第3話
勢いで水嶋先輩の試験に乗ってしまったわけだが、持ってきた楽譜を並べて何を歌うか迷っていた。
中学生の頃はやりたいことがなく、音楽や歌うことが好きという理由で合唱部に所属していたので、楽譜は何となく読める。
高校で本気で合唱をしたいと思ってからは、歌う練習もしていたが、それでも自信はない。
授業中なのに口を尖らせ、鼻と唇でペンを挟み、私は一人で作戦会議を開催していた。
楽譜を全部持ってきてしまったから、先輩は怒っているかもしれない。しかし、そんなことを考えても仕方ないので、これからの事を考えようと思う。
ソプラノ、メゾソプラノ、アルトの同声三部の楽譜のパート部分を何回も眺めたけれど、やはり、私はアルトパートを歌いたいと思っている。アルトは曲のベースになる音を奏でることが多く、縁の下の力持ちという印象があって好きだ。
何より、自分の声が好きではないけれど、アルトパートを歌っている時だけは少し自分に自信が持てる。パート決めの理由はそれでいいと思っていた。
そして、曲についてだが……。
「永野さん。今は数学の時間なんですけど」
怒りを抑えたような声が聞こえ、体が硬直する。
恐る恐る顔を上げて目の前の人物を見ると、顔は笑っているけれど目は笑っていない女性が立っていた。
「す、すみませんっ!」
「早く教科書開いてちょうだい」
呆れた声を放った先生は背を向けて教壇へ向かっていた。
周りからはクスクスと笑い声が聞こえる。
恥ずかしくなり、身を縮めて授業を大人しく受けることにした。
午前中の授業が終わると教室からは一気に静けさが抜け、グループになって昼食を取り始めている。
みんな友達作るの早いな……と落ち着いている場合ではない!
きょろきょろと自分の入れそうなグループを探したが、私の入れるようなグループはなかった。
焦っていると隣からクスっと笑い声が聞こえる。
「永野さん、授業初日から怒られるなんて、なかなかの問題児だね」
「あ……えっと……」
「
夏鈴と名乗る人物は黒髪のセミロングがとても似合うクールな女の子だった。表情は柔らかく、とても好印象な人だ。
「友達いなくて、焦ってたから嬉しい。
「よろしくね。授業中はなに見て怒られてたの?」
「それがね、大変なんだよぉ」
夏鈴がお弁当を机の上に出していたので、私もお弁当を出しながら昨日あった出来事を彼女に話した。
「なるほどねー。でも、結楽には申し訳ないけど、合唱部に入るのは諦めた方がいいと思うよ」
「どうして?」
「この学校の合唱部の噂知らない?」
「うん……?」
首をかしげながら彼女を見つめると、優しい表情から深刻な表情に変わっていく。
「部員内で暴力沙汰になるくらいの喧嘩があったんだって。原因はたしか、みずしま先輩っていう人らしくて。その人が合唱部に残るから他の部員みんなやめたらしい」
「それ、誰から聞いたの?」
「クラスの子たちがどの部活入るかって話をしてた時に小耳に挟んだ。女子校なのにちょっと物騒だよね」
「そうなんだ……」
私はあからさまに元気のない声で返事をしてしまう。確かに、水嶋先輩はちょっと怖い先輩だったけれど、そんな悪い人には見えなかった。
夏鈴の方を見るとちょっと困った表情をした後に、私の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれた。その手が優しくて、少しだけ嫌な気持ちが浄化されていく。
「まあ、よく考えれば噂だから気にすることはないか。私は応援するよ」
「え?! 夏鈴も合唱部入ってくれるの!?」
昼食を食べる手を止めて、乗り出すように彼女に顔を近づけると、ぐっと頬を押し返された。
「そうじゃない。結楽が頑張ってるのを見届けるってこと」
「夏鈴は何部に入るか決まってるの?」
「部活は入らないよ」
「どうして?」
「どうしてもだよ――」
先ほどよりも強く頬を押し返されたので、私は椅子に腰を下ろした。
彼女の声はどこか悲しいことを話すような時の声で、それ以上踏み込んで話をすることはできなかった。
午後の授業の時間も先生に見つからないように楽譜とにらめっこをする。
やはり、夏鈴が先ほど話していたことが気になる……。
今日も水嶋先輩は第二音楽室にいる気がしたので、私は授業が終わってすぐに教室を飛び出した。
入学式の日も走った道を走る。
昨日とは違う足の軽さがある。
悩んでいたって仕方ない。
がん! と壁にぶつかるくらい勢いよく扉を押し開けて、音楽室に駆け込んだ。すると、飛び跳ねる勢いで水嶋先輩は体を震わせていた。
「その部屋の入り方なんとかなんないの!」
「す、すみませんっ!」
「てか、入部許可してないんだから勝手にここに来ないで」
今日も不機嫌な水嶋先輩は大きく溜息をついて、ヘッドホンを耳にかけていた。
そんな態度を取られると胸が針山になった気分になる。
ちくちくと痛い。
水嶋先輩は少し意地悪だ。
露骨に私とは話したくないという態度を取る。
ポジティブな自信はあるけれど、憧れている先輩にそんなことをされると、さすがの私も傷ついてしまう。
勝手にヘッドホンを取ると怒られるので、水嶋先輩の視界に映るように近づいた。
水嶋先輩は目を丸くしていたけれど、ふいっと違う方向を見て、私のことを無視し続ける。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
ぐるぐると彼女の周りを回って、なんとか水嶋先輩の視界に入ろうと動き回った。しかし、水嶋先輩も頑固で、絶対にこちらを見てくれない。
ついに、私と目を合わせないように水嶋先輩は壁と向かい合わせになってしまった。
その様子がおかしくて、笑わずにはいられなかった。お腹を抱えるように笑うと、ぎっと鋭い眼光が飛んでくる。怖かったけれど、ヘッドホンは外してくれた。
「なにがしたいわけ?」
「今日は水嶋先輩と話がしたくて来ました」
「私は話すことない。そもそも、あんたは遊んでる場合なの?」
「えっ……」
その言葉に驚きを隠せなかった。
どうやら、先輩は一週間待ってくれるようだ。やはり、彼女は悪い人ではないと思う。
「なんだかんだ待ってくれるなんて、やっぱり水嶋先輩は優しいですね」
「人前で恥晒して、痛い目見ればいいと思っているだけ」
ひどい……。
やはり、水嶋先輩は鬼かもしれない。
しかし、彼女と会話できたことは私にとって大きな進歩だ。
水嶋先輩に一番聞きたかったことを声に乗せる。
「水嶋先輩。合唱部は好きですか? 歌うことは好きですか?」
「は? いきなりなに……。ここの合唱部の噂知らないの?」
「少しだけ聞きました」
「それなら言わなくても分かるでしょ」
「私は“合唱部が好きかどうか”と“歌うことが好きか”と聞いてます」
にっこりと微笑んでそう聞くと、水嶋先輩の眉間に力が入り、唇をむっとして口を噤んでしまった。
しかし、“好きじゃない”と即答されなくてよかったと安堵する。
「去年の文化祭の時、先輩たちの合唱に感動しました。水嶋先輩の歌声をこれからも聴きたいです」
「たかが一回聴いただけで何が分かるの? 馬鹿にするのもいい加減にして」
水嶋先輩はバンと扉を叩くように部屋から出ていってしまう。
水嶋先輩が扉は静かに開けてって言ったのに……。
そんな理不尽な先輩に対して悲しい気持ちにもなったが、彼女と話したおかげで、試験で歌う覚悟が決まった。
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