カドルコットに揺られながら

佐藤風助

第一章

1-1 はじまりはじまり

 真夜中の廃病院内は騒がしかった。

 通常そういった、一般人には倦厭される場所──廃墟だとかお墓だとか街灯が点滅する夜道だとかはシイ──ンと静まり返ってなくちゃいけないんだけど、その日だけは宴でもしてんのかってぐらい騒がしかった。ガチャンとガラスが破壊される音だとか、ギイバタンと錆びついたドアが開閉する音だとか、大人数の足音だとか、その他たくさん。各々自由奔放に、思い思いに鳴って騒いで空気を振動させる。カビ臭く、埃っぽい、廃墟特有の空気が掻き乱されて自分は──安藤陽葵あんどうひまりはむせた。

 安藤はこの騒音の一端を担っていた。つまり空気を掻き乱す張本人。今はカビの温床となったマットレスを月明かり以外の光源である懐中電灯を使って思いっきりひっくり返したところだった。当然マスクをしていなければむせる。目が痒かった。


「安藤ちゃん!」


 安藤は目を擦りながら振り向く。壊れかけた扉の前に、一人の女の子が立っていた。黒を基調とした修道服に十字架のネックレス。それと棍棒。そのか弱い腕に支えられたゴツい武器がなければどっからどう見てもシスターさんである。

 いや、シスターはシスターであるが、彼女はそうではない。呼びかけられた安藤だってそうだ。

 彼女達は──いや、ここにいる皆様方は、エクソシストだった。悪魔を祓って、それで生活を立てている子供達だった。

 ただいま安藤一行は悪魔と契約した者、つまるところの悪魔使いを大捜索中である。だからこそ安藤はワザワザカビだらけのマットレスをひっくり返しているし、彼女もその棍棒でベッドフレームを叩き壊しているワケだ。

 しかし、何十人で探しているとはいえこの病院は結構広い。万年人手不足なのは察するが、もうちょい人数が欲しい。


「何よう、そんな慌てて」


「いやさ、ちょっと聞きたいことがあって」


 彼女はあー疲れたと棍棒を壁に立てかけてノビをする。


「神崎さんどこ行ったか知らない? アルベルトさんが探してるんだけど見つからないんだよ」


「えー……知らないなあ。どっかでちょうちょでも追いかけてんじゃない?」


 安藤は冗談混じりに答えた。それよりも目がかゆい。神崎というのは安藤のバディだがいなくなるのはしょっちゅうなので気にしなくともよいのだ。


「冷たいなあ」


「神崎くんよりさ、本命は見つかったの?」


「ぜんぜーん。どっか隠れてるのか、もう脱出しちゃったのか。ま、この人数だしすぐ見つかるでしょ」


 楽観的だが、それもそうだ。今回の悪魔は特に危険性が高いとかそういうんじゃないのでのんびりやらせてもらいましょ。神崎も悪魔使いも悪魔もどうせ誰かが見つけるでしょうと他人任せな思考でこの病室を出て廊下を歩く。

 彼女はどこかの誰かさんに呼ばれて反対方向に向かったのでまた一人だ。がんばってねと言われたが何を頑張ればいいのだろう。

 薄暗く、湿っぽく、おどろおどろしい雰囲気の中を、安藤はひたすら歩いて行く。

 途中にあった姿見に一瞬写った自分をチラリと見てみると、やっぱり修道服は似合っていなかった。おかっぱの黒髪に黒目がちな瞳は、奥底にあった祖母との会話記録で『日本人形みたいでかわいいね』と言われていたから、まあ似合わないだろう。雰囲気の問題だ。ホラ、カタログですらっとした外人さんが着てる服がはちゃめちゃにステキに見えたとて、いざ着てみると自分には似合わなかったときと同じ。向き不向きというヤツ。別に修道服が似合わないからといって損することは一ミリもないのだけど。


「きゃ、あ!」


 そんなくっだらないことに思考のリソースを割いていたら転びかけた。誰だ平坦な廊下のど真ん中にモノを置いて行ったヤツとどこかの誰かに怨嗟をぶつけながら、安藤は障害物の正体を確認する。


「気持ちわるう……」


 ホルマリン漬けのガラス瓶だった。抱えられる程度の大きさのガラス瓶は埃と年月で曇っていて、中はよく見えないが、とにかくこぶし大のナニカが黄色く変色した液体の中でぷかぷか浮いている。見ていてあまり気分のいいものではないし、何故こんなところにあるのかも分からぬ。いくら廃病院だからって不釣り合いだ。

 ウエっと舌を出し、とにかくすみっこに置いておこうと懐中電灯でつついて壁際に追いやった。床とガラスが擦れて、人気のない廊下に音を響かせる。ヤケに空虚で空っぽ。

 すみっこに追いやってやっと一息つく。立ち上がってまた前に進み始める。

 コチラ側に人員が割かれていないのか、近場の物置はあまりしない。カツンと安藤の靴裏が廊下とぶつかってそれだけが響く。

 常に一定で安藤は進む。長ったらしい廊下をカツン、カツン、カツン、カツン──


 ──がしゃん、とガラスが背後で割れた。


 反射的に振り向き、旧式のぶっとい懐中電灯の橙色をした明かりが正体を照らし出す。薄く影が伸びる。

 怯えた顔した少女だった。

 ホルマリンのガラスを踏みつけ壊すような格好で立ち尽くす、中学生であろう女の子。服装は古めかしいセーラー服。手にはお料理用の包丁。アレ高いヤツだ。ショッピング番組で見た事あるもの。プチトマトが潰れることなく切れる、職人の一品。羨ましいこって。

 ……いや、包丁の値段とか考えている場合ではない。夜更けの廃病院で揃いの修道服を着てなきゃソレ即ち敵、悪魔使いである。オマケになんだかヘンテコリンな状況で現れたのだし、絶対コヤツ。


「アー……とりあえず、そこの君? ちょっとお話よろしいかな?」


 なんだか職務質問をするお巡りさんみたいだなあなんて思ったが、咄嗟に出たセリフはコレだった。安藤は一歩、少女に近づく。少女は包丁を握りしめる。顔が青白くなっていく。


「た、たすけ」


「助けるか助けないか決めんのはあたしじゃない。とにかく大人しくお縄に──」


「たすけてえ! ホーマー!」


 少女が叫んで、散らばったガラスの中心に放置されたこぶし大肉塊を踏み潰すのと同時に、安藤は隠し持っていたハンドガンをぶっぱなした。

 ギラギラ光る銀色の弾丸が少女に風穴を空ける前に目標は消える。本来ならばもっと手前で止まったはずの弾は廊下の壁に穴を開けただけで、特に役立たずに終わった。

 ……やられた! やられた! カンッペキに見逃した! 

 安藤は旧式のハンドガンに弾を詰め込みながら廊下を逆走する。ガラスががしゃりと音を立てて更に砕け散る。

 悪魔使いの権能はなんだ。ホーマーなんて悪魔はいないから、本来名すら持たぬ雑魚悪魔にアダ名をつけたのか。近所のノラネコを勝手にタマと呼ぶノリで。

 それよりもこの現象のトリックだ。いきなり消えた。ワープや瞬間移動の類だろう。人間ワザじゃねえから悪魔のシワザ。発動条件はなんだ。鍵となるのはホルマリン漬けだろうが、なんせ一回しか目撃できていないのでイマイチわからない。不透明だ。くそう。名前が知られていないというのは不便だ。悪名でもなんでも知られていれば有名税。手の内晒しているぶん強いヤツの方が対処しやすいなんて皮肉も皮肉。やりにくいことこの上ない。チラチラ動く橙色の光に向かって走って近づく。


「悪魔使い発見! 権能はホルマリン漬けを使った瞬間移動!」


 呑気にナースステーションの棚を開け閉めしていた栗色の髪をした少年──同僚に吠える。何やってんだお気楽にコーヒーを啜るな上に報告するぞこんちくしょう。こちとら昇格しようと必死なんじゃ手ェ動かせ。


「りょ、了解! 見た目は?!」


「女学生! 包丁持ってる!」


 楽天的同僚は必死に羊皮紙に文字を綴る。エクソシストの皆様は悪魔なんてファンシーな存在と戦うために奇跡を改造した術式を扱う。連絡役のコイツは文字通り『伝える』ことに特化した術式持ちだ。同僚はびっしりと文字が書かれて真っ黒になった羊皮紙で鶴を折る。手が震えているせいで歪んでいるが、鶴は鶴。そう見えればいい。形と体裁だけ整えときゃあ発動するのだ。

 鶴の腹に空気を入れてふわりと浮かす。


「伝書です皆様方ァ!」


 ヤケクソぎみに同僚が叫んだ瞬間、鶴が猛スピードで飛んで行った。

 本物の鶴のように羽ばたいて、情報が拡散されていく。知られていく。

 同僚は書いて折って叫ぶを繰り返す。ちょっぴりハイになってるがモウマンタイ。こんぐらいやる気がなければ全員に情報が行き渡らない。


「号外も号外! 革新的情報を鶴の一声でお届け! 他社じゃお目にかかれない下世話なウワサも有益な知識もまとめてお送りいたします! それがボク──おええ」


「ちょ、吐かないでよ。無理しないでゆっくり確実にやって」


「うふ、うふふふふ! 今ならどんな記事でも書ける気がする……! 代償なんて気にしてる暇ないですよ安藤さアん! ……ウエェ」


 術式には代償が発生する。

 そもそも非科学的、非自然的現象を神への祈りで実現するのが術式なのだから、体に負荷がかかって当然なのだ。こう言っちゃあ大袈裟だが、人の身には扱えぬ神の奇跡。そりゃあ体壊す。神の特別扱いもご加護もないか弱い一般人なんだもの。吐くしハイになるし場合によっては死ぬ。消化できない食べ物を摂取し続けて、胃が破裂しちゃうみたいに。


「安藤さんは行かなくてよろしいのです?」


「……確認したいことがあるのと、あとは情報線であるあなたの護衛。あたしが動かなくても現場は回るしね」


「さあさ見てってくださいな! 滅多に知れぬ情報がよりどりみどり! 隣の奥さんがたの井戸端会議から国家の秘密会議まで! 各種取り揃えておりまアす!」


「聞いちゃいないわね?」


 常に死と隣り合わせなこの仕事は万年人手不足である。その分金払いはいい。死んだときの保険金でもあるだろうが、とにかく稼げる。子供の安藤が補導される心配もなく終身雇用で働けて人並み以上のお給料がもらえるのはここだけだ。

 旧式のハンドガンを取り出す。いやにファンタジーな見た目をしたコイツは全く好みじゃないが、上から支給されたから使うしかない。どうせなら実銃撃ってみたいなあ……。最新式の、サプレッサーが付いてて、トリガーフィーリングが抜群で、なんせカッコいいんだよなあ……。

 だから──目の前の棚に放置されているホルマリン漬けを睨む。


「この任務が終わったらあたし、最新式の拳銃買うんだ……」


「……安藤陽葵、死亡フラグ乱立っと」


「記事にしないでちょうだい死んだらどうすんの」


 くだらぬ会話をしている間にも鶴は羽ばたき情報を拡散する。何十、何百の鶴が飛び交う。……何百? おかしい。今宵の部隊は三十人程度だったはず。


「……多くない?」


「もう悪魔使いの記事は皆様方に行き届いたので、これは趣味です。ほら皇財閥すめらぎざいばつ重鎮連続不審死とか、気になりません? 絶対何かありますよ!」


「止めなさいバカ!」


 こんな記事ばら撒かれても混乱するだけだアホ。羊皮紙と鉛筆の争奪戦を同僚と擦り広げる中、書き終わった記事である鶴は飛んでいく。バサバサ、紙が擦れる音がする。バサバサ、バサバサ鳴り響き──


 ガシャン、とホルマリン漬けが割れた。


 振り返りハンドガンを構える。ころげるようにして怯えた少女が倒れ込んだ。ホルマリンの独特な、すえたような匂いが充満する。少女が咳き込む。


「……あ」


 少女がこちらに気づいた。包丁に握りしめる。しかし腕は震えるばかりで役に立たぬ。


「鬼ごっこは終わりよ、お嬢さん」


「ほ、ホーマー!」


 安藤がハンドガンを撃ち込むよりも少女が叫んで肉塊を潰すほうが早かった。ぐずぐずに、溶けるように潰れたナニカを落として少女が消える。どこかに逃げる。そのどこかでガラスの割れる音と怒号が薄らぼんやり響く。


「……なんかわかりました?」


「なんとなく、だけどね」


 情報を整理する。

 おそらく瞬間移動の条件はホルマリンに浸かった肉塊を潰すこと。踏もうが握ろうが潰せればいい。その瞬間に移動できる。

 移動場所はきっと中身が無事なホルマリン漬けだ。割れていないガラスばかりに出現するのはそのため。多分移動場所の指定はできないのだろう。そうじゃなきゃ飛んで火に入る夏の虫を体現したような、先ほどのような登場はしまい。まさに賭け。ギャンブル性が強い。


「はあ、なるほど? ……記事にはしておきますが、それより先に──」


「ええ」


 安藤は怒号と叫び声が鳴り響く方向に目を向け歩き出す。ため息を吐いた。


「体の方が持たないでしょうね」



 ……



「ち、近づかないで……!」


 あらあらご乱心。

 荒んでしまった待合室の一角で、集まったエクソシストの中心点に立つは悪魔使い。ホルマリン漬けが尽きたのか分からないが、追い詰められた少女は脅しのターンに入った。その切れ味のいいお高い包丁を人質の喉元に突きつけて震えている。慣れてないんだろうなあ。包丁の持ち方が危なっかしい。他意がなくとも刺さりそうで見ていられない。人質をとる前に練習しときなさい。


「お、ヒマリちゃんじゃーん。元気してるう?」


 お気楽に、散歩中に偶然出会った友人に話しかけるようにして安藤の名を呼んだ十四歳程度の少年がいた。


「……アルベルト先輩」


「それにしてもタイヘンなことになってるねえ。ちょーウケる! 写真撮っとこ」


 橙色の髪に真紅の目。宗教的な意味よりも装飾品としての意味合いが強い十字架のネックレス。しかし服装は揃いの修道服で、神父であることが察せられる。

 アルベルト・フォーセット。安藤達の上司。神の炎の名をもつ天使ウリエルの器。本来ならば気軽に話しかけてもいけない雲の上の存在は、人質にされた少年をゲラゲラ笑いながらスマホで写真を撮っている。威厳も格もかなぐり捨てて悪魔を燃やすオソロシイ人だ。


「いいの?」


「何がです」


「オマエのバディだろ、あいつ」


 そう言ってアルベルトが指差した先には十二歳の少年が──神崎雨音かんざきあまねがあくびをしていた。

 ふわふわの黒髪を退屈そうに弄りながら、その澱んだ黒目を半分にしてうとうとしている。喉元に刃物が向けられているというのに。度胸が天元突破しているのだ。


「……おーい神崎くーん」


「……うえ?」


 神崎は焦点の合わないボケーっとした目をこちらに向けて微笑んだ。赤ちゃんみたい。ほら、新生児微笑だっけ。生まれたての赤ちゃんが反射で笑うヤツ。そんな感じの意味なんてない薄ぼけた笑顔だった。


「安藤さんだあ」


「そーよお寝坊さん。……ここがどこでどんな状況か分かってる?」


「今ァ? 人質なってる」


「それだけ? 刃物押し付けられてますけど」


「うーん、それは困るかもなあ」


 ふわあとあくびをして考え込む。悪魔使いは置いてけぼりになって、目を白黒させている。完全に雰囲気に飲み込まれてんな。もう立て直しは効かんだろう。


「痛いのは嫌いだし、刃物も嫌いだなあ。切られたことある? 結構一振りでバッサリいくよ。切れ味が悪ければ悪いほどざりざりして痛いの。君のは切れ味良さそうだからスパッといくかもだけど、その代わり加減間違えると出血量がすごいことになっちゃうねえ」


「あ、ああ……」


「痛いのは嫌い。怖いのも嫌い。君もそうかな」


 ……怖がらせてどうする。

 安藤は頭を抱える。ああもう、これで混乱して喉元バッサリやられたら目も当てられぬ。いやそんなことは絶対ないのだけど、万が一億が一。神崎の危機管理能力の無さにはほとほと困らされるのだ。


「し、死にたくな、あ……」


「うんうん。分かるような、分からないような。とにかく痛いのはやだよねえ」


 震える腕を掴んで微笑んだ。


「──いたいのはいらない」


 包丁があさっての方向に弾け飛んだ。

 まるでゲームのバグ。物理法則完全無視。飛んだ包丁は、とすっと床材につき刺さって沈黙する。

 これこそ神崎雨音が、齢十二歳でエクソシストの頂点に立つ根拠。自身にとって不都合不利益をもたらすものを拒否し拒絶する、唯一無二の神崎雨音だけの術式。英雄だと誰かが呟く。救い主、守護者、そして英雄。みんなのヒーロー。お寝坊の腑抜けは言葉と実力で飾り付けられて祭り上げられる。

 ──神様の羽に覆われ翼の下に庇われた、愛子。


「これでいいね。さ、お話しよ」


 慈悲深く微笑んで、彼は悪魔使いに語りかける。

 ……神のまことは大盾、小盾。それならば皆を庇い守り立てる彼こそが──


「そんなに怯えなくてだいじょーぶだよ。……全部、赦してあげる」



 ……



「で、コイツ結局どーすんの? 火炙り?」


「するわけないじゃん。……火炙りって喉と肺を焼かれたことと煙を吸い込んだことによる窒息死が多いんだよ。やけどによるショック死じゃないの。それに火事になっちゃうよ。五十キロの肉塊を燃やすのは骨が折れるよ」


「だから火炙りだって言ってんじゃん。焼肉じゃねえんだから中身まで焼かなくていいの。表面だけこんがりすれば観衆は納得する」


「でも魔女狩りでは燃やすことで──」


 すっかり怯え切って座り込んでしまった悪魔使いはガタガタ震えて死にたくないと繰り返すだけの機械になってしまった。会話ができぬ。できぬから悪魔の居場所がわからぬ。悪魔使いを捕まえることよりも悪魔を祓うことの方が重要なのに、肝心の悪魔使いがこれじゃあどうしようもなかった。アルベルトと神崎はさっきから処刑法についてグロテスクな知識を披露しあっているし、その他エクソシストの皆さんも困り切っている。トップ二人が関係のない魔女狩りの処刑方法で盛り上がっているのだから当たり前だ。

 だから、油断していた。もう悪魔使いは限界だった。そもそもこんな長い時間もつワケなかったのに。


「げ、ほっ」


 唐突に、少女が肉塊と腐ったホルマリンを吐き出した。

 独特の鼻につくようなツンとした匂いが辺りに充満する。肉塊がホルマリンの海で蠢く。ぴちゃり、ぴちゃりと音がして──


「コイツが死ぬ前に悪魔を祓え!」


 慌てたようなアルベルトの声を背に、皆駆け出した。

 ああクソッ!完全に気を抜いていた! 後は悪魔を祓いにいくだけだと思い込んでいて、権能を使ったことによる負荷をすっかり忘れていたのだ。痛恨のミス。これで死なせたら面目が立たない。申しわけが立たない。とにかく夢見は悪くなる。誰かさんのドスの効いた怒号が聞こえる。探せ探せ。しらみつぶしだ。蜘蛛の子一匹も逃すんじゃねえ。はあはあナルホドそう言われましても。姿形もわからないんじゃあ探しようがないでっせ。それにあらかた探したし。三十人で廃墟を壊して回ったじゃあないか。

 ああ、ダメかも。間に合わないかも。安藤は現実主義者であるから、もう半分諦めかけていた。だって見つからないし。みんなみんな怪しいところは叩き壊してひっくり返して撒き散らした後だし、見つかるワケない。悪魔使いは相変わらず死にたくないと叫び続けている。死にたくないなら話してほしいが、死の予兆に錯乱して話せていない。

 だめだ、もう、これは──


『──オサガシかなア? アホ犬エクソシストの皆さん』


 唐突に、なんの前兆もなく淀み切った声の院内放送が流れ始めた。


『はいはーい! ダチョウ並みの脳みそをお持ちな上に頭のかったあーい皆様はたいっへん困惑していることと思いますがあ! このオレサマの美声を聞いてどーか落ち着いてくれよなあ?』


「……誰だ放送してるやつ! 情報屋か?!」


「違うのです! こ、ここにいますし! ボクはずっと記事書いてたんですよお!」


 アルベルトが犯人探しを始めて、第一容疑者である情報屋──連絡役の同僚はすぐさま否定した。そもそも声が全然違う。聞いたことのない、怖気が走る声。不快感しかもたらさぬ、ガラスの引っ掻き傷のような声だった。

 ……いや、似たような声質のヤツに会ったことはある。この、不愉快でたまらない声色は──

 悪魔の声だ。

 みんな、動けなくなる。悪魔使いの周りから。このだだっ広い待合室から。いの一番に駆け出したやつらも不安を抱いて戻ってくる。


『愚かな犯人探しは時間のムダだからやめよーか! 魔女裁判ごっこがしたいなら後にしとけよ天使の器!』


「……誰だ、テメエ」


『ウーン口が悪い! 零点! しつけのなってないワンちゃんだなあ。そもそもこのオレサマのことを知らないだけで不敬罪なのに! みんな死刑! アハハハハッ!』


「誰だって聞いてんだ! 答えろよクソガキ!」


 ザザザッと放送にノイズが走る。アルベルトが体を支える悪魔使いが死にたくないと泣く。スピーカーからため息が聞こえた。


『アー、ウン。おまえはいらない』


 閃光が走った。

 閃光手榴弾フラッシュバンかと思ったけど、それは一筋の光だった。キラキラ光る、月明かりさえも飲み込む傲慢な光。それが、一直線にアルベルトに向かって。


「いたいのは嫌い!」


 神崎が拒絶して曲がった。光は天井を貫いて、二階三階四階の天井も焼き尽くして夜空に消えていく。ポロポロと壁材の破片が落ちてくる。


「ああ、今ので分かったわ……。オレの首を落とそうなんていい度胸じゃねえか。クソ悪魔の分際で」


 落とされそうになった首をさすりながら、忌々しそうにスピーカーを睨む。


『ニャハッ! 気づいちゃった? 気づいちゃった? 愚か者のくせに理解力だけあんのな! ……あれで死んどきゃ良かったのに』


「うるせえなあ。負け犬の遠吠えはよしてくれ。……なあ、ルシファー?」


 一つ間を置いてから大爆笑が聞こえた。空気が揺れる。反射的に耳を押さえる。


『せいかいせいかい大せいかーい! それじゃあオレサマの正体を理解した皆々様に改めて自己紹介してやるよ!』


 ──カツン、と廊下の奥から足音がした。

 うっすらと響く、弱々しい赤子の泣き声も共に近づいてきて、悪魔使いが錯乱する。

 死にたくない、死にたくない! だって、あの声は──


「やあやあ愚民ども! このオレサマにひれ伏せ! こうべを垂れて膝ついて平伏して靴舐めろ! ……やっぱ最後のはいいや、キタナイから。お猿の唾液がついた靴なんていらねえよなあ? アハハッ!」


 一人でベラベラと、ひどく傲慢に喋りながら一人の青年が暗闇の中から現れる。

 端的に言ってしまえば、ひどく美しかった。ハリウッドスターもかくやといった美貌の持ち主。鳶色とびいろの長い髪も琥珀の瞳もスラリとした手足も、全部全部作り物のように完璧で、個性が滲み出ていて傲慢なまでに美しかった。まさに眉目秀麗の体現者。怖くなるまでに綺麗で完全な存在。

 そんな俳優モドキはゲラゲラと下品な声をあげながら、抱えていたガラス瓶を悪魔使いの方へ乱雑に蹴って転がす。途中で蓋が外れて中身がぶちまけられる。

 ツンとした匂いのする液体。ぐちゃりと潰れる音。それから赤ん坊の泣き声。


「マ、ママ……」


 ……ホルマリン漬けの赤ん坊が、こちらに手を伸ばしていた。

 臍の緒も胎盤もくっついたままの新生児が、薬品と死骸の匂いを撒き散らしながら悪魔使いに向かってはいずる。助けを求めるように。母親を求めるように。


「や、やだ、死にたくな、死にたくない! 助けてよお! わた、わたし、まだ」


 断末魔のような悪魔使いの声でようやく金縛りが解けて、安藤は赤ん坊にハンドガンをぶっ放した。

 硝煙と轟音が鳴り響いて赤ん坊の頭が吹っ飛んで壁に汚らしいシミを作る。前に突き出した右手が崩れてぼとんと落ちて潰れた。少女を怯えさせていた悪魔はぐずぐずの肉塊に成り果てる。

 麗人は似つかわしくない笑い声を上げた。ゲラゲラゲラゲラ大爆笑。グルンと琥珀の瞳をこっちに向けてにんまりする。


「おおさすがの腕前だなお利口なメス犬! 噂はかねがね聞いてるぜ? 神崎雨音のバディを務める現実主義のイカレ野郎ってなあ!」


「……嬉しくない評価どうもありがとう。お家に帰ってくれると助かるんだけど」


 情けないことに声が震えた。あれは関わっちゃいけない存在だ。少なくとも安藤が相手できるようなヤツじゃない。これでも数えきれないほど死線を潜り抜けてきた身。勝てるものと勝てないものの区別ぐらいつく。こいつは、ダメだ。


「アッハハハ! 悪いけどオレサマはお使い頼まれてんの。お邪魔虫な用済みのゴミを片付けてくれた褒美にチャチャっと終わらせてやるよ」


 胸に手を当てて、恭しく敬礼してから。


「──オレサマは七大罪が一つ、傲慢の悪魔ルシファー。契約主の言いつけ通り、英雄に向けて伝言と、桜庭和子さくらばかずこに解雇の知らせを」


 ……七大罪の、一柱。頂点に立つ七体の一つ。悪名も功名も何もかも世界中に轟いている、世界を牛耳るほどの力を持った原初の悪魔。

 ……安藤は死ななかったことに疑問を持った。先ほど安藤が行った行為は核弾頭のスイッチの目の前で「押すなよ!」と何も知らぬ人間に念押しするのと同じこと。誰も彼も固まっている。動けない。動いたら死ぬ。動かなくても死ぬ。安藤達は魔王を倒した勇者に喧嘩を売ったレベル一のスライムと同義であった。

 桜庭和子と呼ばれた悪魔使いが震えて怯えて気を失いそうになっている。当たり前だ。死んだと思ったら助けられまた命の危機に瀕しているのだから。

 悪魔は嗤う。怯える人間どもを観察し嘲笑う。破顔しながら任務を遂行しようと口を開いた。


「んじゃ、一通目なー。……えーゴホン。傲慢の悪魔使いより英雄、神崎雨音様へ『拝啓季節うららかご機嫌麗しゅうとか死んでも書きたくないからぶっとばすけど伝えたいことはただ一つ。いつか心臓握りつぶしてやるから覚悟しとけ』だそうでーす。ウケんね。ヒュー、モテモテ。熱烈なファンができて良かったじゃねえか」


「……口悪いねえ。ほんとに原文そのまま? あと愛の告白は承ってない」


「シツレイな。オレサマは愚かなニンゲンどもの命令に忠実な超お利口さんで慈悲深い悪魔だぜ」


 ……なんで神崎は平然と会話してるんだろ。

 ああもう考えていることが一つもわからない。理解できた時なんぞ一回もないが、今回は本当に意味がわからない。ぶっちゃけ混乱に混乱を重ねた頭じゃ伝言の内容すら理解できなかった。ただ命が危ないことだけ分かる。脳みそは危険信号をひっきりなしに送ってきて、体は大慌てで主人に危険を伝えてきて、何も考えられない。過剰に流れる冷や汗が気持ち悪かった。


「んで、桜庭和子サン?」


「ひ……」


 悪魔が、ルシファーが悪魔使いに向き直る。神崎が警戒する。


「おめっとさーん。愚かな働き者であるオマエはめでたく自主退職勧告が出たぜ。退職金なんて出ねえから勘違いすんなよ」


「わた、わたしは」


「おっと、お仕事クビになったからって洗いざらい業務内容を話すなんて愚かなマネはすんなよー。したら物理的にクビになるからなー」


 あははとルシファーが笑って、それではミナサマと呼びかける。


「英雄の心臓はいつの日か受け取りに来るから! その時までご機嫌よう!」


 目の前に閃光が走って、皆が焼き尽くされる前に神崎が拒絶して。

 次に恐る恐る目を開けた時には、もう悪魔はいなかった。

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