第十五話 『鐘は再び鳴り響く』
泣き疲れたアッシュに、シャーロットが問いかける。
「少しは落ち着きましたか?」
「ああ……ありがとうシャーロット。迷惑かけたな……」
シャーロットから離れ、アッシュは疲れた表情で俯く。
「いえ、迷惑なんて……気にしないでください。
「……シャーロットはどうしてあそこに?」
アッシュの問いに、シャーロットは少し悩んだ素振りを見せたが、躊躇しながらも口を開く。
「夕食の約束をしていたでしょ? だから、噴水広場で待っていたんです。けど、いつまで経っても来ないから帰ろうと思ったんですけど」
「……夕食の約束?」
「はい。昨日約束しましたよね? ギルドに来た時に、帰りがけにポーションを渡して」
シャーロットの耳飾りが、鈴のような音を鳴らすのをアッシュは目を見開いて見ていた。
「……」
「責めてるわけじゃないんですよ? あんな事があったんですから……」
「あ、いや。その件は俺が悪かった。謝るよ」
「本当に気にしないでくださいね?」
シャーロットが念を押す様に言うのを、最早アッシュは聞いていなかった。
──やっぱり何かがおかしい。あれが夢なら、シャーロットはどうして夢の中で着ていた服と同じなんだ。
シャーロットの姿は、あの時に料理屋に行った姿と同じだった。
それだけではない。エレナと迷宮に潜って、同じ様にルシウスたちに出会い、同じ様な街の噂話を聞き、そして同じ様に宿からいなくなった宿の女性。
「あれは……未来を予知してるのか? もしそうなら……」
アッシュは突然立ち上がる。
「ど、どうしました?」
「逃げないと! 早くっ!」
アッシュの慌てた様子に、シャーロットは困惑した表情を浮かべる。
「一体どうしたんですか? 逃げるってどこに? 何から逃げるって言うんですか?」
「早くしないとっ!」
その時、街に響き渡る大音量の警笛。
街のどこにいても聞こえるような音だった。アッシュにとっては二度目の邂逅であり、悪夢の始まりを告げる笛の音である。
「警笛……? こんな夜中にどうして?」
「ワイバーンが来たんだっ……! 建物の中にいたら倒壊に巻き込まれるかもしれないっ」
「街の外にワイバーンが出たっていう話は聞きましたが……それがどうして街に?」
状況が飲み込めない様子のシャーロットに、アッシュは手を握って引っ張っていく。
「とにかく、建物から出ようっ!」
「ちょ、ちょっと! アッシュさん!?」
尚も警笛は鳴り響いている。二人して宿から慌てて出ると、遠くの方で人々の悲鳴が響き渡っていた。
空には悠々と旋回するワイバーンの群れが見えて、首を持ち上げては鞭のようにしならせて火の玉を降らしている。
「ちっ……! こんな早いのかよっ!?」
「ほ、本当にワイバーンが……? どうして群れでこんなところに……?」
近くの建物から出てきた人々も慌てて、街の中心部から離れようとしている。
アッシュはシャーロットの手を引いて、その人たちに着いていくように走り出す。
「ちょっと待ってくださいアッシュさん! 私はギルド職員です! 有事の際にはギルドに行かないとっ!」
「そんなこと言っている場合かよ!? 早くここから離れないと!」
「アッシュさん!」
手を振り解かれ、アッシュは呆然とした表情でシャーロットを見つめる。
「な、なんでだよ? こんな状況なんだぞ? 一人くらいいなくたっていいだろっ……?」
「アッシュさんは街の人たちと一緒に逃げてください。私は……ギルドに向かいます」
その言葉にアッシュは顔を歪める。
ワイバーンの群れが見えるのは、迷宮のある方角だ。ギルドの建物は街から迷宮に近い位置に存在する。
つまり、一番危険な場所であるということだ。
「どうしてだよっ……なんで行くんだよ……? シャーロットが行ったからって何か変わるのかよっ!?」
アッシュは思い通りにいかない苛立ちをぶつける様に、シャーロットに対して叫ぶ。
「それはわかりません。けど、私はギルド職員なんです。きっと出来ることがあります。だからここでお別れです」
シャーロットの優しくも決意を固めた様な表情にアッシュは、黙っていられなかった。
「……お前も、俺を一人にするのかよ……? エレナも死んで、それなのに、死ぬかもしれないのに……もう会えないかもしれないのにっ……お前を止めちゃいけないのか……?」
シャーロットは一瞬、何かを言おうと口を開きかけたが、考え直した様に微笑みを浮かべる。
「アッシュさん。安心してください。私はただのギルド職員ではないんですよ」
「……」
「私は正義の味方です。かの花園の一員で、苦しむ人たちを導く使命があるんです」
こんな時に何の冗談を言っているんだ、とアッシュは考えたが、シャーロットは続けてこう言った。
「──アッシュさん。私が死んだら悲しいですか?」
「当たり前だろっ……シャーロットは俺にとって大切な人だから」
アッシュの答えに、シャーロットは瞼を閉じて微笑んだ。
「その言葉だけで十分です。私にとっても、アッシュさんは大切な人です。だから、もう行きますね」
「ま、待ってくれ! シャーロット!!」
走り去っていくシャーロットの背中に手を伸ばすが、ワイバーンの火の玉が降ってきて、行く手を遮られる。
「くっ」
視界を覆っていた腕を下げると、すでにシャーロットの姿は見えなくなっていた。
「くそっ。くそくそくそっ!! なんで俺はっ……!」
アッシュはシャーロットとは逆側に走り出しながら、自分の無力さに奥歯を強く噛み締める。
走り出してからどれくらい経ったろうか、被害が比較的少ない街の外れまで来て、逃げてきた人々と合流した。
「おい!」
荒い呼吸を整えながら声の主を見ると、それは知っている顔だった。
「ジークっ……!」
今最も会いたくないであろう人物の登場にアッシュは堪えきれずに憎々しげな視線を向けた。
すると、ジークの陰から一人の人物が顔を出す。
「よお、アッシュ。お前も無事に逃げてこられたんだな?」
ジークの後ろから顔を出したのはライゼンだった。
ジークとは出来れば会いたくはなかったが、ライゼンは別だ。見知った顔と出会えて、少しの安心感を得る。
「おい。アッシュ。お前リシャを見てねえか!?」
自分がした仕打ちなど忘れたかの様にジークに聞かれ、アッシュはこめかみに青筋を立てる。
「ふざけんなよっ……あんな女よりエレナの事だろうがっ!!」
「うるせえ! 俺はリシャを見たのか聞いてんだよ! はっきり言いやがれ!」
「知らねえよあんなクソ女のことなんか! それよりエレナに何があったのかお前知ってんのか!?」
ジークに胸ぐらを掴まれながらも、負けじと言い合いを続けるアッシュに、横合いから手が伸びてくる。
「はいはい。まずは落ち着いてくれよ。ジーク? お前もリシャのことが気になるのは仕方ねえけど、こんな調子じゃ話も進まねえ。俺が聞くからお前は向こう行ってろよ」
「このクソ野郎が意味不明なことばっかり言うからだろうがっ……」
地面を蹴り上げながら、背中を向けて離れていくジークを見て、ライゼンは苦笑する。
「それで? エレナがどうだって話をしてたが、一体どうしたんだアッシュ?」
「エレナが殺されたっ……」
「は? ……誰にだ?」
「俺が一番知りたい……ライゼン。お前誰がこんなことやったのか知ってるか?」
アッシュは怒りの感情で血走った目をライゼンに向けた。
「そんな目をすんなよアッシュ……俺も正直、今聞かされたばっかで何も知らねえ……。悪いけどそれは本当のことなんだよな?」
「ああ……刺されて……血を流してて……手が冷たくて」
消化しきれない感情を見せるアッシュに、ライゼンはジークに聞こえない様に小声で話す。
「わかった……とりあえずお前の話を信じる。それで、リシャの姿は見たのか?」
「見てねえよ。あんなクソ女っ。どっかで野垂れ死んでればいい」
アッシュの言葉に、ライゼンの手が凄まじい速度で伸びてきた。
「ぐっ……」
「何を言ってんだよアッシュ……? エレナが死んだからって、その苛立ちをリシャにぶつけんのはお門違いだろ?」
胸元を締め上げられたまま持ち上げられ、地面には爪先しか届かない。
アッシュの身体を片手で持ち上げる程の怪力を発揮しながら、ライゼンは凍える様な視線を向ける。
「お前に、何がわかるんだよっ……?」
「ちっ。俺もエレナが殺されたなんて寝耳に水なんだよ。苛立ってんのはお前だけじゃねえんだ。頭冷やせ馬鹿たれ」
不意に胸元にかかっていた力が抜け、咳き込みながら地面に尻餅をつくアッシュ。
「悪い……八つ当たりだった」
「気づいてくれりゃそれでいい。それより、ジークにはエレナが死んだ事は隠しておく。ただでさえリシャがいなくなってテンパってるからな」
「……お前は変わらないな……ライゼン」
皮肉屋であり、掴みどころのない奴だったが、どんな時でも冷静で思慮深い男だった。
アッシュには今はその冷静さが憎かったが。
「全員静かにしろ! 隊長から報告がある!」
衛兵のよく通る声に、避難してきた人々の声が止む。
「今現在、上級探索者たちとギルド職員が数十頭のワイバーンの群れの対処をしている! 我々は緑の街を放棄し、隣街へと避難を始める!」
衛兵の言葉に、人々の間でざわめきが起こる。
「……どうやらお偉いさん方はギルドとこの街を見殺しにするみてえだな」
小声で話すライゼンの言葉に、アッシュは頭が沸騰する様な怒りを覚えた。
「ふざけんなよっ……! なんのための衛兵だよ!?」
「仕方ねえさ。国に使える奴らとは違って、ギルドってのは半ば独立した機関だからな。そのおかげで得られている特権だってあるんだ」
「それでもっ……助けられるかもしれねえのに」
そう呟くと、後ろから背中を蹴り付けられる。
「ぐっ……いっつ」
「だったらてめえは前線に戻れよハイエナ野郎。何もせずに避難してきたてめえに文句言う資格はねえだろ?」
ジークがアッシュを睨みつける様に見下ろす。
「……俺が戻って何ができんだよ?」
「ああ?」
「俺には何の力もねえんだよ! そりゃお前らはいいよなあ!? 迷宮に潜って、毎日魔物と戦闘して! 怖いもの知らずだろうよ!?」
「いきなり何喚いてんだクソがっ……!」
「こんなクソみたいな世界で、なんで、どうしてエレナがあんな目に遭わないといけないんだよっ……!? どうしてシャーロットが、あんな場所に戻らないといけないんだよっ!? わかってんだよっ……俺に少しでも力があればっ……!」
「うるせえ! 黙りやがれ!」
苛立ったジークに思い切り殴られ、アッシュは地面を転がる。
奥歯が折れたのか、ジンジンと疼く様な痛みと、衝撃で切った口の中で鉄に似た味が広がる。
「ちっ。こんなやつ放っておいて行くぞライゼン! リシャを探しにいく! もしかしたら避難民に紛れてるかもしれねえ!」
「おいおーい。待ってくれよジーク〜……はぁ……」
去っていくジークから視線を外し、ライゼンはアッシュの方へと近寄ってくる。
「悪いが、俺も行くぜアッシュ。心中は察するが、俺はここで腐ってるわけにもいかねえからよ。くれぐれも早まった真似はすんなよ?」
軽い足取りで去っていくライゼンが見えなくなると、アッシュは地面を思いきり殴りつける。
何度も何度も拳を打ちつけ、地面にぱたぱたと血の滴が落ちる。
「くそっ! くそっ……! こんなクソみたいな世界、壊れちまえっ……!」
悲しい事しかない世界に、アッシュは怨嗟の声をあげる。
やがて、腕を振り下ろす力も失い、アッシュは霞む視界で地面を見ていた。
涙はとうに枯れたと思っていたのに、いまだに流れ続け、血で染まった地面の砂に溶け込む。
カラカラに乾いた喉で、アッシュは振り絞る様に声を出す。
「神様っ……もしいるなら、頼むっ……もう一度……もう一度だけでいいっ……」
倒れ込みながら独り言を呟くアッシュを横目にみた避難民が、迷惑そうにぼやく。
「みっともねえな」
「死んでるのか?」
「邪魔だから誰かどかしなさいよ」
「気が狂ってんのか?」
だが、アッシュの耳には最早聞こえていなかった。耳に入れる価値すらない、雑音としか認識していなかった。
アッシュはたった一つだけ、ある少女の声を望んでいる。
「……もう一度だけっ……チャンスをくれ……エレナにまだ何も返せてないんだよ俺はっ……! だから、神様っ!! 俺にもう一度チャンスをくれよぉ!!」
アッシュの魂からの叫びは、雑多な避難民の喧騒に掻き消された。
その声に耳を傾ける者はその場には存在せず、また、それに反応を示す者も存在しなかった。
アッシュの耳には遠くから響き渡る様な音が聞こえていた。
街の人々の不安げな話し声や、衛兵の怒鳴る様な声。迷宮の方角から聞こえる建物が崩壊する音や、火柱が立つ音。
そのどれよりも鮮明な鐘の音が、アッシュの頭の中で響き渡った。
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