虎口を逃れて竜窟に入る

 カーバンクルの額に装着された柘榴石に光が走った。力はないが、魔力の高いカーバンクルは様々に便利な術を使う。不思議な鳥と呼ばれる所以であり、今、魔王軍の首魁にして最大の宿敵ルシファリアという虎口に咥えられた状況の中で危難を脱する好機を見つけた。それが彼女の記憶の中にいた少女アリアである。カーバンクルも先程までの戦闘で著しく損耗しており、残された力を使う機会を慎重に伺っていたが、アリアの情報こそは天の采配だった。

 カーバンクルは即座に少女の立体映像を術式で組み上げ、それをルシファリアの目の前に出現させてみせた。効果は覿面てきめん。自分の体を掴んでいた戦天使の手から握力が抜けた。


「ルシファリア様……」


 うっ、とヴァイダムの首魁は動揺を見せた。これがカノンの機罡獣たる駄鳥の仕業であることは百も承知している。だが、疲労した今ではそれを偽物だと判別する魔力回路サーキットが正常に働かず、さらにルシファリアの記憶が行動を顕著に鈍化させた。

 アリアの幻覚はルシファリアに肉薄し、訴えてくる。


「あなたは優しいお方です。でも、戦うことしか知らなくて、それが不憫でなりません。もうその剣を収め、お休みください……」


「だ、だまれ」


 眼前の虚像に拳を叩き込み、掻き消してやりたいルシファリアだが、体が震えて自由にならないのがもどかしい。


「可愛いルシファリア様、この時代にはあなたの大好きな恋愛小説だって旧世界とは比べ物にならないほど多く出版されているんですよ。それを元にした舞台や映画もたくさん。アリア、ルシィと一緒にたくさんお遊戯したいな」


 ええい、何と悪辣な。目の前にいるアリアは憎たらしいカノンの機罡獣が作り上げた幻。それが分かっているのに機罡石の炉心が、心が束縛されている! 認めたくはないが、ルシファリアはアリアとの会話を楽しんでおり、彼女と共に様々な娯楽に興ずる姿を想像して胸が躍った。お洒落な服を着て、遠くに絶景を望みながら馬の背に揺られ、自分が推す舞台や銀幕の俳優を出待ちしたい。一つ残念なのは、機罡石の魔力と魔王の術式で組み上げられたこの体では食事を必要としないため、レストランや喫茶店での食事やお茶を堪能できないこと……。


「バカ野郎、しっかりしろ」


 バリバリ、と激しい雷によってアリアが打ち砕かれると、ルシファリアははっと我に返った。見れば体に斜め掛けしたガマ口財布から上半身を乗り出した部下の姿があった。先程の戦いで覚醒した冥雷星の魔戦士ディアゲリエ*、シェランドンである。ヴァイダム第十五師団GEWSゲウス特戦群の一人であり、他の者達同様に寝ていたはずだが、もう目を覚ましたようだ。


「ええい、中途半端に出て来るでない。ガマ口が壊れるわ」


「うわっ、バカ! やめろぉ」


 少女は容赦なく大男を放り出そうとするのだが、ここは雲の上だ。落とされてなるものかと、シェランドンは必死でルシファリアにしがみついた。


「うっとうしいのう。貴様もハジュンに第二段階と承認されたのならば、浮かぶ程度のことはできるじゃろう。落ち着いて力を集中させい」


 ぐぬぬ、と歯軋りするもシェランドンは自身の電磁力で磁場を作り出し、何とかルシファリアから離れた空中に姿勢を止めた。


「な、なんだこれは⁉ 浮かぶだけで、こんなにしんどいのか? そ、それに、すげえ寒いぞ!」


「そりゃそうじゃろ。ここは高度一万メートルの上空、気温は氷点下四十度で気圧は地上の三分の一程度じゃ。エネルギーの消費も激しいぞ」


 魔王軍の鎧にはあらゆる環境に適応できる魔法が付与されているが、先の戦闘で受けたダメージでこれらが働いていないのは見て分かった。ふつうの人間であれば即座に酸欠で意識喪失、急性減圧障害、寒冷曝露かんれいばくろによる低体温症などに見舞われる。さて一体この大男はどんな無様を晒すのか冀望きぼうしていたが、シェランドンは鼻水を垂らす程度で平気の態である。


「なんじゃあ、つまらんのう」


「おい、助けられておいて、なんだその態度は。まんまと鳥野郎の術中にハマりやがって!」


「たわけ。あやつの術など、とうに見破っておったわ。助けを求めた覚えもない」


「じゃあ、その手に持っているのはなんだ」


「むむっ」


 ルシファリアが手にしていたはずのカーバンクルを見ると、それは腹に「ハズレノン」という紙切れを貼り付けた鳥の人形に変わっていた。そして彼らの背後を猛スピードで飛び去って行く影があった。逃がすか、とシェランドンは開いた掌から発した雷撃を打ち放つと、飛行物体は激しい爆音を上げて墜落していった。


「ほう。やるではないか」


「まだだ! そのままでいろよ」


 小生意気な鳥野郎であるカーバンクルは擬態が得意であり、シェランドンもそれで一杯食わされた。逃げたと見せかけて実はルシファリアの手元にあった人形こそが本物の可能性もある。ここまで来て逃げられでもしたら、自分達がマージで戦った意味が失われてしまう。


「うるさいのう」


 そんな部下の思慮を無碍にして、ぽい、と手にあった人形を雲海に向けて放り投げてしまった。


「あ、おいっ!」


 シェランドンは落下していく鳥を拾おうとしたがバランスを崩してそれどころではなくなり、危うく自分が堕ちそうになるのを必死にもがいて姿勢を安定させた。


「空で水泳をする者を初めて見たわい」


「あ、あのなあ……」


 少女の飄々とした態度に開いた口が塞がらない。五体あるカノンの機罡獣のうち、最も油断のならない相手はカーバンクルである。そう言ったのはルシファリアではないか。


「安心せい。虎口を逃れて竜窟に入るだの、駕籠の中の鳥というじゃろう。ほれ、下を見るがいい」


「うおっ! なんだこれは」


 眼下に広がる一面の雲の海に巨大な影が浮かんだかと思えば、激しく雲を波立たせて浮上してきた。物体は全部で四つ、ルシファリア達を四方から囲い込むようにして出現した。それぞれに特徴的な姿形をしていたが、そのうちの比較的平たい構造をした飛行物体の上に誰かいるのにシェランドンは気づいた。そして、その者がカノンの機罡獣を鳥籠に入れて捕獲しているのも。


「ふふふ、私は元よりこの場所を合流地点に指定しておき、空域一帯を部下に掌握させておいたのじゃ。その中をどこへ逃げようと無駄なこと」


 はぁと感心するシェランドンであったが、ルシファリアがその飛行物体の方へ向かうのを見て、後を付いて飛んでいった。鳥籠の柵を手羽先で虚しく掴んでいるカーバンクルの姿を満足げに見下ろす魔王軍の首魁だ。

 そんな少女を出迎えるのは魔王軍の戦士である。女? とシェランドンは間近でその姿を観察した。全身を包む銀と黒の鎧に生身を露出させた部位はなく、まるで彫刻のような姿だが、所々の意匠は女性的であり、緩やかなケープを思わせる装飾に身を包んでいた。


「ほう、おぬしが直々に出向いてくれるとはの」


「ほほほ……、ルクセイアにおける作戦は我が夫バラズゥクが取り仕切っておりますので。あとはこの冥算星、天元術士テリヴルヒと合体魔力マナモビル・アレッサスブイにおまかせを……」


「へへーんだ、こんなことしても無駄だぞ。直ぐにレイが、機罡戦隊の皆が助けに来てくれ……うわわあっ」


 突然カーバンクルの中に悪意の術式がその身体を乗っ取ろうと激しく侵入してきた。これは天元術士テリヴルヒの魔法であり、この恐ろしい呪いはカーバンクルの演算能力を以てしても抵抗するのは容易ではない。


「あら、大したものね。ペタフロップスを誇る私の術式に抗うだなんて……」


 ペタフロップスとは要するに一秒間で十の十六乗回分の計算をするという意味であり、今のカーバンクルでは全くこの速度に追い付けなかった。しばらく抵抗してはみたが、このままでは本当に自分の体が魔王軍に乗っ取られてしまうことを危惧したカーバンクルは致し方なく、自分で炉心を凍結させるしかテリヴルヒの術から逃れられないと判断した。


「こいつは驚いた。この野郎には散々苦労させられたが、それをこんな簡単に!」


 レイ……。


 カーバンクルは無念に思うも、どうにもならない。薄れていく意識の中で自身の使役者と仲間達を想いつつ、運命に身を委ねるしかなかった。




*魔戦士/魔王軍の戦士(ディアゲリエ) 魔王ハジュンより魔星を授かった戦士。魔星は冥〇星と表され、その後に二つ名、戦士名を名乗る。戦士名はハジュンによって命名されたもので、本名は別にある。


冥雷星・雷撃の大剣使いシェランドン

冥算星・天元術士テリヴルヒ

冥魁星・白玉剣アラバスターメーザールシファリア、など。


 魔星により個々の能力を発現させる。また、魔戦士としての経験を積むと魔王ハジュンより昇級を認められ、さらなる力を授かる。

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