そのネズミは一緒に帰るかもしれない

七都あきら

ベランダでビール飲んでる男

 渡貫睦月わたぬきむつきが都内に引っ越してきたのは、家電量販店での期間限定の仕事のためだった。

 メーカーの営業が応援スタッフとして店舗に立つのは別に珍しいことではないが、渡貫の場合は体のいい厄介払いだろう。


(……営業とか、やったことないし。そもそも、企画部の自分がなんで)

 

 引っ越したばかりの狭い部屋で服をクローゼットにしまいながら、明日からの気が進まない仕事に肩を落とす。

 ――頭の痛い販売の仕事さえなければ、憧れだった都会暮らしを満喫できるのに。そんな昨日までの渡貫の甘い想像とは裏腹に、素敵な都会暮らしの方も初日から早々に影を落とし始めている。


 薄い壁で隣の話し声は全部筒抜けだし、広い田舎の部屋と同じ感覚で動けば、すぐに足をぶつけてしまう。引っ越したばかりの清潔な部屋なのに、空気も水道水も不味い。

 会社から仮住まいとして用意されたのは、職場に近い短期契約型の賃貸マンション。繁華街のド真ん中の新しい住処は、想像以上に住み心地が悪く二重の意味でショックを受けた。


 部屋から四歩くらい歩けば玄関にたどり着ける狭い廊下は、歩くだけで壁に肩が当たる。

 なにも渡貫が特別でかい図体をしているとかじゃない。体は縦も横もいたって普通で標準サイズだ。

 少ない荷を解き終わったあと夕食を買うため外へ出ようとして、狭い廊下で足を止めた。無理やり詰め込んだような洗面台の鏡には、冴えない地味な顔の男が映っている。慣れない接客業だからと、少しでも外見を強くみせようと申し訳程度に髪を明るく染めたのに、柔らかいが髪が痛んだだけで、なんだか余計に貧相で弱々しく見えた。

 部屋の中にいるだけでも気が滅入ったのに、外に出ればさらにホームシックは加速した。別段、田舎に会いたい人がいるわけでもないのに、二十六の男が情けない。

 車のクラクションはうるさいし、ネオンサインは眩しい。甘い香水のような匂い漂っていて頭がくらくらする。五感に触れる全てにストレスを感じていた。


 雑踏を歩きながら、渡貫は自分が『田舎のネズミと都会のネズミ』に出てくる田舎のネズミのように感じていた。自分が田舎のネズミだとしたら、こんな街中で身の丈にあった暮らしをしている都会のネズミとやらは一体どんな人なんだろう、と想像してみた。

 こんな住み心地の悪い都会で、楽しそうに暮らしているネズミがいるなら会ってみたいと思った。そして少しでも自分の生活が楽しくなるようにアドバイスして欲しい。



 まだ冷蔵庫に食材がないので、コンビニで買った弁当が今日の夕食になった。ビニール袋片手にマンションに戻ってくると、エレベーターの十階のボタンを探して押した。

 この行為もあと何回かするうちに、無意識に階ボタンを押せるようになるのだろうか。きっと元の住処に帰るのが先かもしれない。


 十階で降り、エレベーターホールから自分の部屋までの景色はほぼ隣のビルだった。びっくりするくらい隣の建物との距離が近い。建物の隙間から見える繁華街の空色は、夜なのに周囲の煌びやかな明かりのせいで白く濁っている。

 ふと顔を上げるとビルの角部屋のベランダが見えた。


 渡貫は隣の建物は全て商業ビルの店舗だと思っていた。けれど、十階から見えるそのベランダの部屋は住居だった。

 なぜ渡貫が住宅と分かったかというと、ベランダに灰色のスウェットを着た男が立っていたからだ。その手には缶ビールを持っている。


 たまたま目に入った隣のビルに渡貫が会いたかった『都会のネズミ』はいた。


 隣のビルは窓や壁に看板や張り紙がしてあって、ネイルサロンやオフィスとして使われている。そのやけに顔が整った男はビルの最上階で悠々自適に暮らしているらしい。


 上を見て歩かなければ、人が住んでいるなんて誰も気づかない。たまたま自分が隣のマンションに住んでいて、たまたま隣のビルをみたから気が付いた。


(そんなところでビール飲んで何が楽しいんだろ?)


 帰宅するビジネスマンや夜の街に繰り出す若者たち。自分とは無関係な人間が忙しなく行き交っているのが下に見えるだけだ。渡貫ならみているだけで酔いそうだと思った。自分の部屋にはベランダもないし、窓を開けたからといって景色を肴に酒を飲もうなんて考えもしない。

 なのに、その男は、なんだか楽しそうに見えた。

 風呂上がりなのか男の首にはタオルがかかったままだ。時々夜風になびく長い前髪を鬱陶しそうにかきあげる。


 渡貫は、その場で足を止めて、ベランダに立っている男を見つめていた。普通なら気にも留めずさっさと自分の部屋に入っていたが、つい、そんなところで酒を飲んでいる物珍しさと興味で観察していた。どうせ気づかれることもないとたかをくくっていたのもあるし、渡貫が見ているからといって、男が振り向かなければ気づかない位置に立っていた。


(美味そうに、飲むなぁ)


 そう思った時だった。こちらに気づかれるはずがないと思っていたのに、ちょうどその男の酒盛りが終わり、部屋に入るタイミングで目があってしまった。こっそり観察していた気まずさもあったが、そこで目をそらせて走り去るのも変な気がした。

 瞬間、渡貫は反射的にぺこりと頭を下げる。そして顔を上げると、男は渡貫の顔をまじまじと見つめていた。そして、少しの間の後、ゆっくりと唇が動いた。


(こんばんは)


 ビル風に吹かれて声は自分のところまで届かなかった。

 そして、くすりと笑われた。急に見知らぬ他人をじっと見ていたことが恥ずかしくなり、慌てて、もう一度勢いよく頭を下げて、足早にその場を立ち去る。


 知り合いもいない都会のど真ん中で、ご近所付き合いなるものをしてしまった。普通に挨拶をされて、普通に挨拶を返した。

 たったそれだけのこと。

 でも、それだけの交流に感じた落ち着かなさの理由は、決してホームシックで心細かったから私的な交流が嬉しかったとかではない。


『夜の帝王の気分だったのか?』


 そんな言葉が突然頭に浮かんだ。きっと、この世界に物語の都会のネズミがいるとしたら、あんな男だなと渡貫は改めて思う。風呂上がりの格好なのに、自信に満ち溢れているように見えた。どちらかと言えば、ネズミというよりライオンみたいな空気を纏う人だった。

 あんなところで、一人酒盛りをしてて普通ご近所さんに見られたりしたら、ちょっと恥ずかしいなとか思うのに、それがどうした? みたいな奔放な空気をあの男に感じた。


 あの場で立っていることで感じた居心地の悪さは、劣等感からくるものなのか、あるいは羨望からくるものなのか、渡貫は分からなかった。けど、ただ一つ「自由でいいな」と感じたのは確かだった。

 本当にこれでは、田舎のネズミと都会のネズミだ。都会の生活に憧れを抱きながら、結局自分は自分の知っている範囲で生きることが好きだった。

 逃げ込むように入った自分の部屋。扉を背にゆっくりと息を吐く。


 狭い狭い、白い小さな箱の中。都会の中で唯一自分のオアシスになるはずの場所。


 ――今は、まだ落ち着かなくて無理だけど。


「僕は、もうこんなところはこりごりだと言って、最後には帰らないといけないのかなぁ」


 その晩、渡貫は田舎のネズミと都会のネズミの夢をみた。


 夢の中のネズミは、本の中のネズミと同じように堂々としていて、ちょっとだけ嫌味な奴だった。けれど、そのネズミのことをなんだかとても頼もしいなと感じていた。








 





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