりと笑われた。


「“青川あおかわ”という名前に聞き覚えはありませんか?」


 青川──?

 私はさらに混乱した。

 そんな知り合い、いたっけ。

 いや、いる。記憶の隅に。普段の生活では滅多にその名を思い出すことはないが、人々の記憶に伝説のように残る人物。


「青川……じょう?」


 その男を一言で表すとするならば、「規格外」だった。


 田舎だからこそ起きてしまったバグとでも言おうか。

 奇しくも私と同じ年、「家が近いから」という凡人には理解しがたい理由で、医師家系の神童という、想定されるスペックを大きく超える生徒が入学してきてしまったのだ。


 それが、青川丞。


 進学校と言っても田舎の公立だし、てか生徒より先生の方がヤル気だし、ウチって自称進だよね。そんなよくある生徒同士の自虐ネタに、存在だけで正論を突きつけてくるような圧倒的秀才。


 東大理三に現役で受かった、という噂を耳にしたときは、私を含めた周囲の生徒たちは絶句するほかなかった。


 接点があるとすれば、高校一年生の間だけ、同じ教室で学んでいたということ。


──強いて言えば、絵里加の初恋相手だったということくらいか。


 私の出身高校は、一年生の時点では普通科しか存在しなかった。二年生に進級するタイミングで、希望者の中で成績上位の者が理数科へと進めるシステムだったからだ。

 私も絵里加も文系だから、最初から理数科のある高校なら、青川くんと同じクラスになることもなかったな、と思う。


「お兄ちゃん、そろそろ仕事から戻ってくると思うんですけどねぇ」


 詩歌のその台詞に、私は言葉を失う。

 戻ってくる? ここに?

 

 絵里加の、もう既に終わった恋の相手。

 届ける勇気すら出ないまま、儚く消えてしまった淡い想い。


 この先の人生で、「同じ高校に異次元の人がいたな」と思い出すことはあれど、関わることはないと思っていたのに。


 詩歌にしては、妙な趣味の部屋だとは思っていた。だが、この部屋の主が違うとなれば話は変わってくる。


 身構えていると、ピという電子音のあとに、玄関の向こうでカチャンと鍵の外れる音がした。


「あっ、早速帰ってきたみたいです!」


 詩歌がパタパタと玄関に走っていく。

 おかえりなさーい、という詩歌の声に応える、男性の低い声。

 玄関先で何かを話す声が聞こえたあと、その男は、詩歌に腕を引かれて眼前に姿を現した。


 仕事帰りとの情報どおり、疲れた表情。グレーのジャケットを着た長身の男は、私の格好を見て怪訝な顔をした後、盛大にため息をついた。


「……夜風よかぜ


 傍らの妹に、彼はそう呼びかける。


「店での様子を観察してほしいとは言ったが、彼女に接触しろとは──まして家に連れてこいなどとは一言も言ってないだろ」


「だって、マユさんすっごくチョロかったから……つい?」


 夜風と呼ばれた女は、おどけたように笑った。

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