番外編:吉村の愉快で憂鬱な毎日
――遠い昔を思い出していた。
あの日は雨が降っていて、明穂は案の定傘なんて持ち合せていなくて、部室の前で雨宿りをしていた。
俺は男子更衣室から出てきて、手に持っていた黒い傘をじっと見る。
明穂は空を見上げて、止む気配の見せない雨に、はぁっとため息を吐いた。
よし、声、掛けるぞ。自然に。あくまでも自然に。
入って行くか?と言えばいい。それか、傘を渡して俺は走って帰るか。そうできたら一番いいけど、そんな事したら好きってバレんじゃねぇか。
ぐるぐると思考は巡り続け、ごくんと唾を飲み込んで、ようやく一歩を踏み出そうとした。
その瞬間。
向こう側からバシャバシャと音を立てて走ってきた男は、明穂に手を振る。
「明穂ー。帰ろう。傘ないんでしょ?」
「あ、千里! 千里なら来てくれるかなぁって思ってたんだよね」
「ほらー、だから朝傘持って行きなって言ったでしょ」
「だって、朝は雨降ってなかったんだもん」
「まぁいいや。帰ろっか」
城山千里。
甘いマスクで微笑んで、明穂と寄り添うようにして帰って行った。
俺は自分の黒い傘をじっと見つめて、乱暴に土を蹴って走った。
――当時の事を思い出しながら、何となく切ない気持ちになっていると、目の前にいた明穂がまた喋り出した。
昔からこいつは本当に落ち着きっていうものを知らない。
「ねね、吉村聞いてよ。千里ってばさぁ、あの見た目で料理壊滅的なんだけど。私よりできないんだよー」
「そうなんか?」
「今度卵焼き作ってもらってよ。なぜか目玉焼き出てきたからね。まず最初から違うんだけどーって爆笑したの」
「俺、あいつの卵焼きも目玉焼きも食いたくねぇから!」
「えー、千里の事好きなくせにぃ」
「え、え、初耳なんですけどぉ。俺が千里の事好きとか初耳なんですけどぉ」
俺が突っ込むと、きゃははと楽しそうに明穂が笑う。
まぁいいかと思う。
……まぁいいかと思う。
「――聞いてよ。美亜ってさぁ、昔から危なげなところあったけどさ。あ、なんだと思う?」
「え、わかんね。なんだよ」
「掃除! あの子掃除片付けが全然できないんだよ」
「ああー、そんな感じするわ、あいつ。性格おっさんだからな」
「え、美亜がおっさんとか失礼だよ。吉村くん。ただ掃除片付けができないってだけ」
「あっそうですか。それは失礼しましたねぇ」
ぼりぼりと居酒屋できゅうりを食べながら、千里いわく愚痴を聞く。(どう見てものろけ)
「あ、そうだ。それとさ、吉村くん」
「はいはいはいはい、何でしょうか」
「美亜がさぁ、昨日ね」
まぁいいかと思う。
まぁいいかと、…………思うわけねぇだろうがあああ!
「千里、お前。巨乳紹介しろ!」
「……えぇ、吉村くん。そういうとこがダメなんだよ。だから三十超えてもいい人が、」
「……いいから、黙って、紹介しろ!!」
……吉村の苦労は、まだまだ終わらない。
おわり
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