【一話完結】エンドレス・サーガ -勇者と魔王と囚われの姫君-

TKG

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 魔王城〈玉座の間〉は、凍りついたように静まり返っておりました。

 高い天井を支える石梁には冷気がこもり、わずかな風に燭台しょくだいの炎が震えます。

 赤黒い絨毯は長い年月の埃を吸い込み、玉座そのものも誰も座らぬままかびに覆われ、ただ威容だけを残してございました。



 わたくし、アナスタシア姫はその一隅、鎖に縛られたまま跪いておりました。

 石床は氷のように冷たく、擦れた輪は手首に食い込みます。

 細窓から差し込む光だけが頼りで、その淡い輝きに、かろうじて時の流れを知ることができました。



――今日もまた、誰も来ないのでしょうか。



 そう諦めかけたその刹那、階下から轟く音が響き渡りました。



 錆びついた扉が打ち破られ、砂塵の向こうから甲冑の影が現れます。

 選ばれし若き勇者様。

 その姿を目にした瞬間、胸の奥にこみ上げる熱を抑えきれず、私は震える声で呼びかけました。



「ようこそ……ようやく来てくださったのですね」



 涙をにじませて微笑みながら、縛られた両腕をわずかに持ち上げました。

 その仕草に合わせて胸元の布がかすかに張り、息遣いに合わせて上下するのが自分でもわかります。

 羞恥を装いながら、私はさらに囁きました。



「助けてください、勇者様……!

 もし、ここから助けてくださったら……私、



 そのひと言に、勇者様の口元に下卑た笑みが浮かびました。

 鎧の隙間から洩れる生温い吐息、乱れる胸板の鼓動。

 やらしい想像に囚われているのだと、私にはすぐに察せられました。



 けれど、私の視線は別のものに留まっておりました。

 頬を染める若々しい血色。

 首筋に浮きあがる鼓動の律動。

 甲冑の継ぎ目から覗く逞しい腕の筋、汗に濡れた革の匂い。

 胸板の起伏が荒い息遣いに合わせて隆起し、その熱がこちらにまで伝わってくるようで――。

 私はほんの一拍だけ、そこに見入ってしまったのです。



 その刹那。

 玉座の間の床に刻まれた古い石目が、まるで脈を打つかのように淡く光を帯びはじめました。

 次の瞬間、部屋の中央に複雑怪奇な魔法陣が浮かび上がり、血のように濃い紅光が四方へ迸ります。

 耳を裂く唸り声。

 壁を伝う炎が逆巻き、空気そのものが重く淀んでいくのを、肌で感じました。



 やがて闇を纏った巨影が、陣の中心よりせり上がるように姿を現します。

 煤に焼かれたような黒皮膚、膨れあがった双角、眼窩の奥で妖しく瞬く紅の双眸そうぼう

 口腔から漏れ出る息は、熱気と腐臭を同時に孕み、吹きつけるたびに絨毯の繊維が焦げていきます。

 全身から滴る瘴気は形を持ち、蛇のように床を這い、見る者の心臓を締め上げるかのごとき圧を放っておりました。



 私は両手を鎖ごと高く掲げ、わざと声を張り上げます。



「ご覧ください、勇者様!

 これが、恐るべき魔王オブスキュラにございます!

 どうか……どうか囚われの姫君である私をお救いくださいませ!

 この方を打ち滅ぼせるのは、選ばれし勇者様だけなのです!」



 あえて仰々しく言い切り、私は息を詰めて勇者様を見つめました。



 彼は舌なめずりを一度すると、背へと手を伸ばします。

 鞘に納められた聖剣が、主の触れんとするのを待ちわびるかのように脈打ちました。

 金属が擦れる音とともに、刃はゆっくりと引き抜かれます。



 現れたのは、光を呑み込みながらなお白々と輝く異形の剣。

 柄には古代文字が刻まれ、刃身には稲妻のような文様が走り、まるで生きているかのように脈動しています。



 聖剣〈ファタリス・ラムナス〉。

 その名を、私の胸の奥で囁く声が確かに呼んでおりました。



 勇者様は刃を掲げ、魔王へと歩を進めます。



「魔王オブスキュラ! 貴様が人々を苦しめた罪、今日ここで終わらせる!」



 その声は理想の英雄譚をそっくりなぞる調子でした。

 けれど魔王は紅い眼を細め、低く嗤いました。



「……苦しめた、だと? 

 我はただ、ここで待ち続けていただけだ」



 一拍置き、さらに言葉を重ねます。



「勇者よ……おまえこそ、いったい? その剣を振るうのは」



 その呟きに私は身を震わせました。

 けれど勇者様は一歩も退かず、聖剣をきらめかせて叫ばれました。



「黙れ! おまえの存在そのものが災厄だ! 善良な人々と姫君の為、今日お前をここで討つ!」



 玉座の間に響く声は力強く、しかし魔王の言葉が残した奇妙な響きは、耳の奥から消えませんでした。



「行くぞ!」



 勇者様が低く呟くと同時に、聖剣が閃光を帯びました。

 踏み込み、一直線に魔王へと斬りかかります。



 応じる魔王の爪が鋭く閃き、刃と交わります。

 瞬間、轟音と共に火花が散り、石床に亀裂が走りました。



 両者はすぐに間合いを取り、次の瞬間には嵐のような剣戟けんげきが繰り広げられます。

 金属がぶつかる甲高い衝撃音、爪が石を削る耳障りな音。

 やがて魔王の口腔が裂け、そこから瘴気が凝縮した弾丸のような光が連続して放たれました。

 銃撃のごとく撃ち込まれる魔力弾。

 勇者様は刃で弾き、時に紙一重でかわしながら迫ります。



 剣が唸り、爪が応じ、光弾が交錯――。

 玉座の間は爆ぜる閃光と轟音に覆われ、視界は煙と血のような赤光に濁りました。



 それでも、勇者様の剣は止まりません。

 聖剣〈ファタリス・ラムナス〉は次第に強烈な光を帯び、持ち主の動きと同調するように震えております。

 重力を裏切る跳躍、常人では不可能な速度での踏み込み。

 彼の肉体を凌駕して、剣自らが操っているかのようでした。



――そう。聖剣は、ただの武器ではございません。



 私は鎖に縛られながらも、静かに見つめ続けました。



 その刃は持ち主の魔力を喰らい、血を媒介にして進化します。

 勇者様の俊敏さも、強靭さも……すべては剣が与える恩寵おんちょうにほかなりません。



 光を纏った刃が振り下ろされるたび、空気が裂け、石壁が抉れます。

 魔王の巨体でさえ押し返され、重々しい咆哮を上げるのが聞こえてまいりました。



 その咆哮に紛れて、魔王は低く、しかし確かに呟きました。



「……また、同じか。

 勇者とは、救いの顔をして……滅びを呼ぶ」



 その声は深い井戸の底から響くようで、私の背筋を凍らせました。



 次の瞬間、魔王は巨腕を振り上げ、瘴気の奔流を叩きつけました。

 黒雷のような閃光が床を砕き、爆炎が巻き起こります。

 爪が薙ぎ払えば空気そのものが刃と化し、甲冑を掠めて火花を散らしました。



 勇者様は懸命に応戦されましたが、押し込む剣撃はことごとく爪に弾かれ、連射される魔弾に追い詰められてゆきます。

 石床を転がり、肩の鎧が粉砕され、血が滲むのが見えました。



「ぐっ……!」



 膝をつき、荒い息を吐く勇者様。

 魔王の影が覆いかぶさり、その爪が狩り取らんと振り下ろされます。



――そのとき。



 勇者様は聖剣を胸に抱き、声を絞り出しました。



「……頼む、聖剣よ! 応えてくれ! 俺に、力の全てを……!」



 刹那、聖剣〈ファタリス・ラムナス〉が凄烈な光を放ちました。

 柄の根元が脈動し、まるで生き物のように蠢きます。

 そこからどろりとした黒光りの触手が溢れ出し、勇者様の右腕に絡みついてゆきました。



「う……うあああああっ!?」



 悲鳴とともに、触手は甲冑の隙間から肉へ潜り込み、脈管を這い、骨へと食い込みます。

 血管が黒く浮き上がり、筋肉が異様に膨れ、右腕は異形の武器と化してゆきました。

 その様は祈りへの応答ではなく――寄生と侵食にほかならなかったのです。



 私は鎖を鳴らし、震える唇を押さえました。

 


――けれど、それは恐怖ゆえではございません。



「やはり……すべてをしなければ、勝てませんでしたか」



 冷ややかな言葉が、私の喉から洩れておりました。



 聖剣に寄生された右腕は膨れ上がり、筋肉と金属とが一体となった異形の刃へと変じておりました。

 勇者様の動きはもはや人の動きにあらず――人外のごとき跳躍で天井近くまで舞い上がり、魔王の巨躯きょくへと降りかかります。



 剣が閃き、その黒い皮膚を裂きました。

 厚い鱗のような肉が剥ぎ取られ、飛沫が赤黒く散ります。

 魔王オブスキュラの咆哮は雷鳴のように響きましたが、勇者様は構わず次の一撃を叩き込みました。



 腕を払えば爪が砕け飛び、血潮が壁に叩きつけられ、突きを放てば、肩口が深々と抉られ、骨が皮膚から覗きます。

 さらに回転するように斬り下ろすと、下肢が裂け、片膝が床に沈みました。



――欠けゆく四肢、奔流する血。



 それは凄惨でありながらも、私の目にはこの上なくに映っていたのです。



「ああ……これこそ、聖剣の真の力……」



 私は両の手枷を鳴らし、熱に浮かされたように囁きました。



「ただ斬るのではなく……血肉を奪い、肉体を蝕み、持ち主の命を削ってなお、強さへと転じる……。

 それが聖剣〈ファタリス・ラムナス〉――勇者を勇者たらしめる剣の本質なのです」



 そして斬撃を重ねるごとに、勇者様の右腕はさらに醜悪に肥大していきました。

 皮膚の下で触手の束が蠢き、血管が黒く浮き上がり、指は鉤爪のように変形してゆく。

 もはやそれは「勇者様の手」ではなく、「剣そのもの」と化していたのです。



「ご覧ください……あれはもう聖剣ではありません。

 血をすすり、宿主を喰らう……真なるかおにございます」



 私は恍惚こうこつと微笑み、目の前の惨劇から一瞬たりとも目を逸らしませんでした。



 聖剣の光はもはや純白ではなく、濁った紅と黒を孕み、刃身に脈動が走ります。

 宿主の肉と魂を喰らいながら、剣そのものが進化しつつありました。

 


――つまりこれは、魔剣化と呼ばれる現象でございます。



 勇者様の瞳は血走り、呼吸は荒く、喉からは唸り声が漏れておりました。

 そして最後の跳躍。

 空を裂き、轟音とともに刃が魔王の頸を捕らえました。



 ぶちり、と嫌な音がしたかと思えば、次の瞬間。

 魔王の頭部は胴から吹き飛び、血の雨が玉座の間を染め上げました。

 石壁に赤黒い飛沫が散り、床には溶岩のように濃厚な血潮が広がっていきます。



 ……どうやら、戦いは終わったようです。

 勇者様の勝利です。



「……」



 そして勇者様はゆらりと振り返り、私を見つめました。

 その口元に最初の下卑た笑みが浮かびます。



「……終わったぞ、姫君。

 では、おまえのを貰おうか」



 そう告げると、寄生を免れた左手を伸ばし、下半身の装備へと触れます。

 留め具が外れる音が、いやに大きく響きました。



 私は鎖を鳴らし、わざとらしく小首を傾げます。



「まあ……ここで? お盛んなことです」



 私は怯えるどころか、冷静にその様子を観察しておりました。

 その視線に応えるように、勇者は私を押し倒し、石床に組み敷きました。

 甲冑の重みがのしかかり、息が詰まります。

 熱を帯びた吐息が顔にかかり、荒々しい手が衣を掴もうとした、その瞬間――。



「ぐ……あ、がッ……!」



 勇者様の全身が痙攣けいれんしました。

 右腕から這い上がった黒い触手が、肩から胸へ、そして首筋へと這い広がってゆきます。

 血管が浮き上がり、皮膚が裂け、赤と黒の脈動が肉を侵食していきました。

 眼窩がんかの奥からは血が滲み、歯列の隙間から泡立つ唾液と血が混ざり合い滴り落ちます。



 まるで人間が一枚一枚の皮を剥がされ、内側から別の存在へと作り替えられていくかのよう。

 骨が軋み、筋肉が裂け、金属と肉が混ざり合い、悲鳴は断末魔へと変わっていきました。



 やがて〈ファタリス・ラムナス〉そのものが脈動を強め、勇者様の腕に喰らいついたまま、ずぶりと肉の内側へ沈み込みます。

 柄は消え、刃は溶け、血管と神経と絡み合い、全身へと侵食していきます。

 勇者様の身体はみるみる膨れ上がり、筋骨が肥大し、鎧の鋲が耐えきれず弾け飛びました。



「な、なんだ……ぐ、あああッ!」



 肩からは黒々とした角が突き出し、背骨を割って翼が芽吹き、血と肉片を撒き散らしながら広がっていきます。

 腰骨の奥からは蛇のような尾が生え、床石を叩いて粉砕しました。

 人の貌は歪み、眼窩の奥で光が爛々と燃えあがります。

 変容する己の身体に勇者様はパニックに陥り、必死に自分の腕を掻きむしるも、爪が肉を裂くだけで寄生は止まりません。



「うわぁぁぁぁ! やめろ……やめろォォォ! なんだ、これはァァ!?」



 その絶叫を背に、私はゆるりと立ち上がりました。

 冷たく笑みを浮かべながら。



「……では、私からご説明いたしましょう」



 私は両手に絡みついていた拘束具を、まるで紙のように引き裂きました。

 甲高い金属音が響き、錆びた鎖の破片が床に散らばります。



 そして私は裾を払うと、どこからともなく銀の刃を取り出しました。

 淡く光を宿すその刃先を、崩れ落ちた魔王の亡骸なきがらへと向けます。



 まだ温もりを残した巨体を前に、私は何のためらいもなくその腹を切り裂きました。

 厚い皮膚を断ち、赤黒い筋を裂き、臓腑が溢れ出します。

 鼻腔を突く血と鉄の匂い、ぬめる熱。

 私はそのすべてを受け止めながら、恍惚とした眼差しで勇者様を振り返りました。



「ご覧ください、勇者様。

 これが……魔王オブスキュラの原型となった聖剣〈タナトス・ラディクス〉ですわ」



 血濡れの亡骸から、私は一本の剣を引き抜きました。

 柄は肉に溶け込むように埋まっており、引き抜くたびに臓腑がずるりと付着して崩れ落ちます。

 刃は黒ずみ、表面に赤い脈管のような紋が脈打っておりました。



「な、なん……だと……!?」



 勇者様の顔に驚愕が浮かびます。

 しかし私は微笑みを絶やさず、血の滴る剣を掲げました。



「すべては連綿れんめんと続いておりますの。

 この世に存在する聖剣は、勇者と呼ばれる“選ばれし者”に奇跡の力を与えます。

 ですが――その力をすべて解放しようとしたとき、剣は宿主の血と魂を喰らい、やがて〈魔剣〉へと転じるのです」



 私はゆっくりと歩み寄りながら、甘やかに囁きました。



「魔剣は宿主の身体を蝕みます。

 血を、骨を、臓腑を……すべてを造り替え、常人を超えた異形へと至らせる。

 その最果ての姿を、人々はと呼んでいるのです」



 剣の切っ先で、転がる巨体を軽く突きます。

 もう動かぬ魔王の屍は、かつては勇者であったのだと語るように沈黙しておりました。



「ええ、そう。

 魔王オブスキュラとは、かつてこの城に挑んだ勇者の成れの果てでございます。

 すべてを解放したがゆえに、すべてを喰らわれた哀れな英雄……」



 私は口元を覆い、楽しげに笑みを洩らしました。



「そして、勇者様。

 いま新たに――あなたが、としているのです」



「な、なにを……馬鹿な……!?」



 勇者様――いいえ、すでにその呼び名は相応しくありません。

 彼の身体はさらに変容を重ね、皮膚は黒ずみ、筋は硬直し、血走った双眸には理性の光が失われつつありました。

 背から伸びた翼は石壁を打ち砕き、尾は床を砕いて血に塗れた破片を撒き散らしております。

 人の原型はもはやそこにはなく、ただ「生きた魔剣」によって作り替えられた異形があるのみでした。



 私はゆるやかに両手を広げ、舞台の幕を引くように声を響かせます。



「勇者様……いえ。

 これから、貴方様は魔王アビソスと名乗られるのがよろしいでしょう」



 その名を与えた瞬間、彼の動きが一拍止まりました。

 唸り声の奥にかすかな人の言葉が混じる。



「……なぜ……どうしてこんなことを……?

 おまえは……いったい、何者だ……!?」



 私はゆっくりと歩み寄り、血に濡れた裾を引きずりながら囁きました。



「では、ご説明いたしましょう。

 私、アナスタシア・サクラメントゥムは、囚われの哀れな姫君を演じる役を負う者です。

 けれど、その本質はこの舞台を統べる“語り部”にございます」



 足もとで崩れ落ちた旧き魔王の亡骸を、軽く刃で突きながら続けます。



「この城に幾度となく勇者が訪れ、聖剣を抜き、魔王をたおす。

 けれどその結末は常に同じ――聖剣は勇者を喰らい、魔剣へと堕とし、新たな魔王を生み出すのです」



 私は血に濡れた指先を恍惚と舐め取り、淡く微笑みました。



「人々が語る英雄譚。

 その裏には、常にこの循環があるのです。

 勇者は魔王となり、魔王は斃され、また勇者が現れる。

 この永劫の輪を監督し、記録する役目――それこそが、私の存在理由にございます」



 アビソスと呼ばれた異形は、憤怒とも絶望ともつかぬ咆哮を上げました。

 しかし私は揺るがず、静かに言葉を重ねます。



「ですから、あなたは私の愛し子なのです。

 過去の勇者たちと同じように、この城に縛られ、魔王として次の勇者を待つのです。

 私と前魔王オブスキュラがそうしてきたように……」



「ふざけるなァァァッ!」



 魔王アビソスが咆哮とともに、私に襲いかかってきました。

 鋭く伸びた爪が空を裂き、尾が石柱を叩き折り、灼熱の魔弾が奔流のように向かってきます。

 けれど私は一歩も退かず、裾を翻すだけでその全てをいなしました。



 爪は届く直前に逸れ、尾は私の足もとで無惨に砕け散ります。

 魔弾は光の膜に弾かれ、火花のように霧散しました。

 アビソスの攻撃は苛烈さを増すばかりでしたが、そのどれ一つとして私に傷を与えることはできません。



「……なぜだ……なぜ効かない!?」



 絶望と混乱の声を、私は冷ややかに受け止めました。



「おわかりになりませんのね。

 本当に私が望むのは――魔剣化に呑まれず、なお魔王を討ち果たせる勇者。

 真に私を征するに足る殿方を、私は〈囚われの姫君〉として、ずっと待ち続けているのです」



 私は恍惚とした微笑みを浮かべ、血濡れた刃を床に突き立てました。



「残念ながら、あなたはその器ではなかった。

 今後のあなた様の役割はただ一つ――次なる勇者様を熟させ、試練として踏み台となること。

 それこそが、魔王アビソスに課せられた新たな宿命にございます」



「な……に……!?」



 次の瞬間、私は軽やかに踏み込みました。

 細腕に見えた手が、異形の巨躯を易々と捕らえます。



 衝撃音。



 アビソスの身体が宙を舞い、玉座の柱に叩きつけられました。

 骨が砕ける音、吐き散らされる黒い血。

 立ち上がろうとするより早く、私はその腹を蹴り飛ばし、翼を掴んで床へ叩き伏せました。



「が、はァッ……!」



 息を詰まらせる咆哮。

 しかし私は容赦なく、顔を踏みつけ、爪を握り潰し、尾をへし折りました。



「滅多打ち……という表現はあまりに無粋かもしれませんが――」



 私は鎖を引きちぎった手で、魔王アビソスを殴りつけ、床に沈めながら笑みを浮かべました。



「要するに、もう貴方様はそういう立ち位置なのです」



 石床が砕け、血飛沫が舞いました。

 勇者様であったものは、もはや哀れな獣の呻きを漏らすばかりでした。















 

 それから──どれほどの時が経ったのでしょう。



 崩れた柱の間から射し込む光は角度を変え、血の海は乾き、瘴気に覆われた空気すら沈黙を取り戻していました。



 やがて私は、玉座の前に佇むその姿を見上げました。

 新たな魔王アビソス。

 威容を誇るべきはずの玉座に腰を下ろしながら、その身体はわなわなと震えております。

 瞳は赤々と燃えていながら、私の方を見据えるときだけ、かすかな怯えを宿していたのです。



 私は裾を翻し、くるりと身を回しました。

 薄布のドレスが肩から流れ、背をなぞり、脚線をあらわにします。



「この装いはいかがかしら? 扇情的せんじょうてきでしょうか?」



 私は愉しげに魔王に問いかけました。



「異性としての魅力がなければ、勇者様が私を救いたいと望む気持ちは、湧きませんものね」



 アビソスは震える喉で、かすかに肯定の声を洩らしました。



 そのとき、遠くの大地が揺れるような轟音が響きました。

 重厚な扉の向こうから、甲冑の足音が近づいてまいります。



「……お越しになられたみたいですね」



 私は微笑み、器用に自らの手を背で交差させ、錆びついた鎖を拾い上げて絡ませました。

 かせはもはや意味を持ちません。

 けれど舞台装置としては、必要な小道具なのです。



 扉が打ち破られ、砂塵と共に新たな影が現れました。

 若き男の瞳は澄み、腰には光を宿す剣が下がっています。



 私は涙を浮かべ、震える声で呼びかけました。



「助けてください、勇者様……」



 玉座に縛られたアビソスの呻きと、私の甘い声が、静寂の玉座の間に重なりました。



「……今度こそ、ね」




〈完〉

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【一話完結】エンドレス・サーガ -勇者と魔王と囚われの姫君- TKG @tmym219

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