君の手で籠の外へと連れ出して
奏空
序章 side一ノ瀬
乾いていく指先でページをめくる時に感じるほんの僅かな重み。
そんな些細な物が欲しくて、100冊などゆうに超える母の本棚から1冊の漫画を抜き取った。
タイトルはなんだったか、今となっては思い出せない。
吸血鬼の女の子と、人間の男の子の恋の話だったように思う。
元々読書が好きだった。
しかし、小説とは違った魅力のある漫画を読んで初めて、所謂沼にハマるという経験をした。
夢中になっていくにつれて、ふと疑問を抱いた。
「好きって、なんだろう」
家族のことはもちろん好きだと胸を張って言える。
特に7つ年下の妹は特に好きだ。
友達のことだって好きだ。
だから、好きというものについては知っているつもりだった。
それなのにどうしても理解ができないのだ。
異性に対して胸がときめく、甘く切ない感情というものが。
私は、生まれ落ちてから30年経った今でも初恋というものを知らずにいる。
「一ノ瀬さん、ちょっといいですか」
声をかけられて振り返ると、そこには同期の長身の男性が立っていた。
メガネとマスクで顔の大部分が隠れているためか、あまり印象の強い方ではないと思う。
くすんだ赤茶色の髪の毛は少し傷んでいて、パサパサと広がっている。
ロッカーの前で立ち竦んでいた私が邪魔だったのだろう。
軽く頭を下げてすぐに脇に避ける。
「音楽聴いてるんですか?」
そんな風に問いかけられたが、私は聞こえないフリをした。
彼はしばらくロッカーの前にいたが、私が俯いたまま何も返さなかったことで諦めたらしい。
荷物を取ってそのまま去っていった。
今やコードレスのイヤホンが主流だというのに、わざわざ有線のイヤホンを使用しているのは周りへのアピールのためでもある。
話しかけられても耳が塞がっているので聞こえません、というのが他の人から見てもわかりやすいだろう。
とはいえ、実際に何も聞こえないわけじゃない。
寧ろ。
「ちょっと仕事が出来るくらいで調子乗りやがって」
ボソリと呟かれたそんな言葉まではっきり聞こえてくるくらいだ。
仕事が出来るくらいで、と言われるほど私は有能ではない。
あることをきっかけに精神疾患を抱えてからというもの、情緒が不安定になるばかりか集中も乱れて失敗ばかりが続いている。
人並みに、というレベルでいいのであれば色々なことができることは少し自慢できるところかと思う。
だが、私は決して人より優れているところを持っているわけではない。
器用貧乏もいいところだ。
「さてさて、今日の更新は、と」
落ち込み始めた気分を切り替えるために、とある小説投稿サイトを開く。
「あ、九条さん更新してる」
通知欄に並ぶ新着エピソードの中に、最近お気に入りの作者の名前を見つけると口元が緩んだ。
豊富な語彙で紡がれる真っ直ぐな文章。
心を洗われるような、雨をテーマに描かれていく物語。
決して私には作り上げることの出来ない世界。
彼か彼女か、九条勇綺というペンネームに少しばかりの親近感を覚えて作品を読み始めたのがきっかけだった。
今ではすっかり九条勇綺の大ファンである。
感想を書くのは苦手なので、作者を応援するボタンをポチリと押してホーム画面に戻す。
「あー、お腹空いたなぁ」
帰り道にコンビニに寄り、財布の中身と睨めっこ。
貯金どころか計画的にお金を使うことさえ苦手な私にとって、給料日前の三日間は地獄の期間だ。
なんとかかき集めてジュースを1本買ってアパートに戻る。
「ただいまー」
返事なんてあるはずもないのに、誰にともなくそう言って靴を蹴脱いだ。
着替えるのすら面倒で、そのままベッドに倒れ込む。
寝返りを打って天井を見上げ、顔のようにも見えるシミを見つめてから目を閉じる。
ぽこぽこと鳴り止まない通知が煩わしくて、サイレントモードに設定し直してそのまま眠りについた。
夢を見た
とても悲しい夢だった
何が悲しかったのかは、覚えていない
ただひたすらに悲しい、そんな夢だった
どこからか聞こえてくる歌うようなその声に、ハッと体を起こして辺りを見回した。
しかし、誰がいるはずもなくホッと胸を撫で下ろす。
スマホを操作し、最近お気に入りのシンガーソングライターの曲を再生する。
切ないながらも元気をくれる歌詞が好きでよく聴くようになった。
「暇だなー」
訳あって家を出る時、電話番号もメールアドレスも、SNSのアカウントも全て変えた。
メッセージアプリに登録してある友達は数年前にSNSで知り合った友人が一人、高校の同級生が一人、の二人だけ。
頻繁にやり取りするわけではないし、地元を離れたために休日に遊ぶような関係の人もいない。
アパートにいれば、ゲームをして電子書籍を読んではまたゲームをして、の繰り返し。
「へぇ、こんなのもあるんだ」
暇つぶしにメッセージアプリをいじっていると、登録外の人ともやり取りできるサービスがあることを知った。
検索タブに、利用している小説投稿サイトの名前を打ち込む。
すると、思ったよりも多くのルームがヒットした。
私はその内の一つをタップし、ペンネームである『神田天空』を入力してルームに参加した。
『初めまして。天空と書いてそらと読みます。よろしくお願いします』
『新規さんよろしくです』
『新規だー!』
当たり障りのない文章を打ち込むと、ルームで盛り上がっていたメンバーから返事が届いた。
どんなメンバーがいるのだろう、と70名近くいるメンバーの一覧を見ていると、見知った名前がいくつかあることに気が付いた。
以前から私が読んでいた作品の作者達だ。
「……あ」
その中に、見つけてしまったのだ。
九条勇綺の名前を。
つい先程まで読んでいた作品を思い出す。
雨の描写が美しい、あの作品を書いた人と直接話ができるチャンスなのだ。
静かだった心臓が徐々に高鳴っていく。
「九条さん……」
一覧の中にあるその名前をそっと撫でる。
恋というものはわからない。
だけど、もしも。
この胸の高鳴りが恋だと言うのなら。
「初恋は叶わないもの、か」
呟いてから、私はついつい漏れ出そうになる笑いを噛み殺した。
今まで、何人もの人と交際してきた。
その度に相手には好きだと伝えてきた。
しかし、どの相手に対してもこんな風に胸が高鳴るようなことはなかった。
本名も、顔も、年齢も、性別も。
何も知らない九条勇綺に、この私が恋をするなんて。
「ないない、絶対ない」
私はわいわいと賑やかなルームのメッセージを眺めながら、イヤホンから流れてくる歌に耳を澄ませた。
──もう少し もう少しだけ 君と早く出会えたなら
瞬きをすると、冷たい雫が頬を伝っていった。
私は気付かないふりをして目を閉じる。
『今更だよ』
どこからか、冷たい色で吐き捨てる声が聞こえてきた。
体を起こして鏡に向かう。
思い切ってばっさりと切って緑色に染めた髪が、わかめのようにうねっている。
手ぐしで整えてみても、すぐにぴょこんと立ち上がってしまった。
口をへの字にして、しばらく鏡と睨めっこしていると、スマホが短い通知音を響かせた。
『新しく公開しました』
九条さんの最新話が公開されたらしい。
そういえば、さっきまで学生時代の話で盛り上がっていたっけ。
どんな作品かと思ってタップして、私は色んな意味で後悔した。
「な、にをしてるんだこの人はぁ!!」
スマホを投げ捨てる勢いで腹を抱えて笑いながらベッドに転がる。
「これから楽しくなりそうだなぁ」
SNSのアカウントをお互いにフォローし合って、九条さんのプロフィールを確認した。
「え、嘘でしょ」
彼は住んでいる県と市を公開していた。
私の住んでいるところから電車で2時間弱。
「これは、もしかして……」
思わず漏れた声は慌てて口を押さえたところで戻ってくるはずもない。
ワンチャンあるかも、なんて馬鹿馬鹿しい。
そう思ってるのに。
『九条さん。オフ会しませんか?』
返信が来るまで、あと──
君の手で籠の外へと連れ出して 奏空 @playmusic2167
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