第十六話 『再び迷宮の地を踏む』


「──どうかした? なんか凄い顔してるけど?」


 黒い霧が晴れた様な視界に、見慣れた洞窟が映っていた。


 アッシュは足の力が抜け、その場に膝立ちになる。


「ちょ、ちょっと。いきなりどうしたのよ!? どこか具合でも悪いの!?」


 鼓膜を叩く高い声に、アッシュは壊れた人形の様に首を回す。


「調子が悪いんだったら先に言ってよね? それなら私だって……どうして泣いてるの?」


 困惑した様な表情のエレナが、アッシュの顔を覗き込んでいた。


 アッシュは堪えきれずエレナに抱きつく。膝立ちのままだったため、バランスを崩してもたれかかる様な形になったが、そんな事を気にしている余裕すらなかった。


「え、ええ!? ちょっと! な、なにすんのよ!?」


 振り解こうとするエレナに、腰の後ろに腕を回して強く抱きしめる。


 溢れる涙を止めようともせず、アッシュは喉をしゃくり上げながら嗚咽を漏らす。


「……一体どうしちゃったのよ。いきなり倒れそうになったかと思ったら、急に泣き出して……」


 最初は抱きつくアッシュに抵抗していたエレナだったが、諦めたのか今ではぶっきらぼうにアッシュの前髪を掻き分けている。


「エレナっ……エレナっ……!」


「はいはい。私はここよ。泣き虫アッシュ。怖いなら、初めからそう言えばよかったのよ」


 エレナは顔を僅かに赤く染めながら、いつまでもアッシュの頭を撫でていた。




 ――――――――――――


 泣き腫らしたアッシュに、エレナは涙でぐしゃぐしゃになったローブを拭きながら語りかける。


「どう? 少しは落ち着いた?」


「……うん。悪い。取り乱して」


「別にいいけど。それより何があったの? 迷宮の入り口に差し掛かった途端、急に……あんなことして……」


 エレナは頬を紅潮させながらそっぽを向く。


「エレナがいるって思ったら、堪えられなくてさ」


「え、え、え? な、なにそれ? まさか私に欲情したって事……?」


「いや、そうじゃないけど」


「はあ!? じゃあなんなのよ! ていうか、時と場所を考えなさいよね!? いきなり、だ、抱きついてきたりしてぇ……」


「悪かったって。それより、ここは深緑の迷宮の入り口だよな?」


「そうだけど……どうしちゃったわけ? なんかさっきから様子がおかしいけど」


「いや、そうだな。エレナに言っておかないといけないことがある」


 アッシュは真剣な表情でエレナに向き直る。


「な、なに?」


「……なんでかわからないけど、俺、時間が巻き戻ってるみたい──」


 ピシっ、と何かが張り詰める様な音を聞いた。


 まるで時が止まった様にアッシュの視界に映る全てが凍りつき、目の前にいるエレナはモノクロの様な色調へと変わる。


 ──なんだこれ。


 疑問に思う間もなく、視界の中の風景が動きだす。


 ビデオの巻き戻しの様に高速で視界が動き、アッシュは口を開きかけたまま、その場に立ち尽くした。


「──どうしたの? 何か話があるんでしょ?」


 エレナは困惑した表情でアッシュを見つめる。


「うっ!」


 アッシュはその場に蹲って吐瀉物をぶちまけた。


「ど、どうしちゃったのよ一体!? アッシュ! 私の声が聞こえる!?」


 迫り上がってくる猛烈な吐き気に抗うこともできず、その場でげえげえと吐き続けるアッシュに対して、エレナは背中を摩り続ける。


「うっ……ぷっ……なんだこれ……」


 エレナに自分がタイムスリップしている事を話そうとしたら、それが


「……やっぱり体調悪いんでしょ? 無理しないで今日は引き返すわ。いいわね?」


 これは一体なんなのだろうか。アッシュ自身、タイムスリップしている事は疑いようのない事実だった。


 なのにそれを話そうとしたら、話す地点の前まで時間が巻き戻って、胃そのものを吐き出してしまう程の強烈な吐き気が襲いかかってきた。


「……う、訳が、わからねえ」


「わからないのは私の方よ……そんなにきついなら先に言ってよね? ほら、掴まって」


 エレナに肩を貸してもらいながら、迷宮の入り口へと戻っていく。


 なんとも情けないと思いながらも、アッシュは抗う気力すらなく迷宮を出ていった。



 ――――――――――――――



 迷宮を出ると、そこには見知った顔がいた。


「おや? どうしたんだい? もしかしてキラーホーネットの毒にやられたとか?」


 好奇心を覗かせながら笑顔で近づいてきたのは、金髪の上級探索者ルシウスだった。


「……違うから大丈夫だ。気にしないでくれ」


「そうは言ってもね……おーいロクロ。こっちに来てくれないか?」


 ルシウスは少し離れた場所にいた男を呼び出す。少年の様な顔と身長の、口の悪い男ロクロだ。


「どうした? なんかあったのかルシウス?」


「いや、この探索者なんだけど、随分と顔色が悪くてね。見てあげてくれないかな?」


「またお前はそうやって……ちっ。おい、こっち来いガキ!」


 ロクロに促されて大きな石に座らせられ、額に手を当てられる。その後、脇の下を弄ったり、目の下を引っ張ってみたりと好き勝手に身体を触られた。


「熱はねえみてえだな。脇も腫れてねえし、なんかの感染症ってわけでもなさそうだ。おいガキ。なんかいつもと変わった事は?」


「アッシュは本格的に迷宮に潜るのは今日が初めてなんです」


 エレナが補足するように付け加えると、ロクロはちらりとそちらを見た後に、ため息をついて項垂れる。


「断言は出来ねえが、多分、極度の緊張による疲労だな。出せる薬はねえが、今日一日大人しくしてりゃ治るだろ」


「あ、ああ。ありがとう……」


「いいってことよ。おいミーナ! お前は女見たら抱きつく癖どうにかならねえのか!?」


「別にいいでしょ。誰にも迷惑かけてないし」


「あ、あの……離して」


 エレナの方を見ると、ミーナから抱きしめられ、髪の毛に顔を埋められていた。


 それに苦笑していると、横にルシウスが座る。


「悪いね。僕のパーティは男ばっかりだから、女の子を見つけるとミーナはついはしゃいでしまうんだ」


「エレナが嫌がってないなら、別にいい……」


「はっは。ミーナも無理に嫌がる事はしないさ。アッシュだったね? 僕はルシウス。さっきロクロが呼んでたから知ってると思うけど」


「ああ……それだけじゃなくて有名人だからな。まあ知ってる」


「そっか。それでアッシュ。一つ聞きたいんだが、君はどうして迷宮に潜るんだい?」


 ルシウスにそう聞かれ、アッシュは怪訝な表情を向ける。


「別に。ただ俺にはそうする他ないだけだ」


「ふむ……出来ることなら、迷宮には潜りたくないって事で合ってるかな?」


「……ま、そうだな。上級探索者様にとっては、情けない奴に見えるかもしれねえけど」


 アッシュが皮肉を込めて言うと、ルシウスは柔らかい表情のまま首を振る。


「そんな事はないさ。迷宮は綺麗事ばかりじゃないからね。ただ気にはなるな。どうして嫌なのに迷宮に潜るんだろうって。僕も似た様な物だから」


 ルシウスの口からそんな事を聞かされ、アッシュは目を見開く。


「ルシウスも……本当は迷宮に潜りたくないのか?」


「この迷宮には、ね」


 珍しく表情を曇らせたルシウスの言葉に、アッシュは慌てて口を開く。


「わ、悪い。無神経だったな……」


「気にする事はないよ。僕らが仲間の命と引き換えに魔道具を持ち帰った事は、この街の探索者なら誰でも知っている事だろうからね」


 ルシウスは顔を上げ、草原に吹く風を感じる様に遠くを見た。


「それでも、悪かった」


「いいさ。構わない。きっと君も、同じ傷を持つ者だと思うから」


「傷……? それってどういうことだ?」


「何かを失ったってことさ。違うかい?」


 ルシウスの言葉を聞いてアッシュは考える。迷宮探索によって、アッシュは何かを失ったのだろうか。


「お前の言ってることはよくわからない」


「君は自分で気づいていないんだな。まあ、そういうものさ。迷宮に囚われた者というのは、失った欠片を求める様に迷宮に執着する。何を失ったのかもわからないままね」


「俺は迷宮そのものには興味なんかない。ただ俺の目的を果たすのに、ここしか手がかりがないだけだ」

 

「そうか。まあそれも一つの答えさ。アッシュ。僕がどうして嫌なのに、この迷宮の攻略を続けるのか、その理由を知りたいか?」


「……まあ、聞かせてくれるなら」


「はっは。正直で結構。僕はね。仲間を失ったこの迷宮を攻略しないと、決して前に進めないんだよ。それは、亡くなった仲間への弔いでもあるし、僕自身のけじめでもあるんだ」


 ルシウスの言葉に、強い引力の様な物を感じて、アッシュは顔を背けた。


「俺にはそんな高尚な理由なんてないし、そんな覚悟もない」


「そうかな? 自分一人では歩けない程に打ちのめされて、それでも尚、君の瞳は迷宮に潜ろうとする光を宿している。それは誰にでも与えられる物じゃない。きっと特別な物だよアッシュ」


 話の区切りがついたからか、ルシウスは砂埃を払いながら立ち上がる。


 そんなルシウスを見て座ったままでは居心地が悪かったため、アッシュもそれに倣った。


「改めてよろしく頼むよアッシュ。僕はルシウス。大切な仲間を失った罪滅ぼしに、迷宮に潜る探索者だ」


「ああ……俺はアッシュだ。クソみたいな世界が嫌いな一人の駆け出し探索者だよ」


 がっしりと握手をし、そのまま手をひらひらと振るルシウスの後ろ姿を見送る。


「何を話してたの?」


「別に。自己紹介がてら雑談してただけだ。大した事は話してないよ。それより、エレナ。お前これからなんか用事あるか?」


「まあ、ちょっとやりたい事があったけど」


「それ無しにできないか?」


「どうして……? ていうか、なんで私があんたに指図されなきゃいけないの? そもそも」


「──今日は夜まで一緒にいてくれないか?」


 エレナの話を途中で遮り、アッシュはエレナに告げる。


 それを聞いていたミーナが、視界の隅で親指を立てたのが見えたが、気にせずエレナの返答を待つ。


「なっ」


「な?」


 みるみるうちにトマトの様に赤くなっていくエレナは、ぶんぶんと腕を振り回した後、堰き止められていたダムが決壊した様に口を開く。


「何言ってんのよばかっ!!!」

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