あやしそこなし夜話語り

錦木

前座 一つ目

 夜の中をずっと走っていた。

 夕方から雨がずっと降っている暗い日だった。

 雨の冷たさは次第に気にならなくなったが、頬にかかる髪が鬱陶しい。

 硬い靴を履いた足が痛みを訴えている。

 それでも止まるわけにはいかない。

 逃げなければ。

 こんなところで人生を終わりにしたくない。

 つかまりたくない。



 なにが駄目だったのだろう。

 私の人生は簡単にいえば華やいだところのない灰色の世界だった。

 特に目立ったこともない学生生活を送り、中堅の会社に就職した。

 それで満足するべきなのだろうが、私の心は靄がかかったようだった。

 私は何一つ抜け出たところがなかった。

 何であれ一番を取ったことがないのは当たり前、顔は平凡で体型も平均値。年中街のどこかで似た人を見かけたような気がすると言われてきた。

 何事も波風を立てることもなく大きな成功もなければ大きな挫折を経験したこともない。


 だから、羨んでしまったのだ。

 一番長くいっしょにいる友人のことを。

 友人の美優みゆは私とは正反対、といえばいいのだろうか。

 勉強も運動も得意。

 成績は学年で一番をとることも珍しくなかった。

 背は高く顔は小さくて美人という恵まれた容姿で家族関係もよく、およそ多くの人が抱えている劣等感ーー、と言えばいいのだろうか。そんなものを知らないからいつも余裕があって人当たりもよかった。

 天は二物を与えずというがその言葉に真っ向から例外をぶつけるような存在だった。

 小学校から高校までいっしょの学校に通い、大学は別々になったがずっと友だちだった。  

 ほとんど対極と言っていいほど、全く違うタイプなのになぜか気が合って学生の間ほとんどの時間を一緒に過ごした。

 彼女は私の自慢だった。

 彼女と一緒にいることで私は自分の存在が肯定されると思っていた。

 大学が離れても交友関係は続いていて、互いの予定が合う度にどこかに遊びに行っていた。

 互いに親友だと思っていた、と思う。



 けれど、美優の不幸にどこかスッとしてしまった自分がいないと言えば嘘になる。

 美優とは就職してからも連絡を取り合っていたが、社会人ともなればだんだん予定も合わなくなってきた。

 だから、美優の家族から連絡をもらって美優が事故に遭って入院しているということを初めて知った。私は慌てて病院に駆けつけた。

 そして、美優の現状を見てしまった。

 ベッドに座って身を起こしていた美優は顔の半分が包帯で覆われて不恰好な人形のようになっていた。

 美優は私を一目見た瞬間、片方の目を飛び出るのではないかというほど見開いて絶望した顔をしてそれから唇を引き攣らせるように笑った。

 来ちゃったんだ、と小さくつぶやいた。


「美優のお母さんから聞いて急いで来たの」


 そう言って美優に近寄ろうとすると鋭い声で言われた。


「来ないで!」


 私はビクリと足を止める。

 美優の肩が震えた。


「余計なことしてくれるよね……」


 逆光になってこちら側から表情は見えなかったが、美優の声から怒っていることが伝わってきた。


「……ごめん、私何か悪いことした?」


 会いに来てはいけなかっただろうか。

 私が聞くと美優はつぶやいた。


「ごめん。そうじゃないの。勝手に来てほしくなかった。呼んでほしくなかった」


 それは普段の聡明な彼女らしくないまるで子どものような声で。 


「見られたくなかったの。こんなみっともない姿。だから、連絡しなかったのに……」

「みっともなくなんかないよ。美優はいつだって綺麗だよ」


 フォローじゃなくて、実際事実としてそう言ったつもりだった。事故に遭ったくらいじゃ変わらないと思っていた。

 美優は私の言葉で静止した後、鼻で笑った。


「……これでも?」


 ベリベリと皮膚を剥がすような音を立てながら包帯を取る。

 私は息を飲む。

 片側の顔は潰れていた。

 目は瞼が開かないまでにくっつき、不恰好な皮膚はよじれて唇のあたりだけが無事なのが余計に歪みを増長していた。

 まるで造るのに失敗した不出来な人形のように。



 彼女の姿を見て、私は自分の祖母を思い出した。

 物心ついたときから祖母は片目に眼帯をつけていた。

 なんでも昔怪我をして片方の目はもう見えることはないと医者に言われたらしい。

 そんな祖母の顔は歪で子どもの私にとっては率直に言って気味が悪いものに見えた。

 実際祖母は変なことを言っていた。

 人を呪うことができるというのが口癖のような人だった。

 異様な外見と相まって本当なのかと思ってしまうくらい。

 父や母の前では進んでそんな話はしなかったが共働きの両親が働きに行っている間祖母に預けられると、ことあるごとにそんな話をしていた。

 その頃はまだ祖父も定年になってはおらず会社勤めをしていたので、専業主婦であった祖母と私はよく二人きりにさせられた。

 決して邪険に扱われたわけではないがそんな祖母のことを私はあまり好きにはなれなかった。身内でなければ近寄りたくないとすら思っていた。

 祖母は言った。

 お前にも、人を呪う力が。

 その血が流れているのだよ、と。


 そんなことを不意に思ったのは晩年になって祖母の目が見えるようになったことを思い出したからだ。

 高齢の祖母は現在介護施設に入所していてほとんど会ってないが、その前の話だ。 

 医学の進歩のためか祖母は手術をして目が見えるようになったのだ。

 ほぼ世間の人と同じくらい。

 いや、同年代の老人と比べてももっと見えていたのではないか。

 目が見えるようになったのは喜ばしいことなのだろうが、私はその目が嫌いだった。こちらをじっと観察して見透かすようなその目が。

 それでも、私は美優にその医者のことを伝えた。確か長年隠していた外見を診察してもらうために整形外科も行っていたはずだ。

 美優は最初魂が抜けたようにぼんやりと聞いているだけだったが、最後ありがとうと言った。

 すがるような声で。

 行ってみる、と。


 結果だけを言うと、手術は失敗した。

 以前は光が見える程度だったようだが美優は完全に片目を失明してしまった。

 恨みのこもった声であんたのせいだ、と見舞いに訪れた私を罵った。

 あんたのせいでこんなことになったのだと。

 そんなことを言われるのはお門違いだ。

 手術をする意思を持って踏み切ったのは美優のほうなのだから。私は美優の具合がよくなればいいと思っただけなのに。

 よかれと思うことが裏目に出てしまった。

 それから私は彼女から距離をとった。

 見舞いに行くたびに怒りや恨みの感情をぶつけてくるようになったからだ。

 彼女が退院して自宅に戻ってからも会いに行くことはなかった。

 直接会わなくなると最初は電話、次はメールでひどい内容の言葉が届いた。付き合いきれなくなった私は全ての連絡手段を着信拒否した。


 それでも終わりではなかった。

 自宅療養と称して引きこもりになった彼女はある日ふらりと外へ出て、会社からの帰り道で私につかみかかってきた。

 幸い軽い怪我で済んだが恐怖を感じた私は警察に連絡して彼女を引き離してもらった。

 連れられて行く途中でも彼女は私にわめいていた。ざまあみろ、お前も私と同じになるといいと。

 長い爪で引っかかれて顔についた傷跡は小さいけれどなかなか治らなかった。

 私はいつも彼女の影に怯えるようになった。


 彼女は自分の容姿に絶対的な自信があったのだろう。

 だから、それが崩れてしまったことで精神の均衡をなくしてしまった。

 私は彼女を盲信していた。

 怪我をしてもそれくらいものともせずに回復すると思っていた。

 ずっと友だちだと思っていた。

 とんだ勘違いだった。

 結局完璧な人間なんてどこにもいないのだ。

 みんなが望む完璧を演じることが、余計に彼女を追い詰めてしまったのだろうか。

 人を呪う力がある。

 祖母の言葉が耳に残る。

 私が、彼女を呪ったのだろうか。


 しばらく経ったある日、街角で美優に似た人を見かけた。

 美優のはずがない。

 そう思ったのにその人は追いかけてきた。

 美優だ。

 また美優が私に復讐しにきたのだ。

 捕まりたくない。

 周りの視線を気にしながら逃げるだけの人生。

 それでも手放したくはなかった。

 みんなが私を見ている。

 私を見るな。

 なんで私は逃げているのだろう

 なんで私が逃げないといけないのだろう。

 よくわからなくなってしまった。

 そうだ。

 目があるからいけないのだ。

 目が合うから周りが自分を見ていることがわかる。

 目をなくしてしまえば。

 私は地面に足をつく。

 足が痛い。

 靴を脱いだ。

 そして靴を眺めて、ここにうってつけのものがあるじゃないかと思った。

 これでもう目を見なくて済む。

 私は靴を掲げた。

 不意に鋭い声が聞こえる。


「おいっ、あんたやめろ!」


 駆け寄ってくる青年を見る。

 これが私の見る最後の景色。

 ああ。まだこんな私に手を差し伸べようとしてくれる人がいたんだ。

 でも、ごめんなさい。

 もう遅いの。

 鳥のくちばしのように尖ったそれで目を突く。


ーー



 悪夢のようだった。

 知らない街にいきなり放り出されて通りを歩いていた。

 ここはどこだ。

 冷たい雨に服が張りつく。

 途中で靴も履いていないことに気づいた。

 裸足で歩くと普通の地面でも痛みが走り不快なことを知った。

 行き場もわからないのに、歩く。

 どこからきたのか。

 どこへ行こうというのか。

 それからもっと恐ろしいことに気がついた。

 自分は誰だ?


 行く先の道に女が膝をついているのが見えた。

 なんだ、と思わず立ち止まる。

 女は靴を顔の前に掲げている。

 何をしているかわからなかったが、その尖った先が目に向かっているのを見て思わず言った。


「やめろ!」


 わずかに女がこちらを向いて、微笑んだ気さえした。

 次の瞬間、尖ったかかとが目に突き刺さる。

 ぐらり、と倒れる女を見て眩暈がした。

 何がどうなっているんだ。

 視界が急速に地面に近づいて、自分が倒れているとは気づかないまま意識を失った。



 カラン、と下駄の音がした。

 白い唐傘が灰色の空の下一輪の花のように浮かんでいる。

 唐傘の持ち主が唄うように言う。

 ちらりと傘を持ち上げた下にいるのは白い着物をまとった子どもだ。

 まだ中学生ほどで背が低い。

 どこか儚げな美しさだった。


「魔眼とも言うように人の目は古来より物事の本質を見抜くという力を持っていました。時代を追うごとにそれは失われつつありますが」


 哀れむように笑う。


「さぞかし生きにくいでしょうね。目がよすぎるほど。目が見えすぎる異質なこの人はさながら『一つ目』といったところでしょうか」


 女の倒れた姿を見下ろしながら唐傘の持ち主は目を細める。


「その目には見えなくていいものまで見えてしまうのですね。可哀相に」


 足音がつと止まって。

 女の鞄からこぼれ落ちた電車の定期券を拾った。

 彼女が落としたことに気がついた通行人が渡そうと走って届けにきたものだ。しかし、この凄惨な光景を見て落とし物を投げ出すと届けようとした人物は逃げ出した。

 水たまりが流れ出た血で赤く染まっている。

市井いちいひとみ

 名前の欄にはそう示されている。


「市井瞳さん。この度はご愁傷様です」


 それをそっと鞄に戻して、着物の裾を払って立ち上がると今度は倒れている青年を見た。


「おや」


 なんでもないことのように言う。

 まるで今日は雨が降っていますね、というな世間話のような気軽さで。


「どうやら探し物が見つかったようです」


 二人の男が白い唐傘の持ち主に追いつく。

 その間にも、白い唐傘の持ち主は微笑みを浮かべて倒れた男を見下ろしていた。


 いつまでも、雨が降っていた。


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あやしそこなし夜話語り 錦木 @book2017

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