「5・4・3・2・1……あけましておめでとう!」

「ンー」


 零時になった瞬間ハヅキがそう言うと、そばで座っていた茶トラの愛猫のキントキ(あだ名はキン)が返事をした。しかしいくら待てども母の新年を祝う声は聞こえてこない。ハヅキが疑問に思いながらスマホを伏せてこたつから起き上がると、さきほどまでこたつで新年を待ちながらみかんを食べていたはずの母が忽然と姿を消していた。


「お母さん?」


 呼びかけても返事はない。いつの間にかテレビも消えており、何度電源ボタンを押しても画面がつくことはない。諦めて手繰り寄せたスマホの画面をタップすると、00:03という数字の下に見たことのない日付が表示されていた。



【13月1日 風曜日】



「なにこれ……」


 一度画面を消してから再度電源ボタンを押してみるが、そこに浮かぶへんてこな日付は変わらない。一番最初に頭に浮かんだのは夢という可能性だが、手のひらをつねってみるとしっかり痛みを感じた。つまりこれは現実だ。


「お母さん、いるなら返事してよ。ねえ!」


 声を張り上げてみるも返ってくるのは「ンー」というキンの猫らしくない鳴き声のみ。その後キンと一緒に家の中をくまなく探し回ってみたが、母の姿はどこにもなかった。まるでこの世界に自分とキンだけが置き去りにされてしまったかのような不安を覚えたハヅキは、外に出れば誰かがいるはずだと思いサンダルを引っ掛けて家を飛び出した。真夜中の静けさに包まれた町の風景は見慣れたもので、特に変わった点は見当たらない。一安心しかけたところでハヅキは気付いた。真冬だというのに北風が一陣も吹いていない上に寒さは全く感じないことに。春か秋といわれても信じてしまうくらい過ごしやすい陽気だった。この数分間で季節を飛び越えてしまったとでもいうのだろうか。立て続けに起こる不可思議な現象にハヅキの心はかげりかけたが、首を振って沈みそうになる思考に歯止めをかけた。


「後ろ向きになっててもなにも始まらないよね!」

「ンナァー」


 キンの相槌に背中を押され、ハヅキは明かりが灯っている近所の家のインターホンを押した。しかし「どなたですか?」という待ち侘びた返事はいつまで経っても聞こえてこない。二軒三軒四軒と続けてインターホンを鳴らしてみたが、どの家もまるで返事がない。まるで家の中に誰もいないかのように。


「嘘、だよね。こんなの」

「ンンンー」


 よろよろと後ずさったハヅキは、足下から這い上がってくる得体の知れない恐怖を振り切るようにキンを抱き上げて駆けだした。そのままどれくらい走っただろうか。喉と足の痛みが限界を迎えて足を止めると、見覚えのない公園の前にいた。中央を広い川が流れており、その川を挟むように長く伸びた二本の土が敷かれただけの遊歩道には桜の木と真っ赤な彼岸花が咲いている。二つの花の開花時期が重なることはない。けれどどちらも見頃といって差し支えないほど見事に咲いている。そこでハヅキの脳内にここは自分がいた世界ではないのではないかという仮定が浮上した。自分だけが別世界にきてしまったのだとすれば、他に誰もいないのも頷ける。けれど頭はその信じがたい事実から目を背けるように花々の美しさに意識を向けさせた。街灯の代わりに土が剥きだしの地面に点々と置かれた行灯により、景色はうっすらと橙色に色づいてみえる。限りなく澄んだ水面に映る逆さ桜と三日月は息を呑む美しさだった。


「綺麗だな」

「ウンー」


 声を上げる度に返事をしてくれるキンが一緒ではなかったら、今頃ハヅキは恐怖と不安で発狂していたことだろう。


「キン、ありがとね」


 地面に下ろしてから頭を撫でると、キンは「どういたしまして」というように「ンゥー」と口を閉じたまま鳴いた。猫の象徴ともいうべき「にゃあ」という鳴き声を滅多に出さないこの愛猫は、母とハヅキによく懐いていた。食べた食器を台所に置きに行くだけでも「ウンー」とか「ンンー」と独特の鳴き声を上げながらついてきて、お風呂から出ればいつも脱衣場の外で香箱座りをして二人を待っていた。憎めないストーカーである。


「今宵は良い夜だな。まあここはいつも夜だが」


 唐突に聞こえたその声に、ハヅキは一縷の希望を見出した。自分以外にも人がいたのだ。振り返ると、背丈がゆうに二メートルはありそうな青年が月を背にハヅキを見下ろしていた。烏の濡れ羽色の硬そうな黒髪は前髪だけ横や後ろよりも長く、目は厚い前髪によってすっかり覆い隠されている。黒一色の着流しに足元は下駄という服装からして、呉服屋の関係者かなにかだろうか。少なくともハヅキの家の近隣でこの青年をみかけたことはないし、この辺りで日頃から着物を好んで着ている人物もいなかったはずだ。となるとこの青年はかなり遠方からこの町にきた旅行者だろうか? あるいは昔の日本を舞台した映画の撮影中という可能性もある。しかし青年の周囲に和服を着た他の役者やカメラマンの姿は見当たらない。けれど「ここはいつも」という言葉からこの辺に住み慣れている気配を感じたため、ハヅキは思い切って声をかけてみた。


「あのっ、ここがどこか知りませんか?」

「ああ、知っているとも」

「本当ですか?! 教えてください。私、気付いたらここにいたんです。さっきまでお母さんと一緒だったのに」

「そう焦らずとも教えてやるさ。とりあえずあそこのベンチにでも座ろうじゃないか」


 青年はハヅキを落ち着かせるようにゆったりとした口調でそう提案する。

 確かに少し冷静さを失っていたかもしれないと思いながら「はい」と頷き青年と並んでベンチに座ると、キンが膝によじ登ってきた。そして胸の下まであるハヅキの栗色の髪にちょんちょんと前足でじゃれ始める。引っ張ったりはしないため痛みはない。キンは小さい頃から本気でじゃれついてくることはなく、猫を飼っていれば必ずできる引っ掻かれたりかまれたりしたことによる傷ができたことはこれまでにただの一度もなかった。


「ここはどこなのか、だったな。答えとしては十三月だ」


 十三月。それはスマホに表示されていたへんてこな日付と同じだ。


「なんなんですか、十三月って。聞いたことないです」

「そうだな、分かりやすくいうと生者と死者のちょうど中間に位置する場所だ」

「生者と死者の中間?」

「おや、伝わらなかったか?」


 青年は顎に手を当てて少し考え込んでから先を続けた。


「ここには生や死という概念がない。ついでにいうと時間もあってないようなものだ。夜の帳が上がることは永遠にないからな」

「……」

「どうした、急に黙り込んで。これも伝わらなかったか?」

「いえ、なんとなく意味は伝わりました。でも信じられなくて」

「当然だな。だが娘のようにここに迷い込む人間は時々いる。大晦日に日付を超えられずにここへきてしまうらしい。時の神は稀に仕事が杜撰になるからな」


 まるで時の神と知り合いであるかのような口振りでそう話す青年。見た目は人のそれと同じだが恐らく人間ではない。確証はないが、ハヅキは自分とはなにかがはっきり違うと青年を一目見た瞬間から感じていた。


「娘、少し歩かないか? なに、心配しなくとも時がくれば自然と元いた世界へ帰れる。人間がくるのは久々なんだ。色々話を聞かせてくれないか」

「え、私帰れるんですか?」

「そうだ」

「ならもっと早く教えてくださいよ!」


 憤慨するハヅキに青年は「すまない」と謝る。


「人間という生き物は難しいな」


 小さく呟かれた青年の言葉を耳にしたハヅキは、この青年は人間ではないという確信を深めた。

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