第二十一話 『一緒に行こう』
「どうかした? なんか凄い顔してるけど?」
何度、エレナのこの言葉を聞いただろう。その度に自己嫌悪と、恐怖を孕んだ少しの安心感を得て、アッシュは行動を開始してきた。
最初の頃はまだ気楽だった。自分の中に生まれた祝福の力が、きっとエレナを助け、そして自分を助け、また日常に帰れるのだと錯覚させてくれた。
だが、そんな甘い話はなかった。
わかってはいた。理解していた筈だった。
この世界はいつも苦痛を与え、まるでそれが変わることのない真理であるかの様に執拗に痛めつける。
裏切られ、怒鳴られ、殴られ、蹴られ、そしてしまいには大切な人を失い、自分もまた殺される。
こんな世界で暮らしている人々は、何を求めて、何を得ようとして、日々を生き抜いているのだろう。
アッシュは、眉を寄せて心配そうな様子のエレナを見る。
「エレナ」
「何? 何か変よ? もしかして熱でもあるの?」
伸ばされた手を、優しく掴む。
エレナは怪訝な表情をしたが、すぐに顔を赤くしてアッシュの手を振り解こうとする。
「エレナ」
「な、何よ? ていうか手を離しなさいよ! いつまで」
「──逃げよう」
結局、あの時聞かされたルシウスの言葉の意味はわからないままだ。
ルシウスがどうしてあの時逃げなかったのか、あれだけアッシュに迷宮にかける思いを語りながら、どうして彼はあそこで自分の命を捨てる様な真似をしたのか。
アッシュはもう二度と苦しみたくはなかった。
「え?」
「ここから。この迷宮から。この街から。遠くに逃げよう」
言葉の意味がわからないのか、困惑した様子で見つめるエレナの手を引っぱり、迷宮の外へと向かう。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! アッシュ!」
エレナの静止する声を振り払い、アッシュはただ逃げるための行動を始める。
――――――――――――
「今は街の外は厳戒態勢なんだ。ワイバーンが観測されたからな。危険かもしれん」
「ああ……そうか。確かにあいつらは危ないよな」
アッシュは衛兵の注意を聞きながらも、視線を街の外へと向けたままだった。
「悪い事は言わねえ。さっさと街に戻りな。どんな事情があるのか知らないが、街の外に出たいならワイバーンの調査が終わってからにしろ」
「それは……いつ終わるんだ? いつ、安全になるんだ?」
虚ろなアッシュの言葉に、衛兵は気圧されたように僅かに身を引いた後、頬を掻きながら口を開く。
「それは……はっきりとは言えないが。だからといって、今この状況では危険なのか安全なのかもわからんだろう? 我々衛兵も万全の注意をしながら街の人たちのために調査を進めているところだ」
「……街の人たちのため……か」
アッシュは笑ってしまいそうだった。沈む泥舟を見捨て、逃げようとしていた衛兵たちの事を決して忘れてはいなかった。
結局人は人を救わない。裏のない善意などない。特にこの世界では。
それが痛いほどによく理解できて、アッシュは衛兵に背中を向ける。
「忠告ありがとうよ。行こうエレナ」
「え、あ、ちょっとアッシュ!?」
衛兵の呼びかける声を無視して、アッシュはエレナの手を引きながら街道を進む。
次第に道が舗装の甘い砂利道に変わり、後方に遠く見える緑の街は粒のような大きさに変わった。
「……隣町に行こう。そうすればきっと、何かが変わるんだ」
アッシュは自分で言っている言葉の胡散草さに反吐が出る様な気分だった。
変わる筈なんてない。結局夜になれば、またあの迷宮へと連れ戻される。
だが、歩みを止めるわけにはいかなかった。
例え少しの時間でも、たった一瞬でも、あの街から、あの迷宮から離れたかった。それがもし叶うなら、ずっとそうやって過ごしてもいいとさえ思っていた。
何度、迷宮に連れ戻されようと、何回でも、エレナを街の外に連れ出し、ひとときの平穏に浸っていたかった。
「ちょっと、痛いわアッシュ!」
「あ……」
エレナに手を振り解かれ、アッシュは間抜けな声をあげる。
「落ち着きなさいよ……一体どうしちゃったの? いきなりこんなところに連れてきて、本気で隣町に行くつもりなの?」
「……落ち着いてられるわけないだろっ……!」
「何があったの? 今日のアッシュ変よ? 何かあったなら話聞いてあげるから」
「変……? 俺がっ……? お前は何も知らないからそんな事が言えるんだろっ!? このままあの街にいたら、一体何が起きるのか」
「──何が起きるの?」
言葉尻を切るエレナの質問に、アッシュは声を詰まらせる。だが、振り払うように話を続けた。
「……酷いことだ。苦しくて悲しくて、恐ろしい事が起きるんだよ……俺にはわかるんだ。そんな事になるくらいなら、迷宮なんてどうでもいいっ……。一生、帰れなくたっていいっ! 俺はもうこんな場所にいたくないんだよっ!」
「……こんな場所?」
「そうだよっ……この街も、この世界も、全部クソだっ……! 汚くて、綺麗なもんなんて何もなくてっ…。だから帰りたかったよ俺だって! けど……もう疲れたんだよ……」
エレナに対して声を荒げるアッシュ。胸中を支配する諦めの感情を吐き出す自分が、情けなくて仕方がなかった。
それでも、もう耐えられなかった。
ループするたびに死んだエレナを見て絶望と悲痛に泣き叫び、殺人鬼に刺し殺され、建物の瓦礫の下敷きになり、ワイバーンに焼き殺された。
震えて蹲っていると、鐘の音が聞こえて無理やり連れ戻される。
悲劇を覚えているのは自分だけで、誰もアッシュの言う事を信じなかった。
初めはアッシュもエレナだけでなく、街の人たちも一緒に救おうとした。
ワイバーンの卵の話を衛兵に伝えたり、ギルドに殺人鬼の事を話したり。
だが、どれも信じてもらえなかった。どこまで行ってもアッシュはただの駆け出し探索者で、力も無ければ、権力も何もかも持っていなかった。
自分が見てきた残酷な光景を、誰か一人でも覚えていてほしかった。悲しみを一緒に背負ってほしかった。
だが、それが叶わないと知っているから、もう残されている道は、逃げるしかなかったのだ。
「アッシュ」
鼓膜を叩く心地いい声。何度この声を求め、そして何度絶望しただろう。
「早くっ……逃げないと」
「座って。アッシュ」
エレナは草原に腰を下ろした。そして、自分の横の地面を軽く叩き、アッシュに座るよう促す。
「休んでる暇なんかないんだよっ……! すぐにでも隣町に向かわないとっ」
「いいから座って」
エレナに手を引っ張られ、倒れ込むように草原に膝をつく。
「……わかってるんだよ。俺が意味のわからない事を言ってるのなんて……けど」
「風が気持ちいいわね」
聞こえているはずなのに、エレナはアッシュの焦った様子に反して、落ち着いた様子で空を見上げる。
「……やっぱり俺の言ってる事が信じられないんだなっ……? エレナは、エレナだけは信じてくれると思ってたのにっ……! なんでだよっ!? 俺はただ──」
言いたくない言葉が溢れ出す。何を言っても変わらないとわかってはいても、止める事が出来なかった。言葉を吐き出すたびに、自分がどれだけちっぽけなのか自覚させられる様な苦しさを感じる。
──叫ぶアッシュの口が、何かに塞がれる。
固まったアッシュの唇から、ゆっくりとエレナの顔が遠ざかっていく。
「少しは落ち着いた?」
頬を紅潮させたエレナの言葉に、アッシュは放心状態で固まる。
「──私が迷宮に潜る理由。そういえばアッシュにまだ話してなかったわよね」
「……」
押し黙ったままのアッシュに、エレナは続ける。
「アッシュは知ってるかな。迷宮の最深部はね。この世の世界とは思えないくらい、美しい場所なんだって。今までも攻略された迷宮は多くあるけど、そのどれもが違う美しさで、人々を魅了するんだって」
「……そうか」
アッシュは一度だけ、迷宮の最深部を見た事がある。それは迷宮と呼べるのかもわからない程の小さな洞窟だったが、アッシュにとっては迷宮に潜る理由を与えてくれた場所だ。
「私は迷宮の最深部を見てみたい。皆が口を揃えて言う美しいその場所を、見てみたいの。それが私が迷宮に潜る理由」
エレナが迷宮に潜る理由を聞いて、アッシュは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「そんないいものじゃない……。きっと……幻滅する」
「それは見てみないとわからないでしょ? それに、思っていたものと違ってもいいの。私が、私の力で、成し遂げた先に見てみたいと思った光景なんだから、どんなものでも満足できる自信があるわ」
エレナの力強い断定の言葉に、アッシュは気が抜けるような錯覚に陥る。
「やっぱり強いな……エレナは」
「ふふ……こういう風に考えられるようになったのも、元々はアッシュのお陰なのよ」
「え?」
「昔、私がこの街に来た頃にね。なんて馬鹿な事をしたんだろうって思ったの。自分の住んでた場所から遠く離れた街で一人きりでさ。街の人は誰も助けてくれないし、人攫いには遭いそうになるし、もう散々だった」
「……」
「挙句の果てにはお金も失くすし、家を出た私の決心って甘かったのかなって思ったわ。無謀だったってね」
「俺も……同じようなものだった」
「──でも、死にそうなくらいお腹が減って倒れていた私に、手を差し伸べてくれた人がいた」
エレナの目が、アッシュを見る。
「その人は、自分もお金なんて持ってなさそうなのに、路地裏で倒れ込んでいた私に色々と世話を焼いてさ。ご飯を買ってきてくれて、宿に泊まれるお金を無理矢理渡してきて、わからない事は誰に聞けばいいのか、とか。聞いてもいないのに教えてくれて……」
草原に吹く風の音に攫われない程、力強く優しい声でエレナは続ける。
「その人も何も知らなかったし、何も持ってなかった。だから、私は本当にこの人に頼っていいのかな?って思った。けど、その人が私に言うの。大丈夫。きっとなんとかなるって。その言葉が……涙が出るほど……暖かくってさ。私、凄く救われたの」
溢れ出る涙を堪えるように、空を見上げるエレナ。
「そんな事……あったっけか」
エレナは腕で涙を拭い、腫れた目でアッシュを見つめる。
「アッシュは忘れていても、私は決して忘れないわ。あの時、アッシュが助けてくれたから、きっと、なんとかなるって言ってくれたから……私はこの街が好きになれた。私はこの町でやっていけるんだって思えた」
どうしてだろうか。エレナの言葉を聞いていると、アッシュは目頭だけでなく、腹の内側から湧き立つような熱を感じた。
「だから、そんな悲しそうな顔をしないで? この世界はアッシュが言っていたみたいに、確かに汚い部分もあるかもしれない。この街だって、良いところばかりじゃないよ。人だって同じ。けど……私ね? アッシュに会えて、この世界が好きになれた。一人じゃないんだって思えたの。だから、私は決してアッシュを一人にはしないっ。パーティを追い出されたって、どこにいたって、きっと探しにいくっ……」
「っ……」
「──私がそうしたいの」
アッシュは衝動的にエレナを抱きしめる。小さな身体が、胸の中で震えているのを感じる。
なんでこんな簡単な事に今まで気づけなかったんだろう。
──クソなのはこの世界じゃない。俺自身だ。
こんな世界で誰かに善意を与えるなんて、馬鹿のする事だと思っていた。けど、そんな馬鹿な行動で、救われたと言ってくれる人がいる。
探しに行くと、一人にしないと、そうやって何も打算のない言葉をかけてくれる人がいる。
──逃げたくない。
アッシュは初めてそう感じた。
腹の中を暴れるような熱は、背筋を冷やす恐怖を焼き尽くし、そしてまた立ち上がる力をくれる様だった。
「エレナ」
いくら涙が流れようと、もう決意に輝く瞳を決して瞼で覆い隠す事はない。
「──エレナ。俺はもう逃げない」
何度打ち砕かれようとも、もう逃げない。
『逃げられないなら、逃げない』
ルシウスの言っていた言葉の意味が、少しだけわかる気がした。
逃げられない状況というのは、こういう事を言うのだろう。
奮い立つ覚悟に引かれるように、困難に立ち向かう理由が出来た。
逃げる、逃げないではない。逃げたくないのだ。
その果てに何があるのかなんて、今はどうだっていい事だ。
何度死のうとも、何度打ちのめされようとも、どれだけ精神が壊れ、魂が擦り切れようとも構わない。
エレナが見たがった、美しい光景を見せてあげたい。
アッシュはようやく気がついた。自分のやるべき事がなんなのか。
「エレナ。俺と一緒に行こう」
──迷宮の最深部に。
上空から火の海が落ちてきて、アッシュは鐘の音を聞いた。
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