呪いと猫の後宮夜話〜月夜のまじない妃と眠れない皇帝〜
高井うしお
第1話
――今宵も月が昇る。紅月の胸はざわめいて、体がきしみ出す。
「にゃー……ん」
人から一匹の猫の姿になった紅月を、皇帝はひょいと抱き上げ頬ずりをした。
「さあ、眠ろう紅月」
紅月はそれに抗うように、前足を突っ張ったが、胸にぎゅうと抱かれたまま、寝台に引きずりこまれる。
皇帝と一夜を共にする。それはこの後宮に数多居る女たちの誉れだというのに、なぜに紅月は猫の身なのか。ふくふくと首元の毛に顔を埋める皇帝の息を感じながら、紅月はここに至るまでのことを思い返していた。
***
香が焚きしめられた薄暗い室内――ここは妓楼である。無言のまま夏紅月は筮竹をじゃらりとさばく。その様を女は食い入るように見つめて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「うん。あんたの男はいずれ帰ってくるよ」
紅月がそう言うと、女ははっしと彼女の手を掴んだ。
「本当かい⁉」
この女は娼妓で、恋仲となった男が近頃姿を現さないとやきもきしていた。だが自由に外出できない彼女は探し回ることも出来ない。そんな訳でよく当たると近頃評判の占い師に頼る他なかったのである。
「今はふらふらしているけど、やがてあんたの良さが分かって帰ってくるから、どんと構えて。下手に悋気を起こすのは逆効果よ」
「ああ……わかった。これ、お代だよ。とっておきな」
「え……ちょっと多いんじゃ」
「いいんだよ」
そんなんだから貯まらないのではないかと言いたいところをぐっと押さえて、紅月はその金を受け取り、代わりに一枚の護符を取りだした。
「それではこれを授けましょう。この護符は男女の仲を取り持つもの。この下の部分に相手の名前と年齢を書いて、肌身離さず持っておくこと」
「うんうん、ありがとうね!」
「くれぐれも短気を起こさないようにね」
紅月はそう言い含めながら廓を出た。懐の重みにそっと手を添えて、これならばしばらくは食いつなげると思った。
「どこに行っておったのだ」
市場に寄り、食べ物やら日用の品を買って戻ってきたところに出くわしたのは、久方ぶりに見た父、夏天明の顔であった。
母が流行病で亡くなり、正妻の麗珍に家を追い出されてから半年ほどになるだろうか。はじめの頃はちょくちょくと顔を出していた父だったが、最近はとんとご無沙汰だった。まあ、その理由は紅月には分かっていたので責めるつもりもないのだが。
「お父様。買い物に出ておりました」
「嘘を申すな。隣家の女将さんが占いの仕事に出たと言っていた。仕事をするとはなんだ。月々の金は渡しておるだろう」
「……申し訳ありません」
「それに買い物ならば下女にさせればいいではないか」
だんだんと強くなっていく父の口調を、紅月は「あの!」と大声で遮った。
「お言葉ですが、お家からの送金はもう三月滞っております」
「あ……あ、そうか……」
心当たりを思いついて、父の顔がばつの悪そうに歪む。
「すまんな。とりあえずこれを渡しておく。残りは後から届けさせる」
父は財布を取り出して机の上に置いた。
「だから下女にも暇を出してしまったのか」
「いえ。お義母様の寄越した婆やは母様の遺品に手を付けようとしたので追い出しました」
紅月がそう言うと、父は天を仰ぎ、ハァと深くため息を吐いた。
「幸い泥棒避けの護符が働いて、品物は無事です。生活も、占いをすればなんとかなります」
「なんとかなりますではないのだ。そなたは夏家の娘なのだぞ。この恵照県の県丞の娘が、辻で占いをしてどうする」
紅月の父は県丞、つまり県令の補佐役をしていた。没落しかけた家の出から、その才覚と教養を武器に今の地位まで上り詰めたのだ。その娘が食うに困って働いているなんてことが世に知れたら顔を潰すことになるのは紅月にも分かっていた。
「これはやはり早く嫁にやらねばならん」
「お父様。それは嫌だと何度も申しました。私は嫁になぞ行きません。母様の喪が明けたら、寺にでも行きます。それに……私に嫁ぎ先を用意したなんてお義母様に知れたら、また大変なことになりますよ。星雨お姉様の輿入れもまだなのに」
星雨は紅月の五つ年上の腹違いの姉なのだが、正妻の麗珍は彼女を溺愛している。
「そうではあるが……私はお前が不憫なのだ」
なんとかしてやりたいという父の思いは十分伝わってくるものの、この父はとにかく妻に頭が上がらないのだ。それもそのはず、麗珍の父は恵照令であり、天明にとっては上司にあたる。妻の実家は古くからの名家であり、この地では大層力がある。麗珍はその家の一人娘だった。だから天明が主人と言っても麗珍の発言権が非常に強い。実際、紅月を追い出した時も天明は止められなかった。
「星雨の嫁ぎ先も探してはいるのだ。だが、あれも嫌だこれも嫌だと……。もういい歳であるのにわがままに育てすぎた」
父は再び深くため息を吐いた。彼は職務においては優秀と聞く。一番ままならないのは家の中なのだろう。
「私は気楽ですよ。この暮らしもなかなか気に入っています。お母様が教えてくれた占いやまじないも役に立ちますし」
実際、麗珍の嫌味を聞きながら暮らすよりもよほど良いと紅月は本気で思っていた。妾のその子に辛く当たる正妻は多く居るだろうが、麗珍のそれは常軌を逸していた。父ほどの立場の男ならば、妾の一人二人いてもなんらおかしなことはない。嫌味くらいならまだ良い。叩いたり物を隠したり、使用人と一緒になって嫌がらせをするのだ。
ひとつ同情をするならば、彼女は妻としての立場を尊重されてはいても、父からの愛情を受けてはいなかった。かつて彼は恵照一の貴公子と呼ばれ、髪に刺した冠の花すら霞むような美男子ぶりで、物腰は柔らか話術は軽妙、得意の詩は優雅で洗練され、それらにあらゆる女がうっとりと彼を見つめていたという。
その妻となった麗珍は、非常にやきもち焼きになった。廓に通ったとなれば大声で喚き散らすし、他の女と口を聞いただけで不機嫌になった。
それだけ夫の行動を見張っていた麗珍であったが、にもかかわらず天明はお参りに行った寺院の女道士の紅月の母、翠玲と恋仲となって家に連れてきた。彼女は激高してひと月実家に帰ったという。それからずっと麗珍は翠玲とその娘の紅月を目の敵にしてきたのだ。
「いや、やはりこのままで良い訳がない。紅月、なんとかするから」
「……はい。期待はしないで待っております」
父が家を出て行った後、紅月は夕食の為に竈に火を熾しながら、ぼんやりとしていた。
父のことは好きだ。忙しい仕事の合間に沢山かわいがってもらったし、母との仲も良かった。それでも……母は気丈に振る舞ってはいたものの、妾の立場で苦しかっただろうし、紅月自身が結婚に何か夢を見られるかというと、それは難しいことだった。
「でもいずれどこかに嫁ぐことにはなるんでしょうけど」
寺に行く、と父には言ったものの、それは現実的ではない。姉の嫁ぎ先が無事決まったら自分もどこかの誰かに嫁ぐ。世間の常識はそんなもので、紅月もその中で生きているのだ。
「うん。おいしい。あそこの料理屋にはまた行こう」
温め直した市場で買った菜を食べながら、紅月は思わず微笑んだ。家を出た紅月は一人だけど、自由がある。先のことは分からないけれど、今はそれを楽しもうと思った。
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呪いと猫の後宮夜話〜月夜のまじない妃と眠れない皇帝〜 高井うしお @usiotakai
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