逃げる男

中田ろじ

前編

 その雨は男を濡らす。男はおそらく高校生。全身は既にずぶ濡れで、前髪や制服がピタリと張りつき、不快指数は高まるばかりに見える。しかし男はそんな事は構わず走っている。なりふり構わず走っている。

 そのスピードはあまり速くない。もうずっと。走り続けているからだ。それでも足を止める様子はない。緩めようともしない。だから男は、ただ走っているだけではないのかもしれない。

 もしかしたら。逃げているのかもしれない。

 そうすれば頷けることはいくつかある。懸命なところも、なりふり構っていないところも、逃げているのだとしたら頷ける。しかしそれなら。逃げているというのであれば、肝心なものが抜けていた。

 誰も男を追っていないのだ。男は一人で走っている。後ろは誰もいないのに。男が走り過ぎたところをじっと眺めていても、他に人は通らない。

 男は逃げている。それなのに、追ってくる人はどこにもいない。

 男が振り返る。走るペースを崩さずに、首だけを動かす。

 男の目が見開かれた。大きく。

 その途端、スピードが上がる。もう完全に息が上がっているように見えるのに、わずかなスタミナを振り絞ってペースを上げる。

 やはり、そうなのだ。男は逃げている。

 しかし、追ってくる人はどこにもいない。




 風間聡介の人生は、おそらく風間聡介が選んだものではなかった。しかしその人生を送るのは彼自身。どんな苦悩が待ち受けていようと、どんな喜びが待っていようと、それを受け入れなければいけない。それが、自分の人生への責任というものだから。

 ただ彼は、その意識をあまり持った事がなかった。持つという意識を持つこと自体が許されていなかったと言ってもいいかもしれない。

「聡ちゃんは私たちの言う通りにしていればいいの」

 その言葉は小学生に上がった頃、母親に言われた言葉だった。お母さんの、ではなく私たち、と言ったところに、子ども心ながら両親に愛されているのだと感じることが出来た。そんな記憶が漠然と残っている。

 彼はそれに従った。両親の言われるままに、両親からすれば聞き分けの良い子どもに育っていった。

子どもは親の指針が絶対だ。だから素直に従っていればいい。当時の彼はそんな考えを自然と身に付けていたから、言う事を聞かない同級生を見た時の衝撃は大きかった。

 その同級生は大木君と言った。大木君とは、席が近かった事がきっかけで仲良くなった。聡介からすれば、仲間など誰でも良かった。とにかく母親に言われた、「たくさんの友達を作りなさい」という言葉に従っているだけだった。

 大木君は学校ではおとなしい子だった。聡介自身も、そんな大木君の落ち着いた雰囲気に好感を抱いていたと思う。しかしその思いは、大木君の家に遊びに行った時には、脆くも崩れさった。

 今で言う内弁慶というものなのだろう。とにかく大木君は、学校での様子とは正反対だった。お母さんのことを「お前」と呼び、お菓子を持ってこいと命令し、好きなお菓子が無ければ買ってこいと泣き叫んた。

 風間聡介は動揺した。同じランドセルを背負っていた小学生とはとても思えない。

 大木君は赤ちゃんだ。風間聡介はそう思った。だって、赤ちゃんは泣いてばかりだから。泣いて、周りを困らせるばかりだから、と。確かお母さんもそう言っていた。僕はあまり泣かない赤ちゃんだった。だからその事も褒められたのだ。他のうるさい赤ちゃんと違って、聡ちゃんは物分かりのいい赤ちゃんだったわ。

 風間聡介は大木君の家を飛び出した。何か、急な用事を思い出したと言って。そしてその日以来、大木君に近づくのをやめた。関わりたくないと思ったからだ。お母さんは確かに言った。友達を作れと。しかし大木君はその内には入らないと思った。

 風間聡介は動揺した。どうすればいい。大木君を友達だと思いたくない。だけど、それだとお母さんの言う通りに出来ない。クラスメイトとは仲良くしなくてはいけないから。そうしやって、たくさんの友達を作らなければいけないから。

 実際、風間聡介は多くの友人を作っていた。風間聡介の見た目はよく整っていて、どこか中性的な顔立ちだ。幼いさ故に可愛いの一言で纏める事も出来たけれど、風間聡介の顔立ちは成長してからも変わらない。つまり整ったまま。

 風間聡介は無口ではなかった。笑わない子ではなかった。意見をはっきり言わない子ではなかった。リーダーシップを取らない子ではなかった。それらは全部、お母さんの言った事だった。お母さんが喜ばない子ども。その正反対を彼は実践していた。その結果、多くの友人に囲まれるようになっていた。

 大木君との距離は、聡介の望む形で離れていった。離れていく大木君は、誰からも相手にされないようになっていた。

 大木君は地味だ。大木君は陰気だ。この前なんて無視された。じゃあ、みんなで無視をすればいい。そんな相談が自分の知らないところで交わされていたかのように、大木君はクラスの弾かれ者になっていた。別段、大木君が悪いと言う事は無い。陰気で地味なのは彼の個性だ。無視されたなんていうのは大概が被害者側だけの言であって、勘違いという場合がほとんどだろう。

 しかし、結果として大木君は弾かれた。みんな、腫れものにでも触れるような扱い。いや、それ以上に。空気として扱っていた。

 風間聡介は動揺していた。何故なら、お母さんが言っていたからだ。弱っている人には手を差し伸べなさい、と。

 大木君はどうか。風間聡介のものさしで見れば、明らかに大木君は弱っている者だった。弱者と言ってもいいかもしれない。それが何に対しての『弱さ』なのかは分からないけれど。

 声を掛けよう。たった一言。おはよう。それだけを言えばいい。

 風間聡介は登校してきて教室に入る時に、いつも、そう、唱えていた。しかしそれは心のなかだけの唱えであって、実行に移すことはとうとうなかった。六年間とはあっという間である。

 風間聡介が、自分の中の歪みを初めて感じたのはこの時だった。本当はもっと早くに気付くべきだったのかもしれないけれど、自分の人生をお母さんのレール通りに歩いている聡介には、その歪みの音が聞こえていなかったのだ。このひずみに対し、風間聡介は気にも留めない、ことにする。

 中学生になった風間聡介は、小学生の頃と変わらぬ人気を博し、その中学校生活ぶりと言ったら、なんとも華やかなものだった。家庭内での彼は相変わらずの『良い子』なので、家族仲だって良好だった。

「良い子ね。聡ちゃんは」

 中学に上がって、母親からの褒め言葉を聞くと、収まりの悪い気持ちを持て余すようになった。それも度々。だったらそれを言葉にしても良かったのに、もしかしたら反抗期突入かもね、と冗談交じりに言ったりすれば良かったのに、聡介はそのどちらもしなかった。持て余した分は、心にしまいこんだ。苦手な食べ物を、ろくに噛まずに飲み込むように、むりやり押しこんだ。

 風間聡介は実に充実した中学校生活を送っていた。

「いいよな。お前は。お前はいいよな」

 自宅から学校への通学路。その通り道に、小さな公園がある。公園といっても遊具の少ないシンプルな、悪く言えば人の集まらない、公園。その公園には入り口付近にベンチが置いてある。聡介が登校していると、そのベンチにはおじいさんが座っていた。白髪の、無精ひげが伸び放題の、よれよれのランニングを着た、おじいさん。

 聡介がその公園を通りかかると、おじいさんは何かを発する。その発する言葉が、風間聡介をよく動揺させていた。

「いいよな。お前は。お前はいいよな」

 今日も聞こえてきた。おじいさんは風間聡介の方は向いていない。だから話しかけているわけではない。それでも彼は、その言葉が自分に向けられているのではないかという気がしてならない。はっきりとした理由は分からない。ただ、その言葉は刃だ。風間聡介はそう思っている。

「いいのは、お前だけ。そうだよいいのは、お前だけなんだ」

 おじいさんの言葉を聞くと、風間聡介はその場でうずくまりたくなる。そうすればどんなにか楽だろうとも思う。でも、それだけは許されないような気がした。それを許せば、何だか取り返しのつかない事に襲われる気がしたから。

 おじいさんの言葉と母親からの褒め言葉を除けば、風間聡介の生活は順風満帆と言ってよかった。そんな充実ライフの集大成として、風間聡介は生徒会選挙に立候補することになった。きっかけは担任に推薦されたからだ。より具体的な説明をすれば、担任の薦めに対し、周りのクラスメイトが大いに賛成、どころかその提案に絶賛、そりゃあもう教室を挙げて全力でサポートします、とあれよあれよと言う間に話が進み、方向性が定まった。風間聡介は生徒会長選挙に立候補します。

 風間聡介は自分に気合いをいれた。みんなの期待に応えるためにも、まずは自分を奮い立たせなければいけないと思った。

 風間聡介の選挙活動は、特に目立ったパフォーマンスがあったわけではなかった。言ってしまえば、他の候補者とはなんら変わらなかった。そこは中学生。大人の、政治家の、きな臭い票取り合戦にはならなかった。

 周りと同じことしかしていなかった。しかし、風間聡介はぶっちぎりの得票数で生徒会長の座を手にした。

「やったね」「おめでとう」「まあ、当然だよね」

 口々のクラスメイトの言葉。担任の先生も褒めてくれた。風間ならやると思ってたよ。

 風間聡介は動揺した。僕は一体、何をやったのだろう。

 周りと違うことはやっていない。それなのに圧倒的な差をつけて、自分は当選した。その事実が、重くのしかかる。

 もしかしたら。もしかしたら顔が整っていたからなのかもしれない。みんなに愛想が良いからなのかもしれない。良い子だからなのかもしれない。

 それらの言葉が、風間聡介の全身を駆け巡り、それから、歪みの元となって成長する。

 嫌な音がするな。最近の風間聡介は、耳鳴りでもないけれど何だか変な音が聞こえるようになっていた。目眩ではないけれど、視界がぐにゃりと曲がる時があった。

わけが分からないと思いつつ、心のどこかでは気付いていたかもしれない。でもそれは、気付いてはいけないと思っていた。漠然と思ったその考えからは、きちんと逃げなければいけないと思っていた。

 心が摩耗している。

 心が、すり減っている。

 冗談じゃない、と風間聡介は笑い飛ばす。そんなものは妄言だ。ただの、怠け者たちの言い訳だ。そんな事があるわけがない。

風間聡介は全ての期待に応える。万人受けのための自分を演じる。この時もまだ、風間聡介は自分の足で自分の道を踏みしめてはいなかった。やはり与えられた、きちんと整備された酷く清潔なその道で、動く歩道さながら、楽々と移動していた。

「いいねえ。いいねえ。お前さんは。すごく、すっごくいいよ」

 おじいさんの言葉は、ダイレクトに響くようになっていた。

「さすがだよ。よく出来てるよ。うわあ、いいねえ。最高だねえ」

 おじいさんの言葉は、きちんと風間聡介に嫌な音を自覚させていた。歪む音を、きちんと聞かせてくれた。

「いいんじゃないか、いいんじゃないか。せいぜい塗りたくれ」

 風間聡介はその言葉たちに襲われる夢を見た。そこから必死に逃げる自分。追いついたら何をされるのだろうか。殺されちゃうんじゃないかな。心が。なんて、繊細なことを考えてしまったから、僕は駄目なのかもしれない。

 風間聡介はギリギリを生きている気がした。ギリギリに順風満帆な中学校生活を終えようとしていた。

 最後の最後まで、人への期待を裏切ることのなかった生徒会長は、歴代の中で、最も偉大だったと称賛された。


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2024年11月30日 09:42

逃げる男 中田ろじ @R-nakata

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