猿山ではバナナを食え
綿来乙伽|小説と脚本
彼女は赤に染まった服を着ていた。劇場は赤に染まっていた。
仕事終わりの夕方、友人に誘われてお笑い芸人のライブを観に行くことにした。
高校からの仲である友人の彼女は、高校時代はアイドルグループの追っかけをしていた。大学に入ると2.5次元と呼ばれる舞台役者の追っかけをしていた。社会人になって金銭面で余裕が出たのかホストクラブに通い始めてものの数週間で一番の太客になっていた。彼女はここ十年ほどでたくさんの「推し活」を行なって、今はお笑い芸人に辿り着いたそうだ。
私にとってお笑い芸人とは、スタンドマイクの前に立つか各々の衣装を着てコントセットの中にいる、テレビの中にいる芸人という名の妖精だと思っていた。だが「推し活」の彼女からしてみれば、今時の芸人は顔や容姿などのビジュアルの良さが必須であり、ネタで笑えるかどうかは全く別の話なのだそう。彼女にその話を聞いてから、SNSで、女性に大人気のお笑い芸人のライブで彼らのネタが終わると退場する観客が多いと話題になっていた。おそらく、面白さなどはどうでも良く、芸人の顔、衣装、髪型、立ち姿、その他分からないがたくさんの彼らの愛すべき点をたくさん見るだけの為に劇場に訪れる客が多くなったのだろう。アイドルや俳優やホストに向かうのと同じ原理なのだろう。彼女らや友人はそれをなんとも思っていないのだろう。彼女達は彼女達で、それを糧に人生を歩んでしまっているのだから、途中退場をすることになんの悪意も持っていない。何も関わりを持たない私からすれば、一恐怖に値するが、それが時代だと言われれば、首を縦に振ることしか出来ない。
そんな感性を持つ友人が連れて来てくれたのは、彼女の「推し」がコントで登場するライブだった。彼女はどこのつてか知らないが、お目当ての芸人の出番が何時何分、誰の後なのかを知っていた。彼女はおそらく、いや絶対に彼らを見て帰るつもりだ。私は彼女が繰り出す情報に頷いていたが、内心はなんだこいつと思っていた。
私達が座ったのは前から二列目だった。ここから途中退場するなんて中々度胸のある行動だと思ったが、彼女達にとっては、パスタを食べようとして間違えて箸を持ってきてしまったのでキッチンに戻ってフォークを取って来なければ、くらいで立ち上がっているのだろう。もしくは、部屋の掃除をしている時に卒業アルバムを見つけて掃除機を放ってアルバムに手を付けてしまうようなものだろう。今自分に必要のあることだけ目に入れていたい、今自分が大切だと思っている事だけ触れていたい。彼女達の気持は恐ろしく真っすぐである。私の隣に座る友人だけではなく、明らかに仕事帰りの時間なのに呆れる程可愛い彼女達もきっと、同じ時間に席を立つのだろう。
ライブのオープニングが始まった。彼女達の歓声が上がった。私はお笑いライブが初めてであることと、観客の叫びがほぼ動物園の猿山を見ている時と似ていたことに驚いてパイプ椅子を三ミリ程後ろに下げてしまった。
拍手と共に現れたのはライブの主催をしている芸人だった。彼らが登場したタイミングで拍手が止んだ。漫才の中で、確実にボケて確実にツッコミ確実なお笑いが起きていても、友人どころかほとんど客が笑わなかった。それは面白いか面白くないかではなく、単に興味がない静けさだった。ふと友人とは逆の客を見ると、スマートフォンを使用してSNSを見ていた。彼女達は本当に推しだけに会いに来ていると改めて怖くなった。
彼ら以外にも、漫才、漫才、コント、漫才、コント、コント、と続いた。どれも面白かったが、周りが笑わないと笑いづらい。テレビではなんとなく観客や他出演者の笑い声や若干のSEなども入っていて、笑い時がなんとなく分かって笑いやすい。だがこの環境は、ネタがどれだけ面白くても笑ってはいけないような雰囲気すら感じた。葬式や図書館のような、絶対笑ってはいけないけどこういう静かな空間に限って少しのことで面白くなってしまう、といったこともない。学校の視聴覚室のように、面白さを丸い点だらけの壁が吸収してしまうのだ。私は自分の中で生み出された「面白い」「笑いたい」が観客の静けさのせいで吸収されるのが許せなかった。
一芸人のコントが終わった時、観客のほとんどが姿勢を直した。腕時計を確認すると、友人が言っていた時間ピッタリだった。彼女達が目的としている彼らが現れる時間だ。どこかでは前髪を整え、どこかではスマートフォンをからステージに視線を戻し、どこかでは彼らの名前を叫んでいた。そして彼らの出囃子である音楽が流れると、オープニングの猿山は再び活気を取り戻し、腹が減ったバナナはまだかと叫び出した。ステージ上に置かれたスタンドマイクに集まった彼らが自己紹介をしてお辞儀をした。それから猿山の猿達は、彼らの漫才が終わるまで飢餓に苦しむように叫び続け、一度も彼らの声が聞こえずに漫才を終えた。
彼らがネタを終えてステージから消えていくのを確認したら、友人を含めた八割ほどの観客が立ち上がった。
「じゃあね。私これから担当のバースデーあるから」
友人はまだホストに通っていた。
「最後まで見ないの?」
「最後まで見たよ?」
同じ言語でもこれほど嚙み合わないのかと思い知った時には、彼女は劇場にはいなかった。
いなくなった彼女の残像を見つめていたら、次の芸人のネタが始まっていた。彼らお笑い芸人は、観客が少なくなっても笑いを提供してくれた。ぽつぽつと残っていた観客と共に、私は本当のお笑いを楽しめた。
全てのネタを見終えて会場を出た時、なぜだか達成感があった。観客が一気に減ってから三組ほど芸人が出てきたが、どれも面白く声を出して笑った。途中退場した彼女達にはこの価値がどれほどのものか分からないだろう。だから最後の三組は、私や残り共に楽しんだ観客が分かっていれば良い。きっとその芸人達も同じ気持ちであるはずだ。次は一人で足を運ぶことを決めて劇場を出た。
劇場を右に曲がると、従業員出入口が見えた。今日見れなかった芸人やスタッフが何人か出入りをしていた。今度劇場に行ったら彼らのネタを観ることが出来るのだろうか。私はマスクで隠れた口角が少し上がるのを自覚しながら、彼らの横を通り過ぎた。
「今日の客どうだった?」
「三列目のピンクの服の子可愛くなかった?」
「甲野の元カノ?また狙ってんだろ」
「良いじゃん別に可愛かったら」
「それより二列目の女の方が良かったよ。生足見た?」
「見た見た。あれは狙い過ぎじゃん」
「いや逆にあれくらいやるやつは純粋ちゃんだって。ほら、これLINE。さっき聞いたら顔赤くしてオッケー貰った」
「やっばやることやってんなー」
ここでは友人のような観客が正解で、彼らのような芸人が正解だった。鳥肌を立てた私が、この世界で不正解だった。それから、私がこの劇場に足を運ぶことはなかった。
猿山ではバナナを食え 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21
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