1219 戯れ言

 衝動のままに支配人の部屋の扉を叩いた柚葉は、はたりと気がついた。

 一番、不気味だったのは支配人ではなかったか、と。

 庶民も名字を持つようになった世の中で、ホテルの支配人であるにも関わらず名乗りもしない。柚葉の素性も探らずに、女将になれと言う。

 仕事をしたくないという理由だけで片付けていいのだろうか。能天気な笑顔を信じていいのだろうか。勇気づけたのは、本心なのか意図したものなのか。

 考えれば考えるほど、深読みしてしまう。

 おや、と降ってきた声に、柚葉は振り返った。


「何か、ご用かな?」


 首を傾げてゆれた髪は湿っている。収まりのいい髪をゆるく結び、無精髭の黒い半纏姿の支配人は、袖で隠すように着替えを抱えていた。こうも寒いと朝風呂も入りたくないと子供みたいな言い訳をしながら階段を降り、柚葉の前に立つ。

 言い淀む姿が無垢なようで読めない瞳に映っていた。

 にこにこと言葉を待つ相手に降参した柚葉は口火を切る。


「宿泊帳をつけていないと聞いて……」

「必要ないでしょ」

「必要ないわけないですよね、捕まりますよ」


 柚葉の気迫に支配人の柔和な目が丸くなる。


昨今さっこんは、神様までしょっぴく時代になったのか」

「かみさま?」


 話が噛み合わない二人が見つめ合う。方や驚きを隠せない顔で、方や知らなかったのかと意外そうな顔で。


「言ってなかったっけ?」

「すっ」

「す」

「すっとぼけないでください! あたり前のようにおっしゃっていますけど、神様を相手にするお宿なんて聞いたことありません!」


 勢いのままに叫んだ声が反響するように余韻を残す。

 息が乱れたままの柚葉は、やってしまったと青ざめた。ここから追い出される。自分本意な絶望にぐちゃぐちゃの頭が冷えていく。

 ふむ、と朝風呂には入るのに無精髭は剃らない支配人が顎を撫でた。瞼を閉じ、苦悩の表情を浮かべるが、今日の晩御飯に悩んでいるような姿にしか見えない。片目だけを開けて、その瞳に柚葉を映す。


「神様を相手にする仕事はしたくないと?」


 首を切られると覚悟していた柚葉は情けなくもぽかんと口を開けてしまった。もしかしなくても、柚葉の希望をくもうとしているのだろうか。

 はは、と笑い声を上げた支配人が世間話をするようにちょいちょいと手を振る。


「偏屈な人を相手するのと変わらないのだから、やってみればいいじゃあないか。ほら、行くところに困ってるんだし、路頭に迷うのも、神様のホテルで働くのも、変わりはしないよ」


 歌うように紡がれた言葉が、柚葉を惑わす。

 すぐに取って食ったりするような輩はいないさ、と言葉が締めくくるのと柚葉の肩を叩くのは同時だった。



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