番外編:大人げない千里

◇千里side



大教室で講義をしながら、視界の端に美亜がいる。

それだけですごく幸せになって、講義にも気合いが入る。

今日は一人で授業を受けているらしく、いつものゼミメンバーは一緒じゃない。


だけど、一人の男の子が遅れて教室に入ってきて、美亜の隣にすとんと腰を下ろした。

美亜は一瞬男をチラリと見て、少し会話をしている。

多分挨拶かなにかだろう。知り合いだったのか。でも僕のゼミのメンバーではない。

気になりながらも、百人以上はいる生徒たちを前に美亜ばかり見ているわけにもいかない。


視線を離しながら、英文学について話をする。

ほとんど女の子ばかりの教室に少しさびしく思うけど、仕方ないかとも思う。自分なりに授業は面白いものにしているつもりだけど、文学部の男女比率以上に女性の割合が多い。


授業内容より、僕の見た目か、それか口うるさくない授業だからだろう。

僕の授業は出席がないから、嫌々参加している子は少ないだろうけど、それでも私語を喋る子はいる。

ぐるりと教室を見渡すと、一瞬しんと教室が静かになる。

このくらいで静かになるんだから、可愛いものだ。


美亜の方を見ると、さっき隣に腰掛けた男が美亜になにやら喋りかけていた。美亜も楽しそうに笑っている。

一瞬、男が美亜の長いふわふわの髪をすくって、撫でた。


イライラが一気に止まらなくなった僕は、思わずマイクを使って、「そこ。私語は禁止」と名指しで注意する。

“そこ”以外も教室中がしんとして、結果としては良かったけれど、美亜は呆れたような顔でこっちを見ていた。


またきっと馬鹿にしている。

呆れているんだろう。どうしようもない男だと。

でも仕方ないじゃないか。

吉村くんは確かに明穂に惚れていたようだけど、そんなに明穂はモテるタイプではなかった。

同性にはすこぶるモテていたけど、異性から惚れられるようなタイプではなかったと思う。


でも今は違う。

美亜になって容姿が変わった。

元々性格はとっつきやすいし、面白いし、話も上手だ。

それでいて、容姿がお姫様みたいな。色白でふわふわの髪でとても可愛い女の子になってしまった。

いわゆる男受けのする容姿になってモテないわけがない。それがすごく心配でならない。


講義を終えて、駐車場に向かう。

きっと美亜が待ってくれているだろう。

急いで向かうと、美亜が車の陰に隠れて座っていた。

思わず笑みが浮かぶ。

真っ白い肌は太陽に照らされてキラキラに輝いている。


「千里。おそい」

「ごめん。ちょっと教授室寄ってたら来客があって」

「いいけどー」


車のキーを開ける。

美亜は助手席に乗り込むと、さっさとシートベルトを身に付けている。


「ちょっと千里。今日わざと注意したでしょ」

「……ごめん。だって髪触ったし」

「ただの友達なんだから大丈夫だって。私が浮気するわけないでしょ?」


自信満々で言う美亜にホッとする。

「うん」と頷きながら、そんな事は断言なんてできないと思う。もちろん美亜は信用しているけど、向こうが好意を持たないかどうかは分からない。

自分でも心配しすぎな気はするけど……。


自宅へと帰って、美亜はやっぱり我が物顔で僕の家に入って行く。

これは元々一緒に住んでいたようなくらい親しかった幼馴染だったからかもしれない。

相手の家は自分のものってくらいに思っているんだろう。


「美亜。お腹すいた?」

「うん、すいた。作ろっか?」

「今日は僕作るよ。チャーハンとかで良ければ」

「え、ほんとに? 千里のチャーハン好きぃ」


美亜がソファでくつろいで言う。

それを見ながら嬉しくなって、冷蔵庫をいそいそと開けた。

野菜を切り刻んでいると、美亜が近寄ってきて、後ろからぎゅっと抱き着かれる。


「どしたの」

「別にぃ」


そのままにしながら、玉ねぎを刻む。

美亜がこんな風に甘えてくるようになったのは実は最近で、それまではいきなり恋人になったことで戸惑っていた部分もあったらしい。兄弟みたいなところもあったし、最初は確かに照れくささがあった。

美亜から来てくれるなんて嬉しくて思わず頬が緩む。


「あ、美亜。そういや。来週から出張なんだ」

「え? 出張?」

「うん。なんか教授の交流会というか研修会というか。そんな感じで一週間くらいいないんだ」

「へぇー大変だね。その間授業どうするの」

「その間は休講になるね」

「ラッキィ」


美亜の言葉に苦笑しながら、それでも美亜はベッタリと僕に抱き着いている。

美亜の事をいつだって憎たらしいなんて思った事はないけど、吉村くんからすればなんで僕が腹を立てないのか疑問でならないらしい。確かに失礼な事を言われている日もあるような気もしないけど、それでも全部が可愛いってなっているんだから仕方ない。

重症だよなぁ。


美亜は一週間離れることもなんとも思っていないらしいけど、僕としては寂しいの一言くらい欲しかったりする。

そんな言葉を美亜に期待したって仕方ないとは思うんだけど。


「美亜。今から炒めるから向こう行っておいで。危ないから」

「はーい」


美亜が素直にリビングに向かうのを見送ってから、フライパンに火をかけた。結局渡した合鍵で美亜は出張当日、僕の家まで見送りに来てくれた。


美亜は相変わらず動じる事なく、行ってらっしゃいと可愛く言う。

可愛い顔で言われると行きたくなくてたまらなくなるけど、顔中にキスを降らせて「行ってきます」と言った僕に、仕方なさそうに笑った。

付き合ってからほぼ毎日のように会っていたせいで一週間離れるなんて事は初めてだ。

元妻との時は何か月会ってなくたって平気な気がしていたんだからひどい話だ。


結局研修旅行に出かけて、その日の夜になっても美亜からの連絡はない。あまり美亜は電話もメッセージもマメな方ではないから仕方ないけど寂しいなと思ってしまう。

そう思うのが僕だけならもっと寂しい。


そんな日々が続いて、出張の最終日。

美亜には二十二時頃帰ると伝えてあったけど、予定が早く終わったから早めの新幹線に乗って十七時頃には家に着いた。

美亜には言っていない。

自宅の鍵を開けながら、携帯を片手に「今から来ないか」と連絡しようとして、玄関の靴が目に付いた。


あれ。

美亜の靴?

最近気に入って履いているパンプスが目に入る。


来てるのか?


「……美亜?」


眠っているらしい。

二人のためにと買ったクイーンサイズのベッドの上ですやすやと眠っている。

でもまだ夕方の五時なんだから多分お昼寝なんだろう。


それを示すかのように、大学から帰ったままの私服のまま。ベッド脇に放り出された鞄。

その上なぜか僕のパジャマをぎゅうっと抱きしめて眠っている。


かわいすぎて胸がきゅうっとなる。

思わずその場に音も立てずに座り込んでじっと美亜を見る。

出張中ほとんど連絡もくれなかったのにこっそり寂しいとか思ってくれてたのかな。


この状況ってさすがに期待しちゃうけど。

少し近寄って、栗色がかった髪を少し撫でつける。

微動だにしない美亜の横に腰掛けると、ベッドが重みによって軋む。


音は立てない優秀なそれだけど、美亜は気付いたようでゆっくりと目を開いた。


それから僕の方を見て、パチパチと瞬き。

そして、壁にかかった時計を見てしばらく停止。

で、また僕をじぃっと見た。


僕が髪を撫でてやると、「うわあ!」と声を上げて、美亜が飛び上がる。その反応に笑うと、美亜は僕のパジャマや今の現状を見て顔を真っ赤にした。


「な、なんで、こんな早い時間にいるの」

「予定が早く終わったから帰ってきたんだよ。今から美亜呼ぼうかなと思ってたら部屋にいるからびっくりしてたとこ」

「……へぇー。おかえり」

「ただいま」


美亜をぎゅっと抱きしめると、されるがままの美亜は少しして僕の背中にゆっくり手を回してくれた。トントンと背中をリズムよく撫でながら、美亜に話しかける。


「なんで僕のパジャマと一緒に寝てたの? 寂しかった?」

「え、はぁ? な、なんで」

「いや、パジャマ抱きしめて寝てたから」

「……そういうんじゃないけど、パジャマがそこにあったからなんとなく」


しどろもどろになるのが可愛くて、追求するのをやめた。

それでも美亜の考えている事が伝わってきて、嬉しさの余り、口元が緩んだ。


一週間の出張。

寂しいと思っていたのはどうやら僕だけじゃなかったらしい。


「あ、千里。今日私ごはん作るね。材料買ってきたから」

「ありがとう。何作るの?」

「んー、からあげ」


僕の一番好きなメニュー。

これが美亜の分かりにくい愛情表現なんだろう。

昔からなんでも言いたい事はズバズバというところがあったけど、恋愛に関してはそうじゃないらしい。

そういう一面が知れて嬉しいなと思う。

こんなところは吉村くんも知らないだろう。



――僕だけの明穂。



「楽しみだな」

「千里好きだもんね」


美亜が笑う。

僕も一緒になって笑って、一週間ぶりの再会をした。

やっぱり僕は美亜がいないとどうやらダメみたいで、美亜も同じように僕がいないとダメだったらしい。


そんな事を思った。



おわり

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