第3話 ファンバレ

「本当に本当にご迷惑をおかけしっぱなしですみません」

「いえ、全然です」


 玄関で土下座は服が汚れてしまうので立ってもらい、とりあえずリビングに来てもらったはいいが、水上改め美原叶は始終謝罪しっぱなしだった。彼曰く美原は芸名で、本名は水上叶と言うらしい。真湖は平静を装いながらも内心花火が大爆発していた。


──家にみうぽんがいる夢にまで見たみうぽんが数十センチの距離になにこれ走馬灯かな。


 常に痛みを浴びていないを気絶しそうだ。真湖は自身の手の甲を抓りつつ話を聞いた。


「それにしても、俺なんかをご存じとは恐れ入ります。まだデビューして一年も経っていないのに」


「いえいえ、有名ですよ」

「有難う御座います」


 普段、いつ誰が来てもいいように推し棚にカーテンを付けていてよかった。もしも初対面のお隣さんが自分のガチ勢だったら安心できないだろう。


 それにしても、メディア上の叶とはだいぶ印象が違う。常に俯きがちで、話し方もたどたどしい。自分に自信が無さそうに見える。


──こんなに国宝級の顔面や才能をお持ちなのに。


 真湖には分からないが、きっと本人なりの事情があるのだろう。


「周りには美原さん、いや水上さんがここにいることは言わないので安心してください」

「恐縮です……名前も名字が違ってややこしくてすみません。面倒だったら下の名前で構いませんので」

「し、下のお名前」


 思いがけず推しから名前呼びを許されてしまった。いつもは通称のみう呼びのため、名前で呼んだことは一度もない。真湖は興奮のあまり心臓を口からはみ出させた。それを必死に抑えて深呼吸をする。


「では、ええと、か、叶さん」

「あ、はい」

「んんんんもう我慢できないぃぃぃ!」


 ついに限界が来てその場に倒れこんでしまった。叶が慌てて抱き起こす。


「か、海道さん!? 大丈夫ですか!?」

「ちか、近いッッ」

「すすすみません」


 そっと寝かされ、叶が部屋の隅で体育座りをする。真湖は懺悔した。


「こちらこそすみません! あまりの顔の良さに奇声を上げてしまって」

「えと、有難う御座います……?」

「実は私……叶さんのファンなんです申し訳ないです!」


 綺麗な土下座で言わないでおこうと決めていたはずの告白をする。


──お隣が自分のファンだなんて嫌だよね。おちおちオフの顔してられないし、ふいに隠し撮りとかされそうだし。そんなことはしないけれども! ども!


 引っ越し当日だというのにこんな大暴露をされて、また引っ越し羽目になったら申し訳なさすぎて涙が出てくる。再引っ越し代を支払うべきだろうか。しかし、今日の真湖にはCD一枚すら追加する余裕はない。


「……」

「…………」


 叶からの返事が何もなく、真湖の心はさらにどん底へと突き刺さった。


──ここは潔く自害? ううん、そんなことしたらみうぽん一生のトラウマになっちゃう。


 自分の行いに対してどのような罰を受けるべきか命じてほしい。恐る恐る顔を上げると、叶が真っ赤な顔をしてこちらを見つめていた。


「あっあのその、すみません! 俺のファンだなんて信じられなくて、いや貴方が嘘をおっしゃっていると言っているわけではなく俺の心がびっくりしすぎて信じきれないというか……飛び降りてきます」


「ここはライブ会場ではなく二階なのでダイブしないで!」


 真湖が立ち上がった叶の腕を掴んで止める。逆に自害を止める羽目になり、真湖の精神は崩壊寸前だった。ばっと距離を取って謝る。


「あぎゃッつい腕を……! 申し訳ありませんこちらこそ気持ち悪くて! とりあえず、飛び降りるのは止めましょう!」


 叶が掴まれていた腕を見つめながら、すとんと正座した。


「申し訳ありません。俺の死体処理なんて大変な作業をお願いしそうになってしまいまして、紙くずよりクズでした。もう飛び降りるとは言いません」


「よかった……よくないけど、とりあえず思いとどまってくださってよかったです」


 万が一億が一推しに不幸があったとしたら、何をしでかしてしまうか真湖自身にも分からない。推しに多くは望まないが、幸せであってくれればそれが一番良い。


「えっと……じゃあ、ファンがお隣だと複雑だと思いますが、極力接触しないよう努力しますので、よろしくお願いします」


 二人で何度もお辞儀をし合う。こうしてアイドルとファンというアクシデントの予感しかない隣人生活が始まった。





「ふおおお……みうぽんに触れた服洗いたくないよぉ……でも一日着て汚いから洗わなきゃ」


 一日の終わり、パジャマに着替えた真湖が涙ながらに服を洗濯機に入れる。先ほど手を洗った時もガチ泣きをした。


「というか、これからお隣さんになるわけだから、このくらいで躊躇していたら心臓がいくつあっても足りなくなっちゃう。慣れないと!」


 真湖は目を閉じ、今日あったことを思い返した。そのまま床に崩れ落ちる。


「無理……三百六十度イケメンだったし意外にも弱気な感じも知れてお得感満載だったしすべてにおいて新規絵で神過ぎ」


 いきなり慣れるのは不可能だと悟った真湖は、さっさと寝ることにした。落ち着くには脳を一度リセットさせる必要がある。


「明日はバイトあるし、ちゃんと休養しないと」


 アラームをバイト先に向かう一時間前にセットする。真湖は目を閉じ、二秒で眠りについた。

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隣の部屋に越してきた推しの挙動がおかしい @takanarin

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