第5話 闇の記録
約束の朝九時。ゲバラは、いつもの診療所代わりの質屋の裏部屋で、ベトナム人のバンを待っていた。技能実習生たちの労災の相談—そのはずだった。
「遅いな」まちが、消毒液の準備をしながら呟く。
その時、外で物音が聞こえた。「先生!」バンの切迫した声。「急いで!」
扉が開く音と共に、血の匂いが流れ込んでくる。バンが、同僚の青年を支えていた。作業着は血に染まり、右手には深い裂傷。
「プレス機が...」バンの声が震える。「今朝、相談に来るって言ってた矢先に...」
「まち!」ゲバラの声が響く。「救急セットを!」
診察台に青年を寝かせながら、ゲバラは状況を把握していく。「会社は?」
「明日から来るな、って」バンが苦々しく答える。「労災申請は認めない。嫌なら、ベトナムに帰れって。これ以上は...他の仲間たちにも影響が...」
ゲバラは青年の傷を見つめる。縫合が必要な深い切り傷。だが、それより深いものが、この街の影に潜んでいる。
ゲバラは青年の傷を見つめる。縫合が必要な深い切り傷。だが、それより深いものが、この街の影に潜んでいる。
「先生...」まちが、声をかけようとした時、「待ってくれ」ゲバラは縫合の手を止めずに言った。「この傷跡を、しっかり写真に撮っておいてくれ」
首から下がるライカが、かすかに揺れる。記録を残すこと。それは医師として、そして...。
市場では、朝の喧噪が始まっていた。
「写真は、上手く撮れました」午後、まちはネガフィルムを広げて見せた。右手の裂傷、作業着の血痕、そして青年の疲れ切った表情。すべてが、明確に記録されている。
「でも、先生」まちが少し戸惑ったように言う。「スマホで撮った方が早くないですか?」
「スマホ?」ゲバラは首を傾げた。
「あ...」まちは、はっと気付いたように口元に手を当てる。「ガラケーも...お持ちじゃない?」
ゲバラはペケペケの店に向かった。修理の神様は、いつもの作業台に向かっている。
「おう」振り向きもせず、ペケペケが言う。「噂は聞いた。技能実習生の件やな」
「ああ」ゲバラはフィルムを差し出した。「これを...どこかに、届けられないだろうか」
ペケペケは作業の手を止め、ゆっくりとフィルムを覗き込んだ。
「新聞社は駄目や」彼は考え込むように言う。「すぐに揉み消される」
工具箱の奥を探りながら、彼は続けた。「今どき、証拠はデジタルの方がええ。動画も撮れるし」
古びたスマートフォンが、作業台の上に置かれる。
「修理したやつや。まただーれも取りに来ーへんかった」ペケペケは、意味ありげに微笑んだ。「使い方は、まちちゃんに教えてもらえ」
「しかし、これは...」
「心配すんな。プリペイドやから、誰にも追跡されへん」ペケペケは、また作業に戻りながら付け加えた。「この街には、もっと確実な情報網があるんや」
「まずはここを押して...」質屋の裏部屋で、まちがスマートフォンの使い方を教えている。ゲバラの指が、おそるおそるスクリーンに触れる。
「銃の引き金より、難しいな」ゲバラが思わずつぶやく。
「え?」まちの手が止まる。
「いや、なんでもない」ゲバラは、慌てて話を逸らす。「カメラの機能は?」
まちがアプリを起動すると、画面に部屋の様子が映し出された。鮮明な映像に、ゲバラは目を見張る。
「ライカも捨てがたいが...確かにこれは便利だ」
「でしょう? それに動画も...」
その時、外から物音が聞こえた。バンが、また別の実習生を連れてきたのだ。今度は肩を痛めている様子。
「会社が、様子見ろって...」実習生が、震える声で説明を始める。
ゲバラは無意識のうちに、スマートフォンのカメラを向けていた。静止画、音声、動画—。すべてが記録される。
「先生」診察が終わり、実習生たちが帰った後、まちが声をかけた。「この記録は、どうするんですか?」
「ペケペケが言っていた」ゲバラは、新しい機械を見つめながら答える。「この街には、情報網があるそうだ」
「ああ...」まちの顔が明るくなる。「たこ焼き屋の親父さんとか、八百屋のおっちゃんとか、市場のみんなのことですね」
「みんな?」
「この街じゃ、誰もが誰かを見てるんです。でも、それは監視じゃなくて...」
「守るために、か」ゲバラの目が、かすかに輝いた。かつての革命とは違う、新しい連帯の形が、ここにはある。
夜の六号室。ゲバラは診療記録とスマートフォンの映像を見つめていた。
「これだけじゃ、足りない」つぶやきが、暗い部屋に沈む。
密林での日々を思い出していた。あの頃は、単純だった。銃を手に、敵は誰で、何をすべきかも明確だった。
「先生」まちのノックの音が、考えを遮った。
「実は、話したいことが...」彼女は、いつになく真剣な表情で部屋に入ってきた。「この街ではね、みんな知ってたんです。実習生の子らのこと」
「知っていた?」
「でも、どうしようもなくて。証拠も残せないし、声を上げても...」まちは言葉を探すように続ける。「よその医者は、話を聞いてくれない。労災かどうかの診断すら...」
「だが」ゲバラは机の上の記録を見つめる。「なぜ私に?」
「先生は違った」まちが静かに言う。「診察して、記録を残して、そして...決して見て見ぬふりをしない」
部屋が静かになる。
「それに...」まちは少し躊躇いがちに続けた。「先生が写真を撮り始めてから、たこ焼き屋の親父さんも、立ち飲み屋の大将も、少しずつ変わり始めて」
「変わり始めた?」
「みんな、スマホで撮り始めたんです。おかしなことを見かけたら」まちの声が明るくなる。「若い子らも、LINEで情報網に加わって」
ゲバラは黙って聞いていた。かつての革命とは違う。しかし、確かに何かが動き出している。
「先生」まちが、今度はゲバラのスマホでLINEを開いた。「この街には、ずっと情報はあったんです。でも、それを『記録』に変える人が、必要だった」
窓の外では、又吉のギターが、いつもの場所で鳴っていた。ただし今夜は、その音が、どこか希望を帯びているように聞こえた。
次の日の夕暮れ時、市場に見慣れない車が止まった。スーツ姿の男たちが、あちこちで写真を見せている。
「先生」魚屋の大将が、氷を削りながらさり気なく言う。「工場の連中が、動き始めたみたいですわ」
「あちこちで、身元を探ってるって」八百屋も、客に大根を渡しながら、自然な声で続けた。
ゲバラは無言で頷く。かつてなら、これは戦いの始まりを告げる前触れだった。
「先生」帰り道、まちが心配そうに声をかける。「診療所、しばらく場所を変えた方が...」
その時、ペケペケの店から、又吉が出てきた。「違うんや」彼は、珍しく真剣な面持ちで言った。「逃げたらあかん」
「でも...」まちが言いかける。
「記録は、もう街中にある」又吉は静かに続けた。「先生が教えてくれたんや。見て見ぬふりをせんでええって」
ゲバラは、首からぶら下がるスマートフォンに手を触れた。ライカと同じように、これも今は武器なのかもしれない。
「やはり」彼はつぶやいた。「ただの医者には、結局なれそうにない」
「先生は」まちが、微かな笑みを浮かべる。「最初から、ただの医者じゃなかったでしょう?」明日から、この街で何かが始まろうとしていた。
(5話・終)
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