第32話 堕ちていく医者
連邦軍の小拠点。王国軍の進行を防ぐために仕掛けられた罠により、10名ほどの王国兵が捕らえられていた。捕虜たちは傷つき、疲弊し、無力感に苛まれている。鎧は泥にまみれ、腕や足には罠による傷が残っていた。
捕虜たちを囲むように立つ連邦の兵士たちは、敵を睨みつけながらもその処遇に困惑していた。中心に立つレオンは、部隊長として捕虜の運命を決定する重責を負っていた。
「どうする、レオン?」
副官が小声で問いかける。周囲では連邦兵が槍を構えたまま、捕虜たちを睨みつけている。
「処刑が妥当だろう。奴らを生かしておけば、こちらの情報が漏れるかもしれない」
別の兵士が言うと、周囲の者たちもうなずく。
だがレオンはすぐには答えず、腕を組んで捕虜たちを見下ろしていた。彼の鋭い目は、彼らの弱った姿を冷静に観察している。
「処刑は最終手段だ。それよりも、まずは情報を引き出す方が賢明だと思わないか?」
レオンが静かに言葉を発すると、兵士たちは互いに顔を見合わせた。
「情報……か。だが、奴らが素直に口を割るとは限らない」
副官が懸念を示すと、レオンは少しだけ笑みを浮かべた。
「それを試すのが俺たちの役目だ。敵の兵士を無駄に殺すのは簡単だが、それでは戦争には勝てない。利用できるものは利用する。それが戦術だ」
そのやり取りを少し離れた場所から聞いていたミレイアは、複雑な表情を浮かべていた。彼女は捕虜に対する非人道的な扱いに心を痛めていた。
「ミレイア、どうした?」
レオンの視線に気づいた彼女は、ため息をついて答えた。
「捕虜を処刑しないのは正しい判断だと思うわ。でも、彼らを情報のために利用することも、なんだか違う気がして……」
ミレイアの声には葛藤がにじんでいた。彼女は、捕虜たちを見下ろしながら目を伏せる。敵とはいえ、傷つき、弱り果てた人々を前に、どう接するべきなのか分からなかった。
「ミレイア、お前の気持ちは分かる。だが、これは戦争だ。お前がどれだけ正義を貫こうとしても、敵は容赦なくこちらを潰しに来る。甘さは命取りになるぞ」
レオンが毅然とした態度でそう言うと、ミレイアは黙り込んだ。
その時、議論を聞いていた颯太が一歩前に出た。彼の目には冷静さが宿り、口調も落ち着いていた。
「少し提案があります」
颯太が静かに口を開くと、全員が彼に注目した。
「捕虜をそのまま処刑するのは愚策だ。利用価値があるのは情報だけではありません。捕虜自体を戦術の一部として使うことができます」
「どういうことだ?」
レオンが眉をひそめて問うと、颯太は続けた。
「彼らに感染力の強いウイルスを仕込みます。そして、わざと逃がすのです。そうすれば、彼らは王国軍に戻り、軍全体にウイルスを広めることになります」
その冷徹な提案に、場が一瞬静まり返る。兵士たちは驚き、ミレイアは目を見開いて颯太を見つめた。
「そんなの……ひどすぎるわ!」
沙織がその場に割り込むように声を上げた。彼女の顔には怒りと困惑が浮かんでいる。
「颯太、あなた、本気でそんなことを考えているの? 捕虜をウイルスで苦しめるなんて、どれだけ非道なことか分かっているの?」
「沙織、これは必要な手段だ」
颯太は冷静に返す。その声には迷いがなかった。
「必要? それが理由になるの? 私たちは異世界に来てまで、人を傷つけるために戦っているの? あなたは医者だったはずでしょう!」
沙織の言葉に、ミレイアも視線を落とした。しかし颯太は感情を揺らすことなく、沙織の目をじっと見据えた。
「沙織、君の気持ちは分かる。でも、これは戦争だ。僕たちが勝つためには、合理的な手段を選ばなければならない。もしこの作戦で王国軍の進行を止められるなら、多くの連邦の命を救える。そのためには、捕虜を利用することが最善の選択なんだ」
沙織はその言葉に反論したかったが、颯太の確固たる態度を前に、言葉を詰まらせてしまった。
レオンは二人のやり取りを静かに見守りながら、最終的な判断を下した。
「颯太の提案には賛否がある。だが、戦術としては確かに有効だ。捕虜たちを利用する案を採用する。準備を進めろ」
その場に緊張が走る中、沙織は悔しそうに目を伏せ、ミレイアも深い溜息をついた。颯太は静かにその場を後にし、次なる準備に取り掛かるため歩き出した。
隔離された捕虜たちは、暗く湿った部屋の中で横たわっていた。負傷の痛みと戦いながら、彼らは恐怖と疲労で動くこともままならなかった。兵士たちの鎧は泥まみれで、その間から覗く肌には傷や擦り傷が無数にあった。
颯太はその場に入ると、冷静な目で捕虜たちの状態を観察し始めた。彼はメモを取りながら、彼らの健康状態や負傷の程度を調べていく。ミレイアは彼の隣で、険しい表情を浮かべて見守っていた。
「颯太……本当にやるつもり?」
ミレイアが問いかける。その声には明らかな不安と迷いが込められていた。
「やるさ。この戦いを終わらせるためには、これが最善の手段だ」
颯太は短く答えた。彼の目には迷いの色はなく、冷徹な決意だけが宿っていた。
「けれど、ウイルスを使うなんて……それはもう医療ではないわ」
ミレイアは必死に訴えるように言う。
颯太は彼女を一瞥し、深いため息をついた。
「確かに、これは医療ではない。でも、医者の仕事は命を救うことだ。そして、連邦の命を救うには、王国軍を削ぐしかない」
彼は捕虜たちに近づき、一人ひとりの脈を取り、皮膚の状態を確認する。
「今から使う能力には、感染力が非常に強いものを使う。俺がいた世界ではインフルエンザと呼ばれていた。発熱、倦怠感、咳などの症状が現れ、短期間で全身に影響を及ぼす。特に、戦場のような過酷な環境では、免疫力の低下が症状を悪化させる」
彼の言葉を聞いて、ミレイアは顔を曇らせた。
「でも、それがどれだけ恐ろしい結果を生むか、あなたは分かっているの?」
「分かっているよ。でも、ここで一人の捕虜を利用することで、多くの連邦の命を救えるなら、それはやるべきだ」
颯太は迷いなく注射器を一本手に取り、捕虜の腕に慎重に針を刺した。捕虜たちは抵抗する気力すら失っており、静かに呻き声を上げるだけだった。
翌日、王国軍の偵察部隊が連邦軍の陣地周辺を調査していた。そして、負傷した捕虜たちが隔離されている場所を発見すると、救出を試みた。
「連邦の奴ら、捕虜をそのまま放置していたのか?」
王国兵の一人がそう呟きながら、仲間と共に捕虜たちを運び出し始める。
「見ろよ、この怪我だ。ろくに手当もされていないじゃないか」
「さすがに連邦も捕虜を持て余していたんだろうな」
彼らは捕虜の状態に同情を示しつつも、油断していた。負傷兵を担いで運び出す王国兵たちの顔には、どこか勝利の余韻が残っている。
捕虜たちは王国軍の後方基地に送られ、手厚い看護を受けることになった。しかし、その場にいた誰も、彼らがウイルスの感染源であることに気づいてはいなかった。
数日後、王国軍内で異変が起こり始めた。最初に体調不良を訴えたのは、捕虜の世話をしていた若い兵士だった。
「隊長、なんだか熱っぽくて……」
彼は顔を蒼白にしながら報告し、その場で倒れ込んだ。
「どうした? 気をしっかり持て!」
隊長が声を荒げるが、その兵士は高熱にうなされ、咳き込むばかりだった。
その翌日には、同じような症状を訴える兵士が次々に現れた。発熱、咳、倦怠感に加え、体中に激しい痛みを感じる者も出てきた。感染は瞬く間に広がり、医療施設は悲鳴を上げるほどの患者で溢れ返った。
「これは一体、どういうことだ!」
王国軍の医療担当者が叫びながら、患者を次々に診察するが、原因を突き止めることができない。
医療施設には、回復魔法のスペシャリストであるエリアスが呼び出された。彼は次々に魔法を使い、症状を抑えようと試みた。
「治癒の光よ、彼らを癒せ!」
彼が呪文を唱えると、患者たちの苦痛は一時的に和らいだかのように見えた。しかし、それも長くは続かない。症状はすぐに再発し、兵士たちは再び苦しみ始めた。
「魔法が効かない……?」
エリアスの顔に焦りの色が浮かぶ。彼はこれまで回復魔法でどんな病も治してきた。しかし、今回ばかりは何もできない無力さを痛感する。
王国軍内では、捕虜を利用した罠だという噂が広がり始めた。誰からともなく、「異界の医者が仕掛けた呪いだ」という声が上がる。
「まさか、連邦に追放されたあの医者の仕業か……?」
「奴の呪いは、こんなところまで及ぶというのか……」
その噂は士気を崩壊させ、兵士たちの間に恐怖が蔓延した。病に倒れ、うめき声を上げる仲間たちを前に、誰もが自分の命を守ることで精一杯だった。
そしてついに、エリアスでさえもこう呟いた。
「これが、奴の力なのか……」
その言葉は誰にも聞こえないように呟かれたが、王国軍の中に深い疑念と絶望を残した。
王国の中央に位置する教会の大聖堂。その高くそびえる尖塔は、まるで神の絶対的な力を象徴するかのようだった。だが、内部では緊張感が漂っていた。王国軍の部隊が謎の病により壊滅状態に陥ったという報告が届き、その影響が広がりつつあった。
最前線で感染の影響を目の当たりにした兵士たちの間では、魔法に対する不信感が芽生えていた。回復魔法の限界が露呈し、神聖なる力に対する揺るぎない信仰が崩れ始めていた。
「どうしてだ……回復魔法が効かないなんて、こんなのあり得るのか?」
倒れた兵士を支えながら、一人の若い兵士が呟いた。
「魔法は万能だと教えられてきたのに……俺たちは神に見捨てられたのか?」
彼の言葉に、周囲の兵士たちは押し黙る。彼らの目に浮かぶのは恐怖と不安、そして苛立ちだった。
感染症による衰弱は隊の士気を奪い、兵士たちは次々に立ち上がる気力を失っていった。
教会では神官たちが会議室に集まり、問題の深刻さを討論していた。だが、彼らの多くは現実を直視しようとせず、回復魔法が効かない事態を認めようとしなかった。
「回復魔法が効かないなどという噂は、敵の陰謀に違いない。信者たちが惑わされる前に手を打つべきだ」
白髪の神官が苛立たしげに叫ぶ。
「だが、現場の報告では明らかに魔法が無力化していると言っている。これは……これまでにない脅威だ」
若い神官が静かに反論したが、年長者たちは耳を貸そうとしない。
「魔法は神から授かった力だ。それが無力になることなどあり得ない!」
彼らは目を血走らせながら言い張り、結論を出そうともしなかった。
同じ頃、王宮の大広間では貴族たちが集い、王国軍の危機について議論を交わしていた。
「我が軍がこうも簡単に壊滅させられるとは……」
一人の貴族が額に手を当てながら呟いた。
「これは単なる病ではない。我々が異界から召喚した医者――篠宮颯太の呪いだ」
別の貴族が拳を握り締めて声を上げる。その言葉が波紋を呼び、広間の空気が一気に張り詰めた。
「呪い、だと? 異界から来た者が王国に仇なすというのか?」
「そうとしか考えられん。奴を追放したことが、あの呪いを解き放つ結果を招いたのだ!」
貴族たちは一斉に騒ぎ始め、会議は混乱に陥った。最終的に、議長が鎮静の鐘を鳴らし、場を収めた。
「皆の者、静まれ。確かに颯太が脅威であることは明白だ。彼をこのまま放置すれば、王国そのものが危機に陥るだろう」
「では、どうする?」
「奴を排除するしかない。いかなる手段を使ってでもな」
貴族会議は颯太を王国最大の脅威と見なし、排除を最優先とする結論を下した。
会議が進む中、部屋の片隅で沈黙を守っていたリリスは、冷静さを保ちながらも胸の内で葛藤していた。
(魔法が効かない……これは、魔法そのものの限界を意味しているのだろうか?)
彼女は魔法のスペシャリストとして、この状況にどう対処すべきかを考え続けていた。回復魔法に頼るだけでは限界があり、異界の医者が持つ知識と力を無視できないことを理解していた。しかし、彼女の立場ではそれを口にすることが許されなかった。
(颯太が敵になった今、私はどうするべきなの……?)
彼女の心には、罪悪感と責任感が入り交じっていた。
一方、感染はさらに広がり、王国軍はもはや戦うどころではなかった。発熱、嘔吐と下痢で衰弱した兵士たちは動けなくなり、次々と倒れていった。
「くそっ、このままでは全滅する……撤退しろ!」
指揮官が声を張り上げるが、その命令を実行できる兵士はほとんどいなかった。
「無理だ……足が動かない……」
「もう……だめだ……」
兵士たちは地面に崩れ落ち、意識を失っていく。撤退を試みた一部の兵士も、力尽きてその場で倒れてしまった。
「これは颯太の呪いだ……!」
兵士の一人が震えながら叫ぶと、その言葉が他の者たちにも伝染するように広がっていった。
「奴を追放したから、こんなことになったんだ……」
「こんなの戦争じゃない……地獄だ……」
その噂は兵士たちだけでなく、王国の民衆にも広まり始めた。呪いへの恐怖が広がり、国全体の士気が低下していく。
王国は、未知の恐怖に包まれ、戦争そのものの正義が揺らぎ始めていた。
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