07.神獣と帝国皇子①


 夜半、廊下で人の動く気配がして目を開けた。じっと扉を見つめていると、カタ、と小さな物音がし――ただしこの部屋には入らず、外へ向かっていく。


 ロザリアが静かな寝息を立てていることを確認し、そっと扉に近寄った。匂いを嗅ぐが、既に誰もいない。どうやらこの部屋に用事があったわけではなさそうだ。


 様子を見に行きたいが、窓は自力では開けられない。扉はどうか、見上げれば、鍵にはかんぬきが使われているだけだった。扉に足をひっかけ、鼻で押しやると、コトンと床に落ちた。


 ロザリアは気付かず、眠ったままだ。お陰で扉を閉めるのも一苦労だった。


 廊下は暗く、誰もいない。しかし、匂いで誰がいたのかは分かる――あの皇子だ。


 怪しい。ロザリアは疑っていないようだが、あの皇子は人懐こく、そのくせ妙に鋭く、妙に油断ならないところがある。フンフンと鼻を鳴らしながら皇子の足跡をたどり……外殻塔に立っているのを見つけた。外套に包まって背中を半分壁に預け、西の空を眺めている。例のモンドブルク宮殿の方角だった。


 ただのオオカミ相手と思えばボロも出そう。フンフンとわざと鼻を鳴らしてやると――その手が素早く剣を掴んだ。


 冷ややかな目、隙のない動き……なんだ、やはりこちらが素じゃないか。フ、フ、ともう少し鼻を鳴らすと、こちらを凝視していたエメラルドの目から警戒の色が抜けた。


「……なんだ、ヴァレンか。驚かさないでくれ」


 驚かしたのだ。フンフンともう少し鼻を鳴らすと、その手は剣からも離れた。それどころか、腰の剣は石畳の上に置き、屈みこんで俺に目線を合わせるときた。私に噛み殺されるとは思わないのだろうか。


「どうした? 慣れないところだと眠れない?」


 ……もしかすると、武芸と話術に優れているだけで、中身は間抜けなのだろうか? フンフンと鼻を鳴らしながら小首を傾げ、少し可愛らしい仕草で近寄ってやる。


 エメラルド色の目がじっと見つめ返してくる。キュウ、と可愛い声も出してやった。


「……ヴァレン」


 あの王子の目は節穴だったが、お前は神獣と分かるか? であればまずは及第点をやろう。


「……俺も抱きしめてみてもいいかな?」


 調子に乗るなよ小僧!


「おっと、ごめんって」


 思わず叫びそうになったところを、寸でのところでカッと口だけ開けて堪えた。しかしそれで充分ではあった。皇子は諸手を挙げて降参の構えをとっている。ただ、さして怯えた様子がないというのが気に食わない。あの王子はちょっと牙を見せれば、文句を言うしか能のない口を閉じたものだ。


 フゥ、と皇子は溜息をつきながら、身体を外套で包みなおす。白い息が見え、その鼻の頭は赤いというのに、なぜこんな寒空の下、わざわざ外に出ているのか。やはりコイツ、ただの間抜けなのではないか?


「……眠れなくてね。いつものことだから、気にしないでくれ」


 体を冷やして眠れるものか。やはりお前、ただの間抜けなのではないか? 首を傾げてやると「ヴァレンは夜行性なの?」と頓珍漢な質問がきた。俺は夜に眠ることに対して疑問を呈したわけではない。


「やっぱり慣れない土地まで来たから落ち着かないんだろうね。それに悪かったね、ずっと馬車を走らせて、馬を変えるときくらいしか休憩もなくて。ロザリアも城の手入れまでしてくれて、疲れきってしまっていたんじゃないか」


 疲れていたし、こんな強行軍だとは想定していなかったが、寝室その他の設備が王城よりずっと良いので許してやろう。食後のロザリアは寝台にダイブしながら「こんなふかふかのベッドでヴァレンと寝たら天国じゃない!」なんてはしゃいでいたし、今なんて閂が落ちた音にも気づかぬほどに熟睡している。


「ロザリアにはああ言ったけど、さすがの俺も商人のふりをして他国に出入りする機会はかなり少なくなったからね。あまり長く宮殿を空けられるほど、まだ情勢は安定していない。ロザリアと出会ったのは僥倖だったけれど、逆に言えば想定外でもあったから、日程をずらすことはできなかったんだ」


 ロザリアは話したことはないが、帝国の内乱については渡り鳥から聞いたことがある。我儘放題の皇妃がいたということは、それを許すだけの暗愚の皇帝もいたということ。傍から見ていても、あまり気分のいい状態ではなかったようだ。それが、最近渡ってくる連中からは、以前ほど悪い話を聞かなくなった。


 だから、コイツがラウレンツ皇子と聞いて妙な予感はしたのだ。帝国の内乱を収めたということは、英雄か詐欺師かどちらかに違いないと。


 しかし、俺と違ってロザリアは文無し宿無し職無しの三無し状態では生きていけない。俺がいると住まう先の選択肢も少なく、部屋の内と外とに離れて暮らせばかえってその身が危険に晒されてしまう。


 であればとこの皇子の誘いに乗った。いざというときは私が抱えて逃げることもできようと。が……。


「ロザリアには言えないけれど、ヴィオラ公爵令嬢は俺達の上客だからね、今回もずいぶんしっかりと買い込んでくれて助かったよ。以前から贔屓にしてくれているから、今回はもう俺まで行かなくていいんじゃないかとも考えたんだけれど、アラリック殿下の好みは探っておきたくてね。復興間近の帝国が隣国との関係でこけるわけにはいかないし」


 でもヴィオラ公爵令嬢が婚約者になるとは驚いたなあ。探らせておいたけれど、王都から届いた手紙によればもう婚約発表もしたらしいよ。アラリック王子はいったいどんなつもりなんだろう。公爵家とのつながりを強化しておかなければならない事情があるのだろうか。そんなことをラウレンツ皇子はぼやいた。


 が、そんなことはどうでもいいのだ。じろりと、その間抜けな顔を睨みつけた。お前がどういうつもりでロザリアを雇うことにしたのか、建前でなく本音を聞かせろと言っているのだ。大体、私を見て犬呼ばわりとはなんだ、どこの馬鹿王子だ。お前の毛の色が私の目の色と同じというのも気に食わん、生意気だ。


「ところで、ロザリアはアラリック王子との婚約を解消されたことをそう気にしていないのかな? いや、気にしていないはずはないと思うんだけれど、それにしてはあまりにも元気がいいというか、働くのに邪魔にならないか程度しか気にしていないように見えるんだよね。でも、俺の記憶が正しければ、アラリック王子の婚約者が決まったのはもう12年、13年前だろう?」


 そのとおりだ、ロザリアが3歳の頃であったから13年前だ。お前は確か二十歳前だろう、当時は7歳かそこらであったというのに、ずいぶん正確な数字を出すものだな。やはりお前はあなどれん。


「十年以上も婚約していたから、ショックを受けていないはずがないと思うんだよね。だから俺も話題には出すまいと思うんだが、ロザリアは気にせず口にするし……。そもそも、アラリック殿下の婚約者が“神獣”の守護を受けているというのは常識なんだが……」


 ほらみろ、やはり分かっているではないか。しかしここで無視を決め込むのもわざとらしい、フッフッと嫌がらせに顔に鼻息を吹きかけてやると「……あったかいな」破顔した。鋭いのか鈍いのか、どちらかにしたらどうだ。


「とはいえ、エーデンタール国が加護を享受していないというのも明白だったからね。おそらく神獣の守護を受ける婚約者を手に入れたというのは虚勢、一種の外交政策に過ぎなかったんだろうと当時から考えられていたわけだが……ロザリアに使用人がいなかったこといい、そうやって十年以上利用されていたのか?」


 理由はまったく正しくないが、王家が利用を試みていたことは正しいな。うんうんと頷いてやった。


 が、ラウレンツ皇子は真剣な顔のまま、外套に顔を埋めながら続ける。


「神獣の話は虚偽だったとして、王家がどこの馬の骨とも分からない娘を婚約者にするとは考えにくい。それなら最初からヴィオラ公爵令嬢を婚約者にすればよかったわけだ、時期的にも数年待てばよかっただけだし。公爵家が虚言外交に噛みたがらず、いざとなれば切り捨てられる相手を選んだと考えれば納得できる側面もある。ただ、そうだとしたらロザリアとの婚約を破棄したことも引っかかる……なぜ謀殺しなかったのか。あえて野放しにしたということは、謀殺できない理由があったんじゃないか?」


 コイツ、エーデンタール国の王家をなかなかに買いかぶっているな。しかし見た目よりも考える頭はあるらしい。一周回って馬鹿という表現を聞いたことがあるが、この皇子はその類だろうか?


「事情は色々考えられるし、そうすると第二のアラリック王子がいつ出てきてもおかしくないな。仕事ぶり次第でもあるけれど、それは少々困る……。……商人は投資する者とはいえ、投資に失敗したくはないからね」


 じっと見つめていると、ラウレンツ皇子は作り笑いと一緒に最後の一言を付け加えた。


「……寒くないのか? そろそろロザリアの部屋に戻ってやれ」


 ぽんぽんと、どさくさに紛れて背中を叩かれた。


 言われなくともそのつもりだった。フン、と鼻を鳴らしながら、腰でぐいぐいとラウレンツ皇子を押しやる。


 暫定とはいえロザリアを雇入れるようだし、いい食事と宿も与えているし、お前が皇子であるお陰で警護も万全だから、この道中だけ特別だぞ。そう言ってやりたいのを我慢しながら、その足元に丸まってやった。


「……温めてくれるなら抱きしめさせてくれたっていいじゃないか」


 馬鹿め、調子に乗るな。後ろ足で蹴ってやると、呻き声まで間抜けだった。

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