第十四話 『隠れていただけの悲劇』
宿の受付である初老の女性は、アッシュが帰ってきても目配せするのみで歓迎の言葉など言わない。
アッシュもそれをわかっているため、横目にちらりと窺い見るのみで、自室のある二階へと上がっていく。
部屋に入ると荷物を下ろし、ベッドに大の字に横になる。
襲いかかる眠気にうつらうつらとしていたが、立てかけていた剣が倒れた音で飛び起きる。
「……寝れそうにないな」
窓に目を向けると、わずかに空が赤らんできていた。
身体は疲れているのに、頭の中を支配するのは焦燥感だった。
今は穏やかな空が、ワイバーンの群れによって地獄の様な様相に変わるなんていうのは、いくら考えても信じられなかった。
「あれは夢なんだ……大丈夫。あんな事、起きるはずがない」
アッシュは自らに言い聞かせる様に呟く。
ふと思い立って、アッシュは宿の庭にある井戸で顔を洗おうと考えた。少し気分転換をしたかったのが理由だ。
宿の出口に差し掛かると、受付の女性が出ていくところだった。
「どっか行くんですか?」
「ああ。いいところに来た。悪いけど、私は外に用事があるんだ。もし出かけるなら鍵を閉めて行ってくれるかい?」
宿の入り口の鍵を手渡され、アッシュは出ていく女性を見送る。
「そういえば……あの夢でも宿に誰もいなかったよな」
そこまで考えて頭を強く振る。
宿を出て、庭にある井戸で顔を洗うと、その冷たさに冷静さを取り戻す。
そこでアッシュはこの不可解な現象について改めて考えを巡らせる。
「変なことが起き始めたのは、迷宮に入ってからだよな……そういえば、あの時、俺にだけ学校のチャイムが聞こえたような」
濡れた前髪からポタポタと落ちる雫を見ながら、アッシュは決心する。
迷宮について調べるために、街に繰り出す事にした。
――――――――――――
街の中央である噴水広場に着くと、外も暗くなり始めていたため人も少なかった。
「シャーロットと行った店はどこだったっけ」
アッシュは何の気無しに夢の中で見たレストランの様なものを探した。
だが、シャーロットに着いていってただけで、店の場所も詳しくは知らなかったために路地に迷い込んだ。
ようやく抜け出した場所は、夜は人通りも少なくなる裏道だった。
夢の中で刺された記憶が蘇り、少し冷や汗をかいたが、少し先に人が集まっているのが確認できたため安堵する。
人だかりは騒々しく、一体何があったのか衛兵までもが集まってきている。
「何かあったんですか?」
何かを取り囲んでいる人の一人に話しかけると、その人は表情を歪めて言った。
「人が殺されてるんだ。見ても気持ちのいいものじゃない。冷やかしならさっさと帰ったほうがいい」
「……そう、ですか」
「俺は近くの店で働いているからな。一応衛兵から話を聞かれてるんだ」
アッシュは夢の中でも、衛兵が殺された人がいると言っていたのを思い出す。
面倒ごとに巻き込まれたという風に額に手を当てる男から視線を外し、僅かに覗き見える人だかりの中心に視線を向ける。
それは単純な興味からだった。
「──え?」
アッシュは急に激しくなる自分の心臓の音を聞いた。
視界の端に映った
「おい、押すんじゃねえよ!」
粗暴な風体の男に肘で押し返されながらも、アッシュは地を這うように人だかりの真ん中へと進んでいく。
そこにあったのは。
「な……んで……?」
胸の中心を短剣で貫かれ、地面に縫い付けられる様に血溜まりをつくるエレナの姿だった。
──なんで。どうして。何が。
「君、あんまり近づくな」
「あ……え、エレナ? 嘘だろ? お、おい……?」
瞼を閉じて大の字に倒れ込んでいるエレナの手を掴むと、まるで氷の様に冷たかった。
「死体に触れるな!」
衛兵に後ろから引っ張られ、アッシュは尻餅をつく。離れたエレナの手が、重力に引かれる様に血溜まりの中へと落ちた。
跳ねた血の雫が、アッシュの頬に飛ぶ。
「う、あ、あ……」
喉が張り付いて声が出なかった。グラグラと揺れる視界で、赤茶色の髪の毛だけが鮮明に網膜に焼き付く様だった。
「もしかして知り合いか?」
衛兵の言葉に、アッシュは頷くことすら出来なかった。ただ、彼女の元へ行こうと、力無く地面を掻くだけだった。
「……可哀想に。まだ若いのにな」
「だ、だれが……? エレナはどうして……?」
途切れ途切れの質問に、衛兵は首を振った。
「まだ犯人は捕まってない。遺体を見つけたのは斜向かいの店の店主だ。安心しろ。犯人は必ず私たちが見つける」
衛兵の言葉は、アッシュの耳に届いてすらいなかった。
そのままタンカの様な物で遺体が運ばれていくのをただ見ている事しか出来なかった。
――――――――――――
どれぐらいの時間が経っただろう。人だかりは消え、そこには拭き取られた後の血の跡が僅かに残るのみだった。
そこにエレナがいたという痕跡は、あまりに綺麗に失われてしまった。
アッシュは建物の壁に背を張り付けたまま、ただ座り込んでいた。
「アッシュさん……?」
誰かの呼びかける声が聞こえたが、反応する事すらできず、アッシュはただ地面を見ていた。
「こっちに来てください。こんなところにいたら風邪を引きますよ」
誰かに腕を引かれ、その力に身を任せたまま倒れ込む。
「ちょ、ちょっと!? あ、アッシュさん? どうしたんですか?」
誰かの身体の上に覆い被さる様になり、下敷きになった人物は焦った様に抜け出そうと踠く。
「ふう……仕方ないですね」
アッシュは何も考えたくなかった。
だから、その人物が肩に腕を回してアッシュを何処かへ連れていくのを、他人事のように考えていた。
どれくらい歩いただろうか。アッシュは柔らかいソファの様なものに座らされる。
「……アッシュさん。これ飲んでください」
差し出されたコップになんの反応もしないアッシュに業を煮やしたのか、その人物は口元へとコップを近づけて傾ける。
喉を潤す水の冷たさに、そこでようやくアッシュは緩慢な動きで顔を上げた。
「シャー……ロット……?」
「はい。愛しのシャーロットですよ。それにしてもどうしてあんな場所で座り込んでいたんですか?」
ゆっくりと辺りを見渡すと、知らない宿の一室の様だった。
「……こ、ここは?」
「私の寝泊まりしている宿です。大変だったんですよ? アッシュさんをあそこから運んでくるの。これに懲りたら女性に力仕事をさせないでくださいね」
「そう……か」
「ただ落ち込んでいるだけじゃわかりませんよ……。一体何があったんですか?」
シャーロットの質問に、アッシュはパクパクと空気を吐き出しながら口を開く。
「……エレナが……死んだ」
「え?」
聞き返すシャーロットに、アッシュは抑えていたものが吹き出た様に言葉を続ける。
「胸を貫かれてた……血の池みたいなのができてて……人が集まってて……俺はっ……最初は……知らない誰かが死んだんだって思って……」
次第に大きくなる震えに、シャーロットが慌てて駆け寄ってくる。
「お、落ち着いてください! それは確かなんですか? 本当に……エレナさんが?」
「……エレナはさ……俺に言ったんだよ……また明日って……だから俺もそれに返事したんだ。なのに……なんで、こんなことになっちゃうんだよっ……?」
話しているうちに堪えきれずボロボロと涙が溢れるアッシュに、シャーロットは動揺した様子を見せながらも、ゆっくりとその手を伸ばしてくる。
そして、アッシュはシャーロットの腕に誘われる様に、胸の中に抱えられた。
シャーロットに抱きしめられながら、その暖かさと鼓動の音に、アッシュは絶えず涙を流し続けた。
頭の中に思い浮かぶのはエレナの顔だった。
いつも不機嫌そうで、口を開けばアッシュに文句ばかり言って、面倒くさがりながらも、パーティを追い出されたアッシュを、決して一人にはしなかった。
「う……エレナっ……ううあぁあっ……!」
「大丈夫……アッシュさん。いくらでも泣いていいんです……私が……ついていますから」
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