第7話 訓練に差し入れを持って行きましょう
翌日の放課後
結論から言えば、ドレスの衣装合わせは予定通り行われたが、取り立てて何か驚くようなことは起きず、ただただ穏やかに終わった。
なぜなら、アレキサンダーが終始無言で、さらに夕方から発熱して寝込んだからだった。
簡単に説明すると、大好きな嫁が長年温め続けた自分の理想を詰め込んだドレスを仮縫いとはいえ身に纏ってくれたことにより、アレキサンダーの情緒が爆発して語彙を失った。併せて、店の者たちが屋敷を去った直後、あまりのときめきが知恵熱を呼び、早々に就寝したというわけだ。ロアナが、そんなにドレスが似合っていなかったのかと泣きそうになっていたところ、アレキサンダー付きの使用人が全てを詳らかに説明した。念を押すように、屋敷中の使用人が入れ替わり立ち替わり、ここ半年のアレキサンダーの奇行もといロアナへの献身を語って聞かせた。アレキサンダーは寝ている間にロアナの誤解が解けたのだが、結果その最愛の妻からちょっとだけ引かれたことはいまだ知らずにいる。
そういった事態になったので、自分の婿が明日からの訓練で使いものにならないのではと本気で心配になったため、ロアナは念のため久しぶりに王都の屋敷で一泊することを決めた。屋敷の電話から寮へ直接電話をかけて、寮母に初めて外泊の許可を取った。
そうして翌朝、アレキサンダーはすっかり熱が下がり、元気に訓練に向かうのを玄関から見送ってから、学園へ登校したのだった。
問題は、ここからである。
この予期せぬ愛妻からの初めての朝のお見送りに、いつもの三十倍くらい訓練に身の入ったアレキサンダーは、先輩たちから一目置かれるようになる。
それを、イザベラが城に文官として勤める恋人経由で聞き、それを聞かされたロアナがまた思っていたのと違う結果になったと困惑することとなった(念を押しておきたいのが、ここまで実質四日分の結婚?生活である)
つまり、ここにきてまたアレキサンダーの人気が上がったのだ。意味もなく肩にぶつかってくる女生徒の多さに、ロアナは辟易していた。もう両肩の角が取れていると思った。
「あいつ……学園にいないのに、存在感がすごい。訓練に参加してもう一週間経つのに、みんながあいつの訓練での活躍ぶりを噂してるって侮れないわぁ……専用の広報誌とかファンクラブでもあるんじゃないの?」
「やめてよ……寮部屋で話しましょう、約束したでしょう?」
「そうだった……ごめん」
「いいのよ、私も悪いわ」
二人で疲れたように微笑みあい、授業の合間の僅かな休憩時間を過ごす。
四時間目の授業の教科書を机の上に出し、イザベラと課題の確認をしていると、数日前の何の変哲もない日常を取り戻した気がした。もうこうやって友達やクラスメイトたちと過ごすことがなくなるのか、と一瞬の物悲しさ感じていたあの日常。みんな、それぞれ違う場所で違う未来を追いかける。こうやって、全員で黒板を見つめることはもう無いだろう。八年間過ごした教室や寮部屋ともお別れだ、そう月並みにそう寂しがっていた。
それを突如なんの前触れもなくぶち壊したのは、いつも遠くから眺めていた人物だった。
ロアナは、こんなことが起きるまで、まるで肖像画を眺めるような気持ちでアレキサンダーを眺めていた。所詮、美しい絵が現実になることはない。そういう気持ちで他人事のように婚約の話も考えていた。
まさか、卒業式も霞むような、さらに言えば今までの八年間の学園生活を塗り替えんばかりの衝撃に、身を震わせるなど思いもしていなかったのだ。
そのはずなのに……律儀に今まで『好きな人』を作らなかったのは、きっとそのありえない衝撃を心のどこかで、ちょっぴり期待していたからなのかもしれない。そうロアナは振り返って、十歳の頃にこの婚約を初めて聞かされた時の自分を思い出した。
『それは……好きになってもいい人、ということですか?』
甘えることを諦めた幼い自分が、『婚約』という『契約関係』に安心しようとした。
自分の『好きという気持ち』を困らないで受け取ってくれる人ができる。
それだけで安心した、なぜなら目の前の『大好きな両親』にはもう甘えることができなかったから。
『これは形ばかりの契約関係だから……そこに気持ちまで求めるのは、まだ早いかもしれないね』
『そうですか……』
幼いロアナは、父親の苦笑にひどく傷付いた。なぜだか、「お前の好意なんかいらない」と大好きな父に拒絶されたような気持ちになったからだった。思わず俯いて顔を隠し、この婚約にさして興味が無くなったように振る舞った。ロアナは必死でこの間マナー講師に何度も注意を受けた『動揺を表に出してはいけません』という言葉を思い出し、今がその時なのだと口の内側を噛み締めた。
その時、ドゴっと変な音がして思わず顔を上げると、それと同時に母に真正面から抱きしめられていた。息が苦しいほどに力を込めてきたが、なぜか抗議する気は起きなかった。
(今のは旦那様が悪いです)
(そうだな……鼻血出てないかだけ教えてくれ?)
近くで老執事のロバートと父がコソコソと話していたが、母がずっと無言で抱きしめてくるので顔を見れなかった。ごめんね大好きよ、そう言って抱きしめ続ける母の方が泣いていたから、ロアナは泣くに泣けなくってしまった。素直に好きだと言えない自分が悪いのだろう、好きだと言って欲しいとねだれない自分が臆病なのだろう、そう自分に言い聞かせて過ごすうちに……ロアナは、『好き』という言葉を持て余した。
そんなふうに長年拗らせたロアナの持て余したものを、なんの遠慮もなく全て掻っ攫っていったのが、アレキサンダーのあの日の『俺の嫁』という言葉だった。
「……私、この学園に通えて良かったわ」
ポツリとそう微笑んだロアナに、イザベラも微笑んだ。
四時間目も無事に終わり、二人は昼食を摂りにランチルームへ向かった。明日から週末ということもあって昼のランチルームはいつも以上に賑わっており、いつもの特別席に尊い人たちがいないのもあって皆話し声が少し大きくなっているようだった。あちらこちらから、また色々な噂話が飛び交っていた。
「殿下たちも今日は訓練を見学されているそうね」
「来月の隣国への訪問の打ち合わせだと聞いているわ」
「ジャックロード様も同行されるんですって……大変な時期にご結婚されて、お可哀想だわ」
「そうよねぇ……時期を考えるべきだったわよねぇ」
また嫌味な囀りが右から左に通り過ぎていく。
もう無くなったと思った両肩にまだ突進してくる女生徒たちから、どうにかランチを死守して席まで辿り着いたのだ。とりあえずその悪意を聞かされるのは、食事を摂ってからでも許されないだろうか?一週間続くその苦行に、ロアナが思わず長く深いため息を吐いた。イザベラとの残り少ない食事を邪魔されて、若干苛立ってもいた。何より目の前のイザベラが、噴火寸前なのだ。彼女がフォークに突き刺したトマトを悪意のあるほうへ投げ付けないように必死で宥めているのに、いい加減に黙ってほしかった。
「結婚して数日で長期の訓練に行かれるなんて……嫌われているんじゃないかしら?」
「やだ……そんなにはっきり言ったら可哀想よ」
「家格も容姿もパッとしない家に婿入りされて、不本意に違いないわ」
クスクス笑う彼女たちの声が、縫い針の先のように尖ってロアナの心を傷付けようとする。
(アイツに限って、それはない)
(それは……ないわね)
イザベラとロアナは、口には出さなかったが同じことを思った。
噂は、所詮噂だ。アレキサンダーと過ごした日々(実質四日)のおかげで、彼女たちが惑わされることはなかった。二人は、あれが演技だと言われたら、もはや狂人だと思っていた。どこからどう切り取っても、アレキサンダーからは『好き』という感情しか見えなかったのだ。逆に、それ以外何が見えたのか教えてほしかった。
「一周回って、落ち着いてきた。トマトはきちんと口に運ばないとね」
「そうね、このトマト甘くて美味しいわよ」
スマートに食事を終えた二人は、来た時よりも気分良く教室に戻った。そして、先に戻っていたクラスメイトたちから黒板を指さされ、午後から臨時休校になったことを知らされた。どうやら学園の教師数名が来月の隣国への訪問の件で緊急招集されたらしい。この学園の教師たちの半分は元近衛騎士や元上級文官であったりするので、こういったことはこの国では珍しくなかった。
イザベラも生徒会の仕事は無いというので、久しぶりに二人で寮まで帰ることにした。二人で週末の予定を楽しく立てながら、足取り軽く寮までの道のりを歩いていく。学園の正面玄関の近くに差し掛かった時、最近聞き慣れた声が何やらかしましい声に責め立てられているのが聞こえてきた。
「殿下!こんな婚姻やっぱりおかしいですわ!どうにかしてくださいまし」
「君には関係ないだろう?それに、私にも関係ない」
「関係大有りです!私が、結婚するはずでしたのに!!あんな見窄らしい伯爵家の娘など、アレキサンダー様には釣り合わないではありませんか!!」
「昔から強烈だったけど、また一段と苛烈になったものだな……それに馬鹿か君は」
「なんですって!?」
この王太子にあんなふうに物言いができるのは、この学園では彼の婚約者の他に一人しかいなかった。現国王の姪であり王太子の幼馴染である、公爵令嬢レイチェル・マオガレートその人だった。今日も数名の取り巻きを連れて、元気よく吠えていた。
なんで城にいるはずの王太子がそこにいるんだとか、なんで訓練中のアレキサンダーが他の近衛騎士に交じって側に控えているんだとか色々考えた結果ロアナたちは何も見なかったフリをして立ち去ることにした。
「仕方ないな……」
そう諦めたような声が聞こえたが、ロアナは視界の端で見てしまった。
王太子のひどく楽しそうな笑顔と、何者にも動じることなく表情と感情を殺し職務を全うするアレキサンダーの冷め切った顔を。
「王太子命令だ。アレキサンダー・フォーリオ、本日の近衛騎士の任務をただいまを以て終了とする、即時帰宅せよ」
「御意」
「まぁ!私のためにアレキサンダー様を貸していただけるのね!?」
そう思ったのは、マオガレート公爵令嬢だけである。
任務を解かれたアレキサンダーの行動は速かった。彼の行動を予想していた王太子の想像の二倍は速かった。
ロアナの背中目掛けて一目散で走り出し、ロアナが異変に気づいて振り返るより先に、その背中を捕まえて思い切り抱き寄せた。
「ロアナが足りなくて死にそうだ……!!」
その日、ロアナは静かに王室へ王太子に対する諫言を手紙にて訴えようと決めた。
あと二ヶ月半の学園生活を穏やかに過ごすためには、必要なことだと考えたからだった。
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