第三話 『めげない少女』


 翌日の早朝、アッシュは一人、迷宮の扉の前に立っていた。

 

 迷宮探索者とはその名の通り各地に存在する迷宮の探索を生業とする職業である。


 迷宮に関して最低限の事を学び、探索者ギルドから正式に迷宮に入る資格を得たものだけがその恩恵に預かれる。


 緑の街から整備された道を通って30分程歩いた場所に、その迷宮は存在する。


 "深緑の迷宮"と呼ばれるその場所は、一度中に足を踏み入れれば、草花や大樹が生い茂る自然豊かな場所へと繋がっている。


 迷宮の中には日光など存在しないのに、どうやって光合成をしているのか現代人には理解できなかったが、それこそが迷宮たる所以でもある。


 ──迷宮では常識が通用しない。


 深緑の迷宮で現在攻略されているのは、地下六層まで。規模からすると地下十層程度と言われているが、とある理由によって未だにこの迷宮は最深部に辿り着けた者がいない。


 それが凡そ50年間その全容を露にする事なく、この場所に鎮座する地下森林、深緑の迷宮である。


「いつ来ても気味が悪いな……」


 アッシュは深緑の迷宮の扉を目前に独り言を呟いた。


「ふう……大丈夫だ。慣れてるはずだ。行ける。俺は行ける。一人でも行ける」


 自らの両頬を張って、気合を入れ直したアッシュは迷宮への入り口に差しかかる。


 その時、背後から何かにマントの裾を掴まれてバランスを崩す。


「うおわっ!」


 地面に転がった後に、慌てて後ろを振り向くと、そこには見知った顔の少女がいた。


「何すんだよっ!」


「いつまでも独り言ばっかりで気づかないあんたが悪いんでしょ?」


 尻餅をついたアッシュを見下ろすのは、腕を組んだエレナだった。


「お前どうしてここに……」


 言葉の途中で辺りを見回すアッシュ。エレナがいるという事は、以前のパーティメンバーがいるのではないかと考えた。


 その疑問を知ってか知らずか、エレナはアッシュを見下ろしながら言う。


「ここにいるのは私一人よ」


 アッシュの心配は杞憂だった様でひとまずは安心したが、今度はエレナがここにいる理由がわからなくなった。


「それで? お前はなんでここにいるんだよ」


「お前って呼ばないでくれる? なんか嫌なのよねその言い方」


「呼び方とか今はどうでもいいだろ……」


「別に前みたいに呼べばいいでしょ。それとも何? 私の名前は呼ぶ事すら嫌なの?」


 アッシュは以前までは"エレナ"と名前で呼んでいた。パーティメンバーだった頃は振り回されたことも多かったが、同時期に加入した上に年齢も同じだったため、表面上は仲良くしていた。


「はぁ……エレナはなんでここにいるんだよ?」


「別に。特に理由はないけどあんたが見えたから付いてきただけ」


 エレナは落ち着きのない様子で顔を逸らしながら言った。それが嘘を吐く時の癖であることはアッシュも分かっていた。


「ああそう。じゃ」


 エレナから離れる様に踵を返すと、またマントを掴まれて転びそうになる。


「一体なんなんだよ!?」


「いや……あんた、もしかして一人で迷宮に潜るつもりなの?」


「関係ないだろ……? それ聞いてどうするつもりだ?」


 アッシュは最早エレナの行動に怒りを通り越して困惑していた。なぜここまで執拗に絡んでくるのかも分からなかった上に、彼女の様子が以前とまるで違ったからだ。


 いつもムスッとした顔をしていたエレナが、今はしおらしく表情をコロコロと変えている。


 口元をもごもごとさせて何かを言おうとしたり、かと思えば何かを我慢する様に顔を強張らせたり。


「あのー……エレナさん?」


「さん付けで呼ばないで」


 一体いつまでこうしていればいいのだろう、とアッシュは頭を掻いた。


 年頃の女子の考える事もわからないし、関係も複雑だ。それに、エレナを見ていると、どうにも怒りが萎んでいくのを感じて居心地が悪かった。


「──私も行く」


「は?」


「私も一緒に行くって言ったの! 耳ついてるの!?」


「つ、ついてるけど……いやいやそうじゃなくて、なんでお前がついてくるんだよ!?」


「またお前って言った!?」


「だから、呼び方なんて今はどうでもいいだろ!」


 荒い息を吐きながら言い合っていたが、アッシュは不意に堪えきれずに笑い出した。


「はっはっは……はぁ……前まではよくこんな言い合いもしてたよな」


「そ、そうね」


 最早変な意地など張らず、素直に聞いてみることにした。


「なあ? もしかしてジークに何か言われたのか? それで俺についてきたとか?」


 そこまで言うと何か地雷を踏んだのか殺意の籠った目で見られ、アッシュはたじろぐ。


「ふざけないで。これは私がしたい事。ジークも他のメンバーも関係ないわよ。というかその初心者丸出しの装備はなんなの?」


 エレナはアッシュの身体の至る所を指差す。


「え?」


「明らかに鈍っぽい剣に、グリップ効かなそうな靴。マントと防具は冬用だし。そんな装備で迷宮に潜るなんて、あんた死にたいの?」


 エレナに指摘され、アッシュは言葉に詰まる。そして慌てて言い訳を並べる。


「今日はちょっと下見だけする予定だったんだよ。だから別に装備は適当でもいいだろ?」


「そう言って死んでいった探索者を知らないなんて言わせないわよ。もしそうなら軽蔑する」


 有無を言わさない様子のエレナに、アッシュも流石に分の悪さを感じた。


 アッシュはエレナのこういう性格に関して言えば嫌いではなかった。決して迷宮を軽視せず、危険な場面があれば報酬よりも人の命を優先する。


「わかった。俺が悪かったよ。確かにちょっと自暴自棄だったかもしれない」


「あんたが死んだら寝覚めが悪くて仕方がないわ。ほら? 装備新調しに行くわよ」


「ちょっ!?」


 いきなり手を引っ張られて困惑したアッシュだったが、前を歩くエレナはこちらを振り返りもせずに進んでいく。


 確かにエレナが付いてきてくれれば迷宮の攻略はぐっと楽になる。それだけエレナの様な魔術師は貴重な存在なのだ。


 だが、どうしてエレナがここまで世話を焼いてくれるのか、アッシュには皆目見当もつかなかった。


 迷宮に潜るなら他のパーティメンバーと一緒に行けばいい。アッシュは迷宮に関する知識はあると言っても、潜った回数は少ないし、戦闘は遠巻きに見ていただけで、エレナにとっては足手纏いにしかならない筈だ。


 そこまで考えてアッシュの頭の中で分不相応な考えがよぎる。


 ──まさかエレナは俺のことが。


 そこまで考えてアッシュは即座に首を振る。そんな筈がなかった。アッシュはエレナに対して特別何かしてやった事も無いし、以前も特にそういった雰囲気はなかった。


 きっと単純に彼女は元パーティメンバーのよしみでアッシュを手助けしてくれるのだろう、と結論づける。


「ほら、遅れてる。早く行かないと店閉まっちゃうわよ?」


「わかってるよ」


 振り向いたエレナの顔が楽しそうに笑っているのを見て、アッシュは考える事を放棄した。

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