4章 青川丞と青川夜風

1.住吉周真③

世界平和と朝チュンの男

 目を覚ますと、ぼんやりと妻の寝顔が視界に映った。こちらに身体を向け、ゆっくりと肩を上下させている。

 僕は、枕元に置いていた眼鏡に手を伸ばした。なんて穏やかで、幸せな寝顔だろう。


 僕ら夫婦は、寝室のフローリングに布団を二組並べて寝ている。

 引越し当初はダブルかクイーンサイズのベッドを購入するつもりだったが、母親に「賃貸で大きな家具入れたら大変じゃない?」と言われた上、「使ってないお客様用の布団が余ってるから」と寝具をしこたま持たされてしまった。


 新居には和室なんて無いのになぁ、なんて困っていたら、未冬さんが「いいんじゃない? あたしお布団も好きだし」と言ってきて、そのままダブルベッドの案はどこか彼方へと飛んでいってしまった。

 ゆえに、我が家では長男のこうだけが、ベビーベッドという“高み”でお休みになられているのである。


 それにしても、うちの母と未冬さんはけっこう馬が合いそうだ。いずれ二人が結託して迫ってくるようなことがあれば、僕は全く歯が立たないのでは、という予感がしてならない。


 眠る未冬さんの髪をふんわり撫でる。そのうちにちょっと魔が差して、僕はこしょこしょと妻の顎の下をくすぐった。

 未冬さんはくすぐったそうにモゾッと身じろぎし、寝返りをして上に逃げた。すると、仰向けになったことで鎖骨や胸元の下着が露わになってしまい──僕は思わず、その肌色に目を取られた。


……どうやら未冬さん、前開きのネグリジェのボタンを留め忘れたまま眠ってしまったらしい。


 妻の無防備な姿から、僕はどうしても昨夜の営みを思い出してしまう。

 しばしその柔肌に触れようか触れまいか迷ってから、はだけた肌を隠そうと、慌てて服の合わせを引っ張った。


 昨夜、最初こそリードしようと意気込んだものの、布団に移動してからは、未冬さんに主導権を握られっぱなしだった。いや、もしかすると、久しぶりだからと未冬さんも意気込んでくれたのかもしれないけれど。


 当然ではあるだろうが、この夫婦の営みは妻が妊娠する前のような頻度とはいかなかった。


「断られてもいい、自分から誘いに行け!」


 友人の向後こうごはそうやって言うけれど、育児中であるゆえにタイミングが難しい。

 産後の再開も、少しずつ試そうかと提案してくれたのは未冬さんのほうだ。それも、向後にはかなり驚かれたけれども。


 そんな僕だが、やはり未冬さんに求められるのは嬉しい。

 途中、ベビーモニターの動き検知の通知が鳴って、二人して固まったりもしたけれど──

 さすがうちの子、空気読みの才能がある。通知も、寝相による手足の動きを検知しただけのようで、確認してみればスヤスヤと眠ってくれていた。


 父(27):今日は未冬さんを俺に譲ってください!

 長男(0):しゃーないな。俺は良い子でおねんねしといたるわ。


 ……脳内イメージとしてはこうである。


 僕はなんとなく惜しい気分になりながら、眠っている未冬さんのネグリジェのボタンを留め終えた。


 昨日は、なんというか……すごかったな。

 自分自身、乗られるのは満更でもない──いや、けっこう……

 いやもう正直な話ね、好きですわよ。


 だって未冬さん、本当に上手くって、もう腰がとろけるっていうか。

 それに、普段は天真爛漫でニコニコしてる彼女が、僕の上でいやらしく動いて、快楽をこらえるように悩ましい表情をして。そうかと思えば、ふと、とろんとした目で笑って、「楽しいね」って耳元で囁いて──。


……うん、思い出したら熱が高まってきてしまった。


 そっと妻の胸元に手を伸ばす。

 いましがた服を直したばかりなのにな。

 自分でも何がしたいのかよく分からんです。


 僕は敷布団に肘を立て、体を半分起こした。

 未冬さんの布団に手を差し入れ、脇腹に触れると、ぴくりと反応があった。慎重にお尻に手を滑らせ、そこから外腿を通って内腿に這わせると、「……んんっ」と艶やかな声がする。

 どきっとして妻の顔をうかがうと、その目がぱちっと開いた。


「ねぇすーくん、さっきからいたずらしてるよね?」


 面白がるような、からかうような笑み。


「うん……えへへ、ごめん」


「もー。でも、そういうのも可愛くて、好き」


 可愛い、か。

 若い頃の僕なら、それを聞いたら地味に落ち込んだろうけど、結婚した今、素直に褒め言葉として受け取れるようになってきた。

 成長……いや、退化かな……。


 あとどのくらい、こんな恋人のような空気を過ごせるだろう。願わくば、一生──


「まだ、茉侑子からの既読付かないみたい」


 気付くと、未冬さんはスマホの画面を点けていた。目当てのメッセージがないことを確認すると、用済みとばかりに画面をオフにして枕の横に伏せる。


「昨日、飯田さんに連絡してくれたんだ?」


 僕が問うと、未冬さんはうなずいた。


「すーくんがシャワー浴びてる間に。LINEでだけど……」


 その表情がほのかに憂いを帯びる。

 言外に、何かを物語っていた。

 幼少期からの、特別な友人との間に起きてしまったトラブル。そこには、僕には計り知れないような複雑な思いがあるのだろう。


 未冬さんは、いつも穏やかで付き合いやすい人である反面、自分のことは多く語らない人だ。それは結婚してもそのままだった。だから、僕に見えているのは、彼女のほんの一部分なのだろう。

 深いところまで触れさせてもらえるよう、頑張らないといけないのは僕──それは分かっているつもりだけど。


 ふいに、未冬さんの腕に強く抱き締められた。脚まで絡めて、全身、隙間がないくらいの密着。


「こーくんが起きるまで、こうしてたいの」


「……うん。まだゆっくりしてよっか」


 平和な休日が、穏やかに幕を開ける。

 怖いくらいに、幸せだ。

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