【一話完結】エンドレス・サーガ -勇者と魔王と囚われの姫君-
TKG
♾️
魔王城〈玉座の間〉は、凍りついたように静まり返っておりました。
高い天井を支える石梁には冷気がこもり、わずかな風に
赤黒い絨毯は長い年月の埃を吸い込み、玉座そのものも誰も座らぬまま
石床は氷のように冷たく、擦れた輪は手首に食い込みます。
細窓から差し込む光だけが頼りで、その淡い輝きに、かろうじて時の流れを知ることができました。
――今日もまた、誰も来ないのでしょうか。
そう諦めかけたその刹那、階下から轟く音が響き渡りました。
錆びついた扉が打ち破られ、砂塵の向こうから甲冑の影が現れます。
選ばれし若き勇者様。
その姿を目にした瞬間、胸の奥にこみ上げる熱を抑えきれず、私は震える声で呼びかけました。
「ようこそ……ようやく来てくださったのですね」
涙をにじませて微笑みながら、縛られた両腕をわずかに持ち上げました。
その仕草に合わせて胸元の布がかすかに張り、息遣いに合わせて上下するのが自分でもわかります。
羞恥を装いながら、私はさらに囁きました。
「助けてください、勇者様……!
もし、ここから助けてくださったら……私、あなた様にすべてを捧げます」
そのひと言に、勇者様の口元に下卑た笑みが浮かびました。
鎧の隙間から洩れる生温い吐息、乱れる胸板の鼓動。
やらしい想像に囚われているのだと、私にはすぐに察せられました。
けれど、私の視線は別のものに留まっておりました。
頬を染める若々しい血色。
首筋に浮きあがる鼓動の律動。
甲冑の継ぎ目から覗く逞しい腕の筋、汗に濡れた革の匂い。
胸板の起伏が荒い息遣いに合わせて隆起し、その熱がこちらにまで伝わってくるようで――。
私はほんの一拍だけ、そこに見入ってしまったのです。
その刹那。
玉座の間の床に刻まれた古い石目が、まるで脈を打つかのように淡く光を帯びはじめました。
次の瞬間、部屋の中央に複雑怪奇な魔法陣が浮かび上がり、血のように濃い紅光が四方へ迸ります。
耳を裂く唸り声。
壁を伝う炎が逆巻き、空気そのものが重く淀んでいくのを、肌で感じました。
やがて闇を纏った巨影が、陣の中心よりせり上がるように姿を現します。
煤に焼かれたような黒皮膚、膨れあがった双角、眼窩の奥で妖しく瞬く紅の
口腔から漏れ出る息は、熱気と腐臭を同時に孕み、吹きつけるたびに絨毯の繊維が焦げていきます。
全身から滴る瘴気は形を持ち、蛇のように床を這い、見る者の心臓を締め上げるかのごとき圧を放っておりました。
私は両手を鎖ごと高く掲げ、わざと声を張り上げます。
「ご覧ください、勇者様!
これが、恐るべき魔王オブスキュラにございます!
どうか……どうか囚われの姫君である私をお救いくださいませ!
この方を打ち滅ぼせるのは、選ばれし勇者様だけなのです!」
あえて仰々しく言い切り、私は息を詰めて勇者様を見つめました。
彼は舌なめずりを一度すると、背へと手を伸ばします。
鞘に納められた聖剣が、主の触れんとするのを待ちわびるかのように脈打ちました。
金属が擦れる音とともに、刃はゆっくりと引き抜かれます。
現れたのは、光を呑み込みながらなお白々と輝く異形の剣。
柄には古代文字が刻まれ、刃身には稲妻のような文様が走り、まるで生きているかのように脈動しています。
聖剣〈ファタリス・ラムナス〉。
その名を、私の胸の奥で囁く声が確かに呼んでおりました。
勇者様は刃を掲げ、魔王へと歩を進めます。
「魔王オブスキュラ! 貴様が人々を苦しめた罪、今日ここで終わらせる!」
その声は理想の英雄譚をそっくりなぞる調子でした。
けれど魔王は紅い眼を細め、低く嗤いました。
「……苦しめた、だと?
我はただ、ここで待ち続けていただけだ」
一拍置き、さらに言葉を重ねます。
「勇者よ……おまえこそ、いったい何度目だ? その剣を振るうのは」
その呟きに私は身を震わせました。
けれど勇者様は一歩も退かず、聖剣をきらめかせて叫ばれました。
「黙れ! おまえの存在そのものが災厄だ! 善良な人々と姫君の為、今日お前をここで討つ!」
玉座の間に響く声は力強く、しかし魔王の言葉が残した奇妙な響きは、耳の奥から消えませんでした。
「行くぞ!」
勇者様が低く呟くと同時に、聖剣が閃光を帯びました。
踏み込み、一直線に魔王へと斬りかかります。
応じる魔王の爪が鋭く閃き、刃と交わります。
瞬間、轟音と共に火花が散り、石床に亀裂が走りました。
両者はすぐに間合いを取り、次の瞬間には嵐のような
金属がぶつかる甲高い衝撃音、爪が石を削る耳障りな音。
やがて魔王の口腔が裂け、そこから瘴気が凝縮した弾丸のような光が連続して放たれました。
銃撃のごとく撃ち込まれる魔力弾。
勇者様は刃で弾き、時に紙一重でかわしながら迫ります。
剣が唸り、爪が応じ、光弾が交錯――。
玉座の間は爆ぜる閃光と轟音に覆われ、視界は煙と血のような赤光に濁りました。
それでも、勇者様の剣は止まりません。
聖剣〈ファタリス・ラムナス〉は次第に強烈な光を帯び、持ち主の動きと同調するように震えております。
重力を裏切る跳躍、常人では不可能な速度での踏み込み。
彼の肉体を凌駕して、剣自らが操っているかのようでした。
――そう。聖剣は、ただの武器ではございません。
私は鎖に縛られながらも、静かに見つめ続けました。
その刃は持ち主の魔力を喰らい、血を媒介にして進化します。
勇者様の俊敏さも、強靭さも……すべては剣が与える
光を纏った刃が振り下ろされるたび、空気が裂け、石壁が抉れます。
魔王の巨体でさえ押し返され、重々しい咆哮を上げるのが聞こえてまいりました。
その咆哮に紛れて、魔王は低く、しかし確かに呟きました。
「……また、同じか。
勇者とは、救いの顔をして……滅びを呼ぶ」
その声は深い井戸の底から響くようで、私の背筋を凍らせました。
次の瞬間、魔王は巨腕を振り上げ、瘴気の奔流を叩きつけました。
黒雷のような閃光が床を砕き、爆炎が巻き起こります。
爪が薙ぎ払えば空気そのものが刃と化し、甲冑を掠めて火花を散らしました。
勇者様は懸命に応戦されましたが、押し込む剣撃はことごとく爪に弾かれ、連射される魔弾に追い詰められてゆきます。
石床を転がり、肩の鎧が粉砕され、血が滲むのが見えました。
「ぐっ……!」
膝をつき、荒い息を吐く勇者様。
魔王の影が覆いかぶさり、その爪が狩り取らんと振り下ろされます。
――そのとき。
勇者様は聖剣を胸に抱き、声を絞り出しました。
「……頼む、聖剣よ! 応えてくれ! 俺に、力の全てを……!」
刹那、聖剣〈ファタリス・ラムナス〉が凄烈な光を放ちました。
柄の根元が脈動し、まるで生き物のように蠢きます。
そこからどろりとした黒光りの触手が溢れ出し、勇者様の右腕に絡みついてゆきました。
「う……うあああああっ!?」
悲鳴とともに、触手は甲冑の隙間から肉へ潜り込み、脈管を這い、骨へと食い込みます。
血管が黒く浮き上がり、筋肉が異様に膨れ、右腕は異形の武器と化してゆきました。
その様は祈りへの応答ではなく――寄生と侵食にほかならなかったのです。
私は鎖を鳴らし、震える唇を押さえました。
――けれど、それは恐怖ゆえではございません。
「やはり……すべてを解放しなければ、勝てませんでしたか」
冷ややかな言葉が、私の喉から洩れておりました。
聖剣に寄生された右腕は膨れ上がり、筋肉と金属とが一体となった異形の刃へと変じておりました。
勇者様の動きはもはや人の動きにあらず――人外のごとき跳躍で天井近くまで舞い上がり、魔王の
剣が閃き、その黒い皮膚を裂きました。
厚い鱗のような肉が剥ぎ取られ、飛沫が赤黒く散ります。
魔王オブスキュラの咆哮は雷鳴のように響きましたが、勇者様は構わず次の一撃を叩き込みました。
腕を払えば爪が砕け飛び、血潮が壁に叩きつけられ、突きを放てば、肩口が深々と抉られ、骨が皮膚から覗きます。
さらに回転するように斬り下ろすと、下肢が裂け、片膝が床に沈みました。
――欠けゆく四肢、奔流する血。
それは凄惨でありながらも、私の目にはこの上なく神聖な光景に映っていたのです。
「ああ……これこそ、聖剣の真の力……」
私は両の手枷を鳴らし、熱に浮かされたように囁きました。
「ただ斬るのではなく……血肉を奪い、肉体を蝕み、持ち主の命を削ってなお、強さへと転じる……。
それが聖剣〈ファタリス・ラムナス〉――勇者を勇者たらしめる剣の本質なのです」
そして斬撃を重ねるごとに、勇者様の右腕はさらに醜悪に肥大していきました。
皮膚の下で触手の束が蠢き、血管が黒く浮き上がり、指は鉤爪のように変形してゆく。
もはやそれは「勇者様の手」ではなく、「剣そのもの」と化していたのです。
「ご覧ください……あれはもう聖剣ではありません。
血を
私は
聖剣の光はもはや純白ではなく、濁った紅と黒を孕み、刃身に脈動が走ります。
宿主の肉と魂を喰らいながら、剣そのものが進化しつつありました。
――つまりこれは、魔剣化と呼ばれる現象でございます。
勇者様の瞳は血走り、呼吸は荒く、喉からは唸り声が漏れておりました。
そして最後の跳躍。
空を裂き、轟音とともに刃が魔王の頸を捕らえました。
ぶちり、と嫌な音がしたかと思えば、次の瞬間。
魔王の頭部は胴から吹き飛び、血の雨が玉座の間を染め上げました。
石壁に赤黒い飛沫が散り、床には溶岩のように濃厚な血潮が広がっていきます。
……どうやら、戦いは終わったようです。
勇者様の勝利です。
「……」
そして勇者様はゆらりと振り返り、私を見つめました。
その口元に最初の下卑た笑みが浮かびます。
「……終わったぞ、姫君。
では、おまえの全てを貰おうか」
そう告げると、寄生を免れた左手を伸ばし、下半身の装備へと触れます。
留め具が外れる音が、いやに大きく響きました。
私は鎖を鳴らし、わざとらしく小首を傾げます。
「まあ……ここで? お盛んなことです」
私は怯えるどころか、冷静にその様子を観察しておりました。
その視線に応えるように、勇者は私を押し倒し、石床に組み敷きました。
甲冑の重みがのしかかり、息が詰まります。
熱を帯びた吐息が顔にかかり、荒々しい手が衣を掴もうとした、その瞬間――。
「ぐ……あ、がッ……!」
勇者様の全身が
右腕から這い上がった黒い触手が、肩から胸へ、そして首筋へと這い広がってゆきます。
血管が浮き上がり、皮膚が裂け、赤と黒の脈動が肉を侵食していきました。
まるで人間が一枚一枚の皮を剥がされ、内側から別の存在へと作り替えられていくかのよう。
骨が軋み、筋肉が裂け、金属と肉が混ざり合い、悲鳴は断末魔へと変わっていきました。
やがて〈ファタリス・ラムナス〉そのものが脈動を強め、勇者様の腕に喰らいついたまま、ずぶりと肉の内側へ沈み込みます。
柄は消え、刃は溶け、血管と神経と絡み合い、全身へと侵食していきます。
勇者様の身体はみるみる膨れ上がり、筋骨が肥大し、鎧の鋲が耐えきれず弾け飛びました。
「な、なんだ……ぐ、あああッ!」
肩からは黒々とした角が突き出し、背骨を割って翼が芽吹き、血と肉片を撒き散らしながら広がっていきます。
腰骨の奥からは蛇のような尾が生え、床石を叩いて粉砕しました。
人の貌は歪み、眼窩の奥で光が爛々と燃えあがります。
変容する己の身体に勇者様はパニックに陥り、必死に自分の腕を掻きむしるも、爪が肉を裂くだけで寄生は止まりません。
「うわぁぁぁぁ! やめろ……やめろォォォ! なんだ、これはァァ!?」
その絶叫を背に、私はゆるりと立ち上がりました。
冷たく笑みを浮かべながら。
「……では、私からご説明いたしましょう」
私は両手に絡みついていた拘束具を、まるで紙のように引き裂きました。
甲高い金属音が響き、錆びた鎖の破片が床に散らばります。
そして私は裾を払うと、どこからともなく銀の刃を取り出しました。
淡く光を宿すその刃先を、崩れ落ちた魔王の
まだ温もりを残した巨体を前に、私は何のためらいもなくその腹を切り裂きました。
厚い皮膚を断ち、赤黒い筋を裂き、臓腑が溢れ出します。
鼻腔を突く血と鉄の匂い、ぬめる熱。
私はそのすべてを受け止めながら、恍惚とした眼差しで勇者様を振り返りました。
「ご覧ください、勇者様。
これが……魔王オブスキュラの原型となった聖剣〈タナトス・ラディクス〉ですわ」
血濡れの亡骸から、私は一本の剣を引き抜きました。
柄は肉に溶け込むように埋まっており、引き抜くたびに臓腑がずるりと付着して崩れ落ちます。
刃は黒ずみ、表面に赤い脈管のような紋が脈打っておりました。
「な、なん……だと……!?」
勇者様の顔に驚愕が浮かびます。
しかし私は微笑みを絶やさず、血の滴る剣を掲げました。
「すべては
この世に存在する聖剣は、勇者と呼ばれる“選ばれし者”に奇跡の力を与えます。
ですが――その力をすべて解放しようとしたとき、剣は宿主の血と魂を喰らい、やがて〈魔剣〉へと転じるのです」
私はゆっくりと歩み寄りながら、甘やかに囁きました。
「魔剣は宿主の身体を蝕みます。
血を、骨を、臓腑を……すべてを造り替え、常人を超えた異形へと至らせる。
その最果ての姿を、人々は魔王と呼んでいるのです」
剣の切っ先で、転がる巨体を軽く突きます。
もう動かぬ魔王の屍は、かつては勇者であったのだと語るように沈黙しておりました。
「ええ、そう。
魔王オブスキュラとは、かつてこの城に挑んだ勇者の成れの果てでございます。
すべてを解放したがゆえに、すべてを喰らわれた哀れな英雄……」
私は口元を覆い、楽しげに笑みを洩らしました。
「そして、勇者様。
いま新たに――あなたが、その跡を継ごうとしているのです」
「な、なにを……馬鹿な……!?」
勇者様――いいえ、すでにその呼び名は相応しくありません。
彼の身体はさらに変容を重ね、皮膚は黒ずみ、筋は硬直し、血走った双眸には理性の光が失われつつありました。
背から伸びた翼は石壁を打ち砕き、尾は床を砕いて血に塗れた破片を撒き散らしております。
人の原型はもはやそこにはなく、ただ「生きた魔剣」によって作り替えられた異形があるのみでした。
私はゆるやかに両手を広げ、舞台の幕を引くように声を響かせます。
「勇者様……いえ。
これから、貴方様は魔王アビソスと名乗られるのがよろしいでしょう」
その名を与えた瞬間、彼の動きが一拍止まりました。
唸り声の奥にかすかな人の言葉が混じる。
「……なぜ……どうしてこんなことを……?
おまえは……いったい、何者だ……!?」
私はゆっくりと歩み寄り、血に濡れた裾を引きずりながら囁きました。
「では、ご説明いたしましょう。
私、アナスタシア・サクラメントゥムは、囚われの哀れな姫君を演じる役を負う者です。
けれど、その本質はこの舞台を統べる“語り部”にございます」
足もとで崩れ落ちた旧き魔王の亡骸を、軽く刃で突きながら続けます。
「この城に幾度となく勇者が訪れ、聖剣を抜き、魔王を
けれどその結末は常に同じ――聖剣は勇者を喰らい、魔剣へと堕とし、新たな魔王を生み出すのです」
私は血に濡れた指先を恍惚と舐め取り、淡く微笑みました。
「人々が語る英雄譚。
その裏には、常にこの循環があるのです。
勇者は魔王となり、魔王は斃され、また勇者が現れる。
この永劫の輪を監督し、記録する役目――それこそが、私の存在理由にございます」
アビソスと呼ばれた異形は、憤怒とも絶望ともつかぬ咆哮を上げました。
しかし私は揺るがず、静かに言葉を重ねます。
「ですから、あなたは私の愛し子なのです。
過去の勇者たちと同じように、この城に縛られ、魔王として次の勇者を待つのです。
私と前魔王オブスキュラがそうしてきたように……」
「ふざけるなァァァッ!」
魔王アビソスが咆哮とともに、私に襲いかかってきました。
鋭く伸びた爪が空を裂き、尾が石柱を叩き折り、灼熱の魔弾が奔流のように向かってきます。
けれど私は一歩も退かず、裾を翻すだけでその全てをいなしました。
爪は届く直前に逸れ、尾は私の足もとで無惨に砕け散ります。
魔弾は光の膜に弾かれ、火花のように霧散しました。
アビソスの攻撃は苛烈さを増すばかりでしたが、そのどれ一つとして私に傷を与えることはできません。
「……なぜだ……なぜ効かない!?」
絶望と混乱の声を、私は冷ややかに受け止めました。
「おわかりになりませんのね。
本当に私が望むのは――魔剣化に呑まれず、なお魔王を討ち果たせる勇者。
真に私を征するに足る殿方を、私は〈囚われの姫君〉として、ずっと待ち続けているのです」
私は恍惚とした微笑みを浮かべ、血濡れた刃を床に突き立てました。
「残念ながら、あなたはその器ではなかった。
今後のあなた様の役割はただ一つ――次なる勇者様を熟させ、試練として踏み台となること。
それこそが、魔王アビソスに課せられた新たな宿命にございます」
「な……に……!?」
次の瞬間、私は軽やかに踏み込みました。
細腕に見えた手が、異形の巨躯を易々と捕らえます。
衝撃音。
アビソスの身体が宙を舞い、玉座の柱に叩きつけられました。
骨が砕ける音、吐き散らされる黒い血。
立ち上がろうとするより早く、私はその腹を蹴り飛ばし、翼を掴んで床へ叩き伏せました。
「が、はァッ……!」
息を詰まらせる咆哮。
しかし私は容赦なく、顔を踏みつけ、爪を握り潰し、尾をへし折りました。
「滅多打ち……という表現はあまりに無粋かもしれませんが――」
私は鎖を引きちぎった手で、魔王アビソスを殴りつけ、床に沈めながら笑みを浮かべました。
「要するに、もう貴方様はそういう立ち位置なのです」
石床が砕け、血飛沫が舞いました。
勇者様であったものは、もはや哀れな獣の呻きを漏らすばかりでした。
それから──どれほどの時が経ったのでしょう。
崩れた柱の間から射し込む光は角度を変え、血の海は乾き、瘴気に覆われた空気すら沈黙を取り戻していました。
やがて私は、玉座の前に佇むその姿を見上げました。
新たな魔王アビソス。
威容を誇るべきはずの玉座に腰を下ろしながら、その身体はわなわなと震えております。
瞳は赤々と燃えていながら、私の方を見据えるときだけ、かすかな怯えを宿していたのです。
私は裾を翻し、くるりと身を回しました。
薄布のドレスが肩から流れ、背をなぞり、脚線をあらわにします。
「この装いはいかがかしら?
私は愉しげに魔王に問いかけました。
「異性としての魅力がなければ、勇者様が私を救いたいと望む気持ちは、湧きませんものね」
アビソスは震える喉で、かすかに肯定の声を洩らしました。
そのとき、遠くの大地が揺れるような轟音が響きました。
重厚な扉の向こうから、甲冑の足音が近づいてまいります。
「……お越しになられたみたいですね」
私は微笑み、器用に自らの手を背で交差させ、錆びついた鎖を拾い上げて絡ませました。
けれど舞台装置としては、必要な小道具なのです。
扉が打ち破られ、砂塵と共に新たな影が現れました。
若き男の瞳は澄み、腰には光を宿す剣が下がっています。
私は涙を浮かべ、震える声で呼びかけました。
「助けてください、勇者様……」
玉座に縛られたアビソスの呻きと、私の甘い声が、静寂の玉座の間に重なりました。
「……今度こそ、ね」
〈完〉
【一話完結】エンドレス・サーガ -勇者と魔王と囚われの姫君- TKG @tmym219
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