第9話 動き出す兄と妹の物語
家に帰ると妹が玄関前で土下座をしていた。
「俺は夢でも見ているのか?」
仕事のし過ぎで遂に幻聴でも見え始めたのではないかと目を力強くつむった。もう一度ゆっくりと開いても妹は頭を深々とこちらに向けていた。
「……明日精神科行くか」
「ちょっと、無視するんじゃないわよ!」
靴を脱いでそのまま自分の部屋に向かおうとした直後、背後からスーツの首元を掴まれる。俺はグェッと奇妙な声を上げてせき込んだ。
「……幻聴じゃないのか」
「本物よ、バカ兄貴」
妹は腰に手を当てて睨みつけながら話しかけてくる。妹の方から話しかけられるなど奇跡でも起きない限りあり得ない事象だと思っていた。
「なんだ……何を言われてもお兄ちゃんは死なないぞ」
「私のことを一体何だと思っているのよ」
妹は眉をまげて深いため息を吐いた。だって今まで無視を決め続けていた妹が突然頭を下げていたんだよ?誰だって身の危険を感じるでしょ?
「その……」
手足をもじもじとして視線をそらしながら何かを言おうとしている。兄である俺は黙って妹の回答を待った。
「……を教えてほしいのよ」
「何を教えてほしいって?」
肝心の目的語の部分が聞き取れなかった俺は妹に聞き返した。
「……―ドを教えてほしいの」
「ド?」
「シーズンカードを教えてほしいの!」
「…………」
「…………なんで黙るのよ」
「悪いが俺は女性ブランドなんて何もわからないぞ」
「は? 何言ってんの?」
「いや、だから俺はブランドの銘柄なんて何も知らないって……」
「そんな名前のブランドないわよ!」
妹は大きな声でツッコミをしてくる。え、違うの?と俺の脳内が再びバグりちらかしてしまう。俺が知っているシーズンカードなんて残されているのはもう趣味のカードゲームしかないはずなんだが……
「だから、兄貴がやってるカードゲームを教えてほしいのよ!」
顔を真っ赤にして舞花はそう言った。
〇
そしてあれから二週間後の日曜日、現在に至るというわけだ。
「行ってきます!」
玄関の前で手を振って見送ってくれた母親を背に俺は妹の体で家を出た。
(ちょっと、まさか本当にこのままいくつもりなの?)
「時間がないんだろ?」
(そ、それはそうだけど……)
心の中で妹が黙り込んでしまう。我が家からオーディションの開催される場所までは電車を使って片道一時間。朝食を食べてから舞花に言われた通りに手を動かして化粧を終えた頃には時刻は七時三十分を過ぎていた。受付開始時刻は午前八時から九時の間。これ以上時間を割く余裕はなかった。
(いったい何が起きているのよ……どうして私の体に兄貴が……)
「考えるのは後だ、それよりも道を教えてくれ、迷うなよ?」
(わ、わかってるわよ、まずはそのバス停で駅まで行ってちょうだい)
心の中で叫ぶ舞花の命令に従って俺は妹の体を動かす。さすがは我が妹というべきか、普段のまるでゾンビのような俺の体と違って軽快に走り続けることができた。
(ちょっと、そんなに走ったら髪が乱れちゃうでしょ! これからオーディション受けるのに汗をかくのもやめてよね)
「す、すまん……」
(この時間なら歩いても間に合うわ)
「りょうかい」
身軽な体に浮かれてしまった俺は慌てて反省して速度を落とした。バス停につくと妹に言われるがまま、バスが来るまでの間に手鏡を取り出して多少乱れていた髪を整えた。
妹にシーズンカードを教えてほしいと言われた時、いったい何の冗談なのかと俺は自分の耳を疑った。詳しく聞くと舞花の推しているアイドルグループが突然メンバーを募集し、その中にある募集要項としてシーズンカード経験者である事が大きく書かれていたらしい。
なぜアイドル業界でも最大手のシズドルが今になって新しいメンバーを募集するのか、そしてカードゲーム経験者を条件にしたのか俺には見当がつかなかった。
それでも妹に頼まれたからにはと俺はシーズンカードゲームの基本的な知識はこの二週間の間に懇切丁寧に教えたつもりだった。しかし、いくらユーチューブで解説動画などを挙げている俺でもカードゲームの基本すら知らない妹にこの短い期間で完璧に教えることは不可能だった。
(駅は北口の方から二番線の列に並んで!)
「あいよ」
バスを降りた俺はそのまま人の流れに沿って隣接する駅のホームへと入る。携帯に内蔵している交通系カードを使って改札をくぐり、階段を下りた俺は妹に言われた通りに二番線の前の待機列に並ぶ。
今回のオーディションでシーズンカードに関してどれほどの知識が必要になるかはわからない。もしかしたら基本的なルールを抑える程度……むしろカードに対して「かわいい!」とか「かっこいい!」みたいな反応を審査されるかもしれない。
それでも、万が一……万が一実践級を求められるのなら、シーズンカード歴十年のお兄ちゃんである俺がオーディションの場にいたほうが妹の力になれるはずだ。
駅員がホーム内でアナウンスを告げる。やがて電車が停車し、ドアが開くと降りる人たちが続々とこちら側に進み、最後の人がいなくなったのを確認してから俺は乗車して空いていた近くの座席に座った。
「ふぅ……」
これで寝過ごしでもしない限り一安心だと俺は瞼を閉じて一息をついた。
「…………」
(…………ん?)
突然全身の力が抜けたような感覚に陥った。正確に表現するのであれば今まで自由に動かしていた四肢が突然反応しなくなった。
「あれ……?」
両手で自身の頬を触る感触が俺に伝わってくる。けれども俺は両手を動かしたつもりは一切なく、もっというのであれば声を発した覚えもなかった……つまりは
(体の所有権が入れ替わってる?)
「…………みたいね」
舞花は小さな声で心の声になった俺の言葉に反応した。
(な、なんで一体何が原因で入れ替わったんだ?)
分からなかった。目を閉じただけなら椅子に座るまでの間に何度もしている。大きく息を吐いたから? いや、それなら家を出てすぐに走った直後もしていた。それならどうして……
「……なんでまだ私の中に兄貴がいるのよ」
それはもっともな疑問だった。まず考えるべきは体の所有権以前に妹に俺の意識が乗り移っているという異常事態のはずである。
「……でも、これならオーディションは完璧ね」
妹はニヤリとまるで悪役のような笑みを浮かべた。
(お兄ちゃんが体を動かすのは不安だったか?)
「当り前じゃない、黙っていたけど化粧も正直酷いんだから」
(そ、そうなのか……)
「会場の最寄り駅で降りてからどこかのお手洗いで最低限化粧直ししないと……念のために化粧セット持ってきてよかったわ」
ぶつぶつと妹はつぶやいた。容姿端麗な妹の顔に泥を塗ってしまいかけていた俺は深く反省すると同時にこの精神状態の状況の理解に努め始めた。
(視点は違っていたのか)
痛覚が共有されている時点でてっきり何もかもが妹の体と一体だと思っていたが、実際には少しだけ俯瞰したような、体とは離れた場所に俺自身の視点で妹を眺めている
(……さすがに真反対は見えないか)
座席の反対側に座っている人が眺めている携帯画面を覗こうにも俺の精神は妹から離れることは出来ず、ただ妹の身長よりも少し高めの位置であたりを見渡せる程度だった。
「何してるのよ、もうすぐつくわよ」
(え、もうそんな時間か?)
妹の手にしているスマホ画面を見ると時刻は八時一五分を示していた。いつの間にか会場近くまで来ていたらしい。
「よし、行くわよ」
妹は立ち上がると覚悟を決めた様子で電車のドアの前に立った。窓に映る彼女の眼は燃えるような闘志が秘められていた。
「……一応、期待しているからね」
(…………!)
妹が小さな声でそう言った。舞花に頼られたのはいつ以来だろうかと精神状態の俺は心の中で涙が止まらなかった。
(うん、うん……お兄ちゃん、舞花の為に頑張るからね!)
「き、キモイ!」
妹のドン引きするような声が電車の中に軽く響き渡った。今まで静かだった電車内で突然女子高生が声を挙げたので何事かと周りの視線がこちらに集まってくる。恥ずかしくなったのか、舞花は扉が開くと同時に猛ダッシュで降りていった。
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