第4話 噂と秘密
「なあ」
三角公園近くの定食屋で、常連の日雇い労働者が箸を置いた。
「あの先生って、革命家やって?」
「アホ」
隣席の古参が煙草の煙を吐く。
「そんなん、とっくに死んでるやろ」
「でも、ようけ似てまっせ」
カウンターの男が振り返る。
「あの髭と目つき。Tシャツとそっくりや」
「まあ、ようわからんけどな」
定食屋のおかみが、どでかいおでんの鍋をかき混ぜながら言う。
「ようけイケメンなんは確かや」
「おかん!」
息子が苦笑する。
「なんや」
おかみは息子を睨みつける。
「この街はみんな脛に傷負うたやつばかりや。素性なんてどうでもええ」
「そやそや」
古参が頷く。
「先生、ワシの咳、ようみてくれたで。病院行っても、薬だけ渡されて終わりやったのに」
その時、店の戸が開いた。
例の髭面の医師が、今日も古いカメラを首から下げ、医療器具の鞄を持って立っている。
「おう、先生!」
おかみが声を張り上げる。
「今日はおでんあるで!」
後ろから覗き込んでいたまちの目が、何かを見透かすように、しかし優しく微笑んでいた。
簡易診療所と化した質屋の裏部屋。
まちが黙々と医療器具を消毒している。
「先生」
彼女は、少し躊躇いがちに切り出した。
「気になることが...」
ゲバラは聴診器を首にかけたまま、振り向く。
「そもそも...医師免許は」
「ああ」
ゲバラは医療鞄を開け、古びた革の財布を取り出した。
中から出てきたのは、黄ばんだ免許証。
アルゼンチン国立大学医学部...。
まちの目が見開かれる。
「やっぱり...」
彼女の声が震える。
「本物...なんですね」
「まあ」
ゲバラは苦笑する。
「アルゼンチンの免許が日本で通用するかは...」
「でも、先生の腕は確か」
まちは言葉を継ぐ。
「それに、この街では...」
「ああ」
ゲバラは窓の外を見やる。
「この街では、それで十分なのかもしれないな」
静寂が流れる。
「あの...」
まちが、また声を絞り出す。
「キューバは...今」
「知っているのか?」
「少しだけ」
まちは慎重に言葉を選ぶ。
「カストロさんは、最近亡くなって。」
「フィデルが...」
ゲバラの声が掠れる。
昔の戦友の死。
知らないままだった歳月。
「でも、まだ社会主義は続いてるみたいです。は弟さんが跡を継いで…」
まちは急いで付け加えた。
「私、詳しくないんですけど...」
「そうか、ラウルが…」
外から三輪車の音が聞こえてくる。
市場の日常が、静かに流れていく。
「先生の秘密は...守ります」
まちは、診療器具を片付けながら言った。
ゲバラは黙って頷いた。
若い彼女の中にある、確かな倫理。
それは、この街が育んだものなのかもしれない。
「フィデルが死んだ...か」
ゲバラは、つぶやくように繰り返した。
診療の合間。裏部屋の窓から、夕暮れの市場が見える。
魚屋の氷が溶け、八百屋の声も遠のいていく。
「先生」
医療器具を片付けながら、まちが静かに尋ねた。
「後悔は...ありますか?」
「後悔?」
ゲバラは、窓際の埃っぽい棚に目をやる。
缶の中に、飴が詰まっていた。
先程の患者の一人が、礼だといって置いていったものだ。
「いや...後悔というより」
言葉を探るように、ゲバラは髭を撫でる。
「ただ、知りたいんだ。私たちの戦いは、本当に人々を幸せにできたのか」
「でも、先生」
まちは、消毒液の香りが漂う手を止めた。
「今だって、戦ってますよね」
「ん?」
「包帯一本でも。誰かの、その日の痛みを和らげる。それも、立派な戦いやと思います」
外で三輪車が通り過ぎる。
商店街のシャッターが下りる音。
そして誰かの咳。
「そうだな」
ゲバラは、医療鞄に手を伸ばした。
「まだ今日も、診察が必要な人がいる」
夜の六号室。
ペケペケが直してくれたギターを手に、ゲバラは静かに弦を爪弾く。
まだぎこちない音が、古びた壁に響く。
「へたくそは、相変わらずやな」
隣室から、又吉の声が漏れてくる。
「医者は医者らしく、か」
ゲバラは自嘲気味に笑う。
学生時代、医学の勉強に追われ、友人たちの音楽の輪から少しずつ距離を置いていった記憶が蘇る。
「先生、これ」
廊下から、まちが差し入れを持ってきた。
温かいお茶と、市場で買ったらしい煮物。
「ところで」
まちが、ギターに目を向ける。
「学生時代は、どんな曲を?」
「ああ...」
ゲバラは、不器用な指で弦を押さえる。
「友人たちが『アギーレ』なんて歌をよく...」
「知らない曲ですね」
「アルゼンチンの民謡だ。貧しい農民の歌」
そう言いながら、ゲバラは昔を思い出すように目を細める。
「若かった。医学も、音楽も、革命も、すべてが...」
言葉が途切れる。
夜の静けさの中、どこかで誰かのギターが聞こえてくる。
おそらく又吉だ。
「先生」
まちが、お茶を置きながら言う。
「明日も、診療、手伝わせてもらっていいですか?」
まちが帰った後も、ゲバラは窓辺に座り続けていた。
ギターを膝に置き、街を見下ろす。
路地の奥で、警察のパトロールライトが光る。
ドヤ街の片隅では、誰かがダンボールの家を作っている。
そして遠く、新今宮のネオンが、夜空を染めている。
「おい、先生」
又吉の声が、壁越しに届く。
「明日、労災の相談が来るって。技能実習生の子らが」
ゲバラは黙って頷く。
この街には、まだ見ぬ戦場が広がっている。
「先生」
又吉が続ける。
「あんた、この街で何と戦うつもりなんや」
「戦うのは」
ゲバラは静かに答えた。
「もう、疲れたはずなんだが」
ギターの弦が、かすかに震える。
「だがな」
彼は立ち上がり、医療鞄を手に取る。
「人の痛みを見過ごすことは、私にはできない」
その目は、かつてシエラマエストラの密林で、キューバの農民たちを見つめた時と同じ輝きを持っていた。
夜空に、市場の鐘が鳴る。
新しい日の始まりを告げるように。
(第四章・終)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます