03

「……」


 僕は一瞬、ためらって、夕食の盆を取った。ハエはもういなくなっているし、このわずかな間に、また虫がつくこともないだろう。


 自室に入り、扉を閉める。ローテーブルに盆を置き、食事をとる。味は昔から変わらない、母さんのハンバーグだった。


 夕食を食べながら、ふと、考える。

 いつから、母さんを見ていないのだろうか、と。


 高校を中退し、引きこもりになった最初の頃は、扉をたたき、時には部屋に入ってきて、「別の学校へ行かないか」と積極的に説得してきていた。

 しかし、半年を過ぎた頃――母さんは何も言わなくなった。


 昔から、『こうあるべき』『こういうもの』という、固定概念に強くとらわれている人だった。そして、それにそぐわないと、至極不機嫌になり、酷いときには怒り狂う。

 どうして分かってくれないの、と。


 夫はサラリーマン。自分は専業主婦。夫は夜晩酌をするもので、妻はその準備をしなければならない。お金を稼いでくる夫に逆らってはいけないが、友人には愚痴をこぼすもの。


 子供は、基本はいい子だけれど、時折母親を心配させるほどのやんちゃぶりを見せる。勉強よりは遊びに夢中で、休日に外へ遊びに行った日には洗濯が大変なほど泥んこになって帰ってくる。


 若干古い、凝り固まった『こうあるべき』。

 これに振り回される僕も父さんも、大変だった。


 父さんはそもそも酒が苦手で、料理が好きな方だったけれど、母さんが用意した晩酌セットに口をつけなければ怒るし、食事の準備を手伝うために台所へ行こうものなら、怒鳴り散らかして手が付けられない。

 僕は僕で、誰かを遊びに誘うのが苦手だったから、どちらかと言えば勉強の方が好きだった。第一、母さんが許す遊びと言えば、野球かサッカーであり、そのどちらかができるほど、僕は友人がいない。結局は、一人でもできる家遊びで、母さんの中の『男児のあるべき姿』の解釈と不一致じゃない、テレビゲームをすることで落ち着いた。


 だからきっと、最初のうちは、男子高校生はこういうもの、という理想を押し付けようと躍起になっていたのだろうが――半年もして、『引きこもりの母親はこうあるべき』というものに落ち着いたのだと思う。


 食事を三食用意し、暴力を振るわれないようおびえ、それでも母親の勤めとして根気強く見守る。そして、やっぱり、友人に愚痴。多分、そんな感じだ。


 もう、二十年近くも顔を合わせていないのか。

 老けたりしているんだろうか。


 老けた母さんを想像しようとして、そもそも顔が思い出せないことに気が付いた。

 そんなにも、関係が希薄になっていたから、先ほどの足音を、誰か別の人間のものだと勘違いしたのだろうか。

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