第2話 不協和音

早朝のアパートに、不協和音が響く。


「あかん、あかん」

又吉の声が壁越しに漏れてきた。診察と薬が効いたのか、声にハリがある。

「その音は、もう救いようがない」


「ギターが...悪いのかもしれんな」

ゲバラは苦笑しながら手を止めた。昨夜から練習を始めたものの、どうにも調子が合わない。


「悪いんは、ギターだけやないで」

廊下から突然、声が響いた。


振り向くと、二十歳前後の女性が、腕組みをして立っていた。質屋の看板と同じ「田中」の文字が刺繍された白衣のような作業着。髪は短く、目は意地悪っぽく笑っている。


「あんた、新しい住人はんか?」


「ああ」

ゲバラは頷いた。

「君は...」


「田中まちや」

彼女は軽快な関西弁で言った。

「下の質屋の娘。看護学校行きながら、店番手伝ってんねん」


又吉が部屋から顔を出した。

「おう、まちちゃん。朝早いな」


「実習があんねん。でもそれより...」

まちは、ゲバラの手にしたギターを指さした。

「そのガラクタ、ペケペケのとこ連れてってあげな、もう演奏できへんで。親父もケチやな。診察代の代わりとか言うて」


「ペケペケ...」

ゲバラは首を傾げた。


「修理の神様や」

まちが説明する。

「腕はええけど、ちょっと変わってんねん。でも、うちのんとこの常連やし...」


「案内してくれるのか?」


「しゃあないな」

まちはため息をつきながら、しかし目は笑っていた。

「どうせ実習まで時間あるし。それに...」


彼女は意味ありげに又吉の方を見た。

「この人、医者なんやろ? 話、あんねん」


朝もやの中、まちは軽快に歩を進めていく。ゲバラはギターを抱え、彼女の後を追った。


「うち、看護学校でな、実習始まってんけど」

市場の脇道に入りながら、まちが話し始めた。

「おっちゃんたちのこと、気になんねん」


通りがかりの八百屋が「まっちゃん、おはよ」と声をかける。魚屋の主人も軽く手を上げた。彼女の存在が、この街に深く根付いているのが分かる。


「特に、あそこ...」

まちは、路地の隅でうずくまる男性を顎でしゃくった。

「糖尿の薬、切れてるみたいなんよ」


ゲバラは足を止めた。医師としての職業病か、自然と男性の顔色が気になる。


「アカントーシスがあるな。2型の症状だ。あとで、診させてもらおう」


「...やっぱり、ほんまの医者なんや」

まちが、初めて真剣な表情を見せた。

「父ちゃんが言うてた通りや」


路地を曲がると、古い木造の建物が現れた。「修理」の2文字が、色褪せた看板に踊る。


「着いたで。ペケペケはん、おるかな...」


まちがドアを開けようとした時、中から若者たちが何人か出てきた。ベトナム人らしき青年も混じっている。手に持っているのは、それぞれ楽器のケース。


「あ、まっちゃん」

若者の一人が会釈する。

「今日も練習させてもろてん」


「ああ、気ぃつけて。今日は暑なりそうやで」

まちの声には、さりげない気遣いが混ざっている。


若者たちが去った後、まちはゲバラに説明した。

「日雇いの子らや。仕事の前に、ここで音楽やってんねん。ペケペケはんが場所を貸してくれてんで」


「音楽を?」


「そう。ベトナムの子も交ざって、すごい音やねん。でも...」

まちは言葉を濁した。


ドアの向こうから、渋い声が響いた。

「おう、まっちゃんか。珍しい朝やな」


店内は、オイルの香りに満ちていた。


古びたギターやベースが壁に並び、作業台には工具が整然と並べられている。奥から現れた男は、六十がらみ。痩せぎすの体つきで、カーキ色の作業着はところどころヤスリの跡が光っていた。


「ペケペケはん、この人が...」


「ああ」

ペケペケは、ゲバラを一瞥しただけで作業台に向かった。

「田中さんとこの新しい住人さんやな。噂は聞いてる」


その素っ気ない態度に、まちは慌てて取り繕う。

「あの、ギターを見てもらいたいんです。父ちゃんとこの...」


「置いてってくれたらええ」

ペケペケは振り向きもせず、手元の弦を見つめている。

「診るだけなら、金はいらん」


「すみません」

ゲバラが一歩前に出た。

「少し、見せてもらえませんか。どこがどう悪いのか」


その言葉に、ペケペケの手が一瞬止まった。


「へえ」

やっと振り向いた目が、ゲバラをじっと見据える。

「患者の症状を知りたいと」


「まあ...そんなところです」


「ほう」

ペケペケの表情が、僅かに緩んだ。

「医者は医者なりの見方があるんやな」


まちは、二人の会話を興味深そうに見守っていた。


ゲバラがギターを差し出すと、ペケペケは大切そうに受け取った。その手つきは、まるで傷ついた生き物を扱うかのよう。


「ふむ...」

ペケペケの指が、ギターのあちこちを這う。

「弦が錆びてるのはともかくとして、ブリッジの接着が甘い。ネックも反っとる。弦高も高すぎる」


診断を下すその口調は、どこか医師のようでもあった。


「だが、音は...」

ペケペケが軽く弦を弾く。

「音は、まだ生きかえりそうや」


その時、店の奥から物音が聞こえた。

カーテンの向こうで、誰かが咳き込んでいる。


「あ」

まちが小さく声を上げる。

「あかん、もう時間...実習、遅れる」


「行っておいで」

ペケペケは作業台に戻りながら言った。

「先生は、ここに残ってもらうわ」


まちが去った後、店内は静かになった。


「診てあげたほうがええで」

ペケペケは、作業台に向かったまま言った。

「奥の彼、具合が悪そうや」


ゲバラは無言で頷き、カーテンの向こうへと歩を進めた。


そこは狭い休憩所だった。古いソファに、若い男が横たわっている。さっき出て行った若者たちの仲間らしい。顔は蒼白で、息遣いが荒い。


「昨日から熱があるんです」

横にいた別の青年が、ベトナム語なまりの日本語で説明する。

「でも、病院には...」


「分かっています」

ゲバラは医療器具の入った鞄を開けながら答えた。

いつの間にか、持ち歩くようになっていた。


診察を始めると、作業の音が聞こえてきた。ペケペケが、ゲバラのギターの調整を始めたようだ。


「扁桃腺の腫れですね。抗生剤が必要かもしれません」

ゲバラが告げると、青年たちの表情が曇る。

「大丈夫、なんとかしましょう」


「先生」

ペケペケの声が、カーテン越しに響く。

「裏の棚や。青い箱」


ゲバラが指示された棚を開けると、医療品の箱が並んでいた。

使用期限は十分残っている。どこかの診療所から、こっそり回されたものだろう。


「なんでも直すんです?」

ゲバラが尋ねる。


「壊れたもんは、なんでも」

ペケペケの声には、どこか意味ありげな響きがあった。


作業台では、ギターが分解され、それぞれの部品が丁寧に並べられている。まるで手術前の準備のように。


「先生の腕は確かや」

ペケペケが、ギターのネックを磨きながら言った。

「この街には、そういう人が必要なんや」


抗生剤を投与し終えた時、ベトナム人の青年が、じっとゲバラの顔を見つめているのに気がついた。


「先生は...」

青年は躊躇いがちに言葉を紡ぐ。

「どこかで見たような...」


一瞬の静寂。

作業台のペケペケの手が、僅かに止まった。


「祖父が持っている写真に...似ている人が」

青年は続ける。

「ハノイの古い病院で、革命家の...」


言葉が宙に浮く。それ以上は口にできないような、不思議な空気が流れた。


「バン」

具合の悪い若者が、友人の名を呼ぶ。

「何を言ってるんだ。それは何十年も前の...」


「私は医者です」

ゲバラは静かに言った。

「今は、ただの医者」


「薬を飲んだら休みなさい」

ゲバラは処方した薬を確認しながら言う。

「明日も来ます」


カーテンの外に戻ると、ペケペケが黙々とギターの調整を続けていた。


「人の目ってのは」

ペケペケは作業の手を止めずに言った。

「不思議なもんや。時々、とんでもない空想を見せることがある」


一呼吸置いて、付け加えた。

「ただ、その手が何を生み出すかだけが、大事なんや」


夕暮れが近づく頃、ペケペケはようやくギターの調整を終えた。


「はい」

差し出されたギターは、まるで新品のように輝いている。

「音を出してみ」


ゲバラが恐る恐る弦を掻き鳴らすと、澄んだ音が店内に響いた。先ほどまでの濁った音が嘘のように。


「ほう」

ペケペケが目を細める。

「指の動きは、医者やな」


「昔から、そう言われます」

ゲバラは少し照れたように笑った。


「明日も来るんやろ?」

ペケペケは作業台を片付けながら言う。

「あの子の様子を診に」


「ええ」


「なら、ついでにギターの稽古でもしたら」

何気ない口調で告げる。

「どうせ、朝早くから若い衆が集まってくる。医者が一人おれば、安心やし」


ゲバラは黙って頷いた。

診療所代わりの楽器修理店。

そこに集まる日雇いの若者たち。

そして、どこか懐かしい革命の影を見た青年。


「あ」

ペケペケが、何かを思い出したように立ち上がる。

「そうそう。先生の首から下がってるカメラ」


「ライカですか?」


「シャッターの動きが渋いやろ。あれも、直してあげよか」


帰り道、夕陽に染まる市場を歩きながら、ゲバラは考えていた。

この街で、自分は何を「修理」できるのだろうか。

人の体も、楽器も、カメラも、そして...心も。


(第二章・終)

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