第1話 錆びついたギター

朝靄の中、三角公園に人影が集まり始めていた。


ゲバラは古びたベンチに腰掛け、ファインダー越しに光景を追っていた。オーバーコートを着た男たちが、黙々と並んでいく。手配師の姿も見える。今日も仕事を求める人々の列が、静かに形作られていく。


不思議なことに、周りの会話が耳に入ってくる。目覚めた時から、日本語が自然と理解できた。まるで革命のために与えられた新たな武器のように。


「ご苦労さんだねえ」


振り向くと、段ボールの上で毛布にくるまった老人が、彼を見上げていた。


「あんた、取材のカメラマンかい?所属は?」


「いや、医者だ」


老人は、ゲバラのボロボロの服装を眺め、小さく笑った。「へえ...医者にしちゃあ、随分とみすぼらしいねえ。どっかの病院、首になったのかい?」


「ああ、まあ...長い物語だ」自分でも説明のつかない状況を、どう説明すればいいものか。


その時、列の中から悲鳴が上がった。


「おい、誰か! 具合が悪いんだ!」


ゲバラの体が、反射的に動いた。倒れかけた男を支え、脈を確認する。意識はあるが、顔色が悪い。


「低血糖の可能性が高いな。誰か砂糖水を...」


「おい、そのボロ服の先生、本物かい?」誰かが声を上げる。しかし、ゲバラの手際の良さに、疑いの声はすぐに消えた。誰かが清涼飲料水を差し出す。


「いつ食事を?」


「昨日の...昼」


典型的な低血糖だ。幸い、重症ではない。


処置を終えると、群衆は自然と散っていった。残されたのは、お礼を言う男と、まだ段ボールの上にいる老人だけ。


「へえ、本物の医者じゃないか。見た目は浮浪者そのものなのによ」老人が感心したように呟く。「山王市場の近くに、具合の悪い連中が溜まってる。誰も診てくれる人はいないんだ。あんた、病院をクビになったんだろ。ちょっと行ってやってくれないか」


ゲバラは黙って頷いた。カメラをしまい、医療器具の入った鞄を持ち直す。キューバの密林で医療活動をしていた頃を思い出していた。


市場への路地を曲がると、かすかにギターの音が漂ってきた。


「又吉さんだ」田島の声が暗く沈む。「あの質屋の二階に住んでる。昔は学生運動なんかもやってた人でね。今じゃこの市場の名物さ」


石畳の路地を進むと、質屋「田中商店」の軒先が見えてきた。錆びた看板と、曇りかけたショーウィンドウ。その前で、痩せこけた男がギターを抱えていた。


時折、通りがかりの客が足を止める。誰もが又吉の存在を知っているように見えた。市場の八百屋が茶の入った紙コップを差し出し、魚屋が心配そうに首を傾げる。


又吉が再び演奏を始める。かつての学生運動で歌われた歌だ。


ゲバラは、その姿に見入っていた。ボロボロのギターから紡ぎ出される音色に、かつてキューバの密林で、仲間たちと歌った記憶が重なる。


しかし演奏は長く続かなかった。又吉は再び咳き込み、壁にもたれかかった。


「又吉!」質屋の店員が駆け寄ろうとする。


「大丈夫...大丈夫だ...」又吉は苦しそうに手を振った。その指は、まだギターの弦を離そうとしない。


「又吉、医者を連れて来たよ」田島が声をかける。


痩せこけた顔が、ゆっくりとゲバラの方を向いた。目つきは鋭く、その眼差しには若き日の闘志がまだ残っているようだった。


「随分と...変わった医者だね」又吉が言う。その声には、皮肉と好奇心が混ざっていた。


「昔から変わり者と言われてきてね」ゲバラは又吉の背中に聴診器を当てた。呼吸音に混じる異常な音。体温は微かに上がっている。


「深く息を吸ってください」


又吉が言われた通りにすると、またしても咳が込み上げてきた。首筋の血管が浮き上がり、手の甲に玉のような汗が滲む。


市場を行き交う人々が、心配そうに足を止める。魚屋の大将が氷の入ったビニール袋を差し出してきた。


「先生、あんた...」咳が治まると、又吉が尋ねた。「どっかの病院の先生かい?」


「ああ、まあ」ゲバラは曖昧に答えながら、又吉の手首を取る。「昔は、もっと劣悪な環境で診療していたがね」


「へえ...」又吉は興味深そうに、ゲバラの無骨な手を見つめた。


「結核の初期症状です」診察を終えたゲバラが説明する。「今なら、まだ十分に治療できる。だが...」


言葉を濁す必要はなかった。この先どうなるか、誰の目にも明らかだった。


「金なんかないよ」又吉は諦めたように笑う。ギターを抱く手に力が入る。「入院なんてしてたまるもんか...ここで、歌い続けないと」


沈黙が流れる。


「せめて、薬は...」ゲバラが言いかけると、又吉が首を振る。


ゲバラは言う。「金がないなら、しばらくは私が見よう。ただ、薬は絶対に必要だ」


先ほどの店員が、近づいてきた。「ああ、そのくらいの治療費なら、私が建て替えよう」


「もういい。田中さんにはもう十分世話になってる」


その時、又吉が再びギターを手に取った。しかし今度は演奏せず、ただ愛おしそうに弦を撫でている。


「先生は...音楽はやらないのかい?」又吉の問いに、ゲバラは一瞬たじろいだ。「さっきから、このギターをじっと見てたけど」


「ああ...」ゲバラは懐かしむような表情を浮かべた。「学生時代に少しだけ触れたことがある。医学部の仲間とね」


「へえ、学生時代かい」又吉の目が輝いた。「僕らと同じだ。どんな曲を?」


「簡単なフォークソングだけさ。医学の勉強が忙しくて、長くは続かなかった」ゲバラは少し自嘲気味に笑う。「君たちのように、音楽と理想を追い続ける勇気はなかったよ」


「理想か...」又吉は遠くを見るような目をした。「結局、僕らも夢破れて、こんな有様さ」


「いや」田中が静かな声で遮った。「お前は歌い続けただろう。今でも、この街の人たちを励ましてる」


又吉は黙ってギターを見つめた。その手の震えは、病のせいだけではないようだった。


「先生、音楽ってのはね」又吉がゆっくりと言葉を紡ぐ。「いつでも始められる。この街では誰もが何かを始めなおしてるんだ。私なんか、毎日が始めなおしさ」


夕陽が市場の屋根を赤く染めていく。魚屋の氷が溶け、八百屋の声も遠のいていた。


「そうだ」田中が、何かを思い出したように立ち上がった。「先生、ちょっと店の中まで」


質屋の中は、夕暮れの光が埃っぽく差し込んでいた。所狭しと並ぶ品々—古い家電、使い込まれた工具、色褪せた着物。それぞれが、誰かの人生の断片のように見える。


「又吉の薬は、こっちでなんとかしておくよ。先生は診療を続けてやってくれないか」


田中は奥の棚から、黒ずんだギターケースを取り出した。パチンと留め金を外す音が、静かな店内に響く。


「三年前に若い子が置いてったきり。もう誰も見向きもせん」


中から現れたのは、古いヤマハのフォークギター。表面には無数の傷。弦は錆び、ブリッジの接着も怪しい。


ゲバラは黙ってギターを見つめていた。


「ところで」田中は話題を変えた。「先生、泊まる場所は決まってるのか?その身なりじゃ、家もないんだろ?」


「ああ、まだなにも...」


「なら、うちの二階はどうだ。又吉の隣の六号室が空いてる」


又吉が店の入り口から顔を覗かせた。「六号室か。風呂場に近いよ、先生」


「私には、そんな金は...」


「余裕も何も」田中は手を振った。「又吉の主治医ってことで、しばらくは家賃のことは考えなくていい。それと...」


田中はギターケースを指さした。「これも、今回の診察代ってことで。どうだ?」


「でも、私のような腕では...」


「腕なんて関係ない」又吉が言った。「大事なのは、なにかを始めたいって思う気持ちさ」


夜の帳が降りかかる質屋で、三人の会話が続いていた。表では市場の喧噪が徐々に遠ざかっていく。


(続く)

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