10.皇妃の爪痕と過去の遺物
その悩みは、なんと数日後に急展開を迎えた。
そのときの私は、いつもどおりラウレンツ様の執務室の掃除していた。それを終え、さて後片付けをして出ていこうかというとき、もう何度目か分からぬ視線をその姿に向けた。
「……ラウレンツ様」
「うん」
「……少しお休みになられては? 私の記憶が正しければ、今朝から前後左右十センチくらいしか動いていらっしゃいません」
「そうだね」
生返事で、やはり前後左右十センチ以上は動かない。
皇妃は追放されたもののその爪痕は深く残り、いまだに財政はあっぷあっぷ、油断すればいつ沈んでもおかしくない。上位の官職は穴だらけで、皇子はただでさえ朝から晩まで会議・会談・会食に追われる日々を過ごしているのに、歩きながら未決書類を確認しなければならないほど仕事を引き受ける羽目になってパンク寸前の有様。それが、かつて栄華を誇ったモンドハイン帝国の現状だった。
その現状を引き受ける皇子の生活は惨憺たるものだ。今朝だって「今日は久しぶりに何の予定もないから……」と聞いて、よかったですねと微笑みかけようとしたら「邪魔されずに仕事ができる」と続けられて固まった。現にラウレンツ様は、朝から水も飲まず、執務机で山のように書類を積み上げていっている。
仕事は回っているが、この人の生活は回っていない。ヴァレンから「あの皇子の寝室に明かりがともっているのを見たことがないな、夜な夜な徘徊でもしてるのか?」なんて小馬鹿にした密告を受け、他のメイドからも聞いたところ、ラウレンツ様の寝台のシーツにはいつも皺ひとつついていないことを知った。
頭にはもう一人の王子が浮かんだ。執務机とは名ばかりの立派な意匠をこらした机につき、インク汚れのほとんどない羽ペンを飾り、いつだってふんぞりかえって座っていた。一時期の私は、王子の仕事は立派な椅子に偉そうに座って美しく署名することなのだと思っていた。そのくらい、どこぞの王子は何もしていなかった。
その王子と足して2で割らねば、こちらの皇子は早晩倒れる。そう気付きはしたものの、既に
今だってそうだ。掃除中は埃も舞うから休憩をと進言したのに、生返事以外せず、執務机からてこでも動かない。掃除が終わった私が前に立っていても気にも留めない。もしかして気付いていないのではないだろうか?
「ロザリア、ちょうどいいところに掃除を終えてくれたんだが」
気付いていたどころか行動まで認識していたらしい。もしかすると金髪をかきわけるともうひとつくらい目が出てくるのかもしれない。
「この箱に入っている書類を財務卿補佐に届けてくれ」
「……承知しましたが、もしかしてラウレンツ様は備品の購入までご確認なさっているんですか?」
見るつもりはなかったが、一番上に載っている書類の内容は目に入ってしまう。しかもそれが「羽ペン ヴァイシュ商 10本」というどうでもいい内容となれば記憶にも残るというものだ。
「ああ。内務卿が元皇妃の叔父だったからね、いま空席なんだ。そうすると決済順としては内務卿補佐、私、財務卿補佐、私ということになる」
「財務卿も元皇妃の一族でいま空席だからラウレンツ様が代理なさっているということですね。ガバガバじゃありませんか」
内務卿が不正をしないための確認を財務卿が行うというのに、その内務卿と財務卿を兼務してどうする。癒着どころの騒ぎではない。
もちろん国を建てなおすために奔走しているラウレンツ様が不正を働くわけがないのだが、なるべく早く解消したほうがいいには違いない。
「大体、補佐は何のためにいるんですか? 卿が空席なら決裁権限があるのは彼らでしょう」
「まったくもってごもっともだ。しかし障害があってね、そこの奥に入っている書簡を見てほしい」
指さされた本棚に積んである書簡はなかなかボリュームがあった。開くと、宮殿統制規則と題され、ビッチリと細かい字が書き込まれている。
一体なにかと思ったら、各事項の決裁の要否に決裁担当官僚の役職に……と非常に事細かな規則が厳密に定められていた。宮殿の補修、備品の購入に人事まで、項目ごとにどこの誰の承認を得なければならないかが書かれている。王城で私がやらされていたことと同じ、なるほど読んで字のごとく、宮殿内のシステムを統制する規則だ。
「……こう言ってはなんですが、皇妃に蹂躙されていたにしてはずいぶんと健全なものが存在するんですね」
「二十年近く眠っていた書簡だよ」
なるほどどうりで紙が千切れそうなはず。そうして私が感心するうちにも、ラウレンツ様は淡々と手を動かす。
「元皇妃が色々と好き勝手にやってくれたお陰で、締めなければいけない部分が多すぎてね。その塩梅を調整することに時間を回せないでいる。その問題が最も分かりやすく顕れているのがそれで、何が問題かというと」
「財務状況が当時といまとで全く違うということですね」
この手の規則で必ず基準の一要素となるものは、金。不要な支出それすなわち浪費か不正ということで、常にその額に応じて財務卿だの皇帝だのの承認を得なければならないのは道理。しかし、例えば宮廷予算の0.0000001%に満たない物品の購入にまで財務卿が関与する必要があるかと言われればノーである。その程度なら最初から内務部門に予算として与えてその中で済ませてもらったほうがいい。慎重は牛歩と表裏一体なのだから。
「財産なんて増減があって当然のものですし、基準もある程度の幅をもって決めてあるもので、実際これもそうですよね。私の知っている帝国の規模ならこんなものかと思いますし、すごくきれいな規則だと思います。本来的には淡々とこれを運用しながら微調整していれば足りますよね」
なんなら、微調整をしなくても――少々事故は生じるかもしれないけれど――大事故につながるようなことはないはずだ。
しかし、財政が冗談抜きで半分沈んだモンドハイン帝国はそうではない。二十年前と同じことをしていては地中から脱出できない。
「いまの帝国がこれに従っていては、お金持ちの家が没落した後も当時の金銭感覚を忘れられずにやがて生活していけなくなるようなものです。だからこの規則は役立たずで、官僚が依る基準がなく、結局決裁担当に全部見せろとしわ寄せがいっているのですね」
で、その決裁担当という要職こそ元皇妃の親族だったせいで、ラウレンツ様自らその穴埋めをしなければならなくなっていると。理解して頷くと、ラウレンツ様は、そこで初めて顔を上げた。朝から飲まず食わずで働いているのに肌はもっちりなので、きっと遺伝子が仕事中毒者用であるに違いない。
「……なんでこの書簡の意味が分かった?」
「エーデンタール国で同じことをさせられていたので。この手の基準ってあるのが当たり前ですけど、裏で管理しないと無用の長物なんですよね。地味で面倒くさくて、しかも変更のたびに文句が出て、誰もやりたがらない不人気なお仕事だなあって……」
膨大な量のそれを流し読みしていると、ガタガタッと地響きに似た音がして跳び上がってしまった。……ラウレンツ様は両手を机について立ち上がり、そのエメラルドグリーンの目をかっぴらいていた。
「……今すぐメイドをやめてくれ」
「えっちょっと待ってくださいまだクビにしないでくださいというか私の何が悪かったんですか!?」
書簡を持ったまま愕然と立ち尽くす。いえ、確かに私はちょっとお喋りが過ぎますし、先日なんて今すぐどこぞのご令嬢と契約結婚なさったほうがよくないですかなんてとんでもない発言をかましたらしいし、面倒くさがりなところもありますが。
「私が四角い部屋を丸く掃くのは自室だけです!」
仕事はきちんとするタイプです、そう身を乗り出した、その両肩をガッシリと掴まれた。
「今すぐ俺の仕事を手伝ってくれ。今すぐ」
エメラルドグリーンの瞳は、今まで見たことないほど真剣そのものだった。
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