第一話 『エレナ』


 アッシュは異世界転生者である。


 ある時目を覚ますと、全く知らない少年の姿になっていた。


 今世の自分は両親がいないらしく、孤児院で育てられていた。


 目まぐるしく回る日々の中で、自分の身に起きた事に頭を悩ませる時間すらなかった。


 だが、その孤児院もある事件をきっかけに消失し、アッシュはこれまで誰に頼ることもなく自分一人の力で生きてきた。


 異世界転生を果たす前の最後の記憶は高校三年生の夏休み。


 突然気がついたら十二歳の子供になっていて、それから四年間もの間、この世界に囚われたまま日々を過ごしている。


 アッシュという名前は、この身体に元々つけられていた名前であり、彼にとっては慣れるまで時間のかかるものだった。


 ただ周りがそう呼ぶから名乗っているだけのものであり、この世界に失望した彼にとっては、捨てられるなら捨てたいと思える程度の名前だった。


「はぁ……はぁ」


 痛みに顔を顰め、建物の壁に身体を預けながら街中を歩いていると、道ゆく人たちが視線を向けてくるのがわかる。


 けれど、そのどれもが無遠慮な視線で、決して怪我をしているアッシュを心配するものではない。


 その視線の意図する所はアッシュにもよく理解できた。厄介ごとに関わりたくないのだろう。


「いってぇ……なんなんだよ。くそっ」


 口から漏れるのは悪態ばかりだ。


 最初は多少は浮かれていた。異世界で新しい人生を歩む事が出来るのだと。楽観視していたといっても過言ではない。


 けれど、その実態は大きく違った。話の通じない人間。善意など欠片も存在しない世界。日々磨耗していく精神と身体。今まで経験した事のない空腹や寒さに追われる毎日。


「日本に帰りたい……」


 何度も何度も、そう願って眠り、そして現実に打ちのめされてきた。最近では言っても仕方ないとばかりに胸に秘めていた想いが、弱っているせいか堪らず吐き出される。


 それに対してアッシュは自嘲する様に笑った。


「──あんた何してんのこんな所で?」


 街中を歩いていると横合いから話しかけられ、少年は荒んだ気分のまま声の主を睨みつける。


「ちょっと。睨まないでよ。それよりどうしたのその怪我?」


 話しかけてきたのは同じパーティメンバーだった魔術師のエレナだった。元いたパーティは自分を含めて五人であり、その中の一人だ。


 アッシュの少し後にパーティに入った人物で、赤茶色の長い髪の毛と、サファイアの様な瞳を持つ美少女だ。


 かれこれ2年程の付き合いになるが、いつも苛立った様子の勝ち気な性格の小女で、平和を重んじるアッシュにとっては苦手とする人物でもある。


 いつもは空元気で接するところを、アッシュは余裕のなさから舌打ち混じりに言い返す。


「どうもこうもない。お前には関係ない」


「はあ? 一応はパーティメンバーなんだから関係あるに決まってるでしょ? 何があったのか知らないけど、変な強がりはいいからこっちに来なさいよ」


 エレナが近寄ってきて手を差し伸べるのを、アッシュは思わず拒絶する様に払った。


「いった……」


 自分の手を摩るエレナに、アッシュは一瞬だけ後悔の念を抱いたが、すぐに視線を外して歩き出す。


「ちょ、ちょっと! 待ちなさいよ!」


 めげずに突っかかってくるエレナに、アッシュはため息を吐いて立ち止まる。


「な、何よ?」


「こっちの台詞だ。いいから放っておいてくれ。もう俺とお前は仲間なんかじゃないんだよっ……」


「は? どういう意味?」


「ジークの野郎に言われたんだよ。金輪際、お前らのパーティに近づくなってよ。俺のことをハイエナだとも言ってたぜ。残飯を貪る嫌われ者だってなっ! もしかして、お前も同じ様に思っていたんじゃないのか?」


「わ、私はそんなことっ!」


「もう俺に関わるな。前から思ってたけどうざいんだよ。自分のストレス解消だかなんだか知らないが、毎度毎度、突っかかってきて。ある意味いい機会だったぜ。お前らみたいなのと離れる事ができてジークに感謝──」


 溢れて止まらなくなった八つ当たりは、乾いた音に止められた。


 自らの頬が熱を持ち、エレナに頬を叩かれたのだと漸く気がついた。


 一瞬だけ固まった様に呆然としていたが、次いで怒りを抱き、エレナに文句を言おうと思って彼女の顔を見る。


 だが、アッシュは思いがけない光景に口を開けたまま固まった。


 エレナは泣いていた。いつもは顔を顰めて仏頂面を崩さない彼女が、みっともなく、ぐしゃぐしゃになった顔で涙を流していた。


「……何で……泣いてるんだよ」


「……うるさいっ。馬鹿アッシュ。もう知らないから」


 腕で目元を擦りながら去っていく魔術師の背中に、自分でも思いがけず手が伸びた。


「待っ……くそっ。なんだってんだよ!」

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