第30話 戦争の始まり

 森の中、湿った土と木々の香りが漂う静寂の中で、連邦軍の獣人たちは待機していた。レオン・ドゥルガーはその先頭に立ち、部隊を見渡しながら厳しい目を光らせている。獣人たちはみな、緊張と覚悟の入り混じった表情を浮かべ、森の奥から聞こえてくる王国軍の足音を待ち構えていた。


「全員、準備はいいな?」

 レオンの低く響く声が静寂を破る。彼の狼の耳がわずかに動き、敵の接近を敏感に察知している。


「いつでもいけます!」

 若い兵士が勢いよく答えた。その声に応えるように、他の獣人たちも小さく頷き、鋭い目で前方を見つめた。


 レオンは部隊の中央に歩み寄り、拳を強く握りしめて天に掲げた。

「俺たちはただの兵士じゃない! この地を守る獣人の誇りを持つ者だ。王国軍が何だろうと、この森を渡すわけにはいかない。ここは俺たちの故郷だ!」


 彼の力強い言葉に、兵士たちから静かな熱気が広がる。

「王国軍は人数で勝る。だが、俺たちには森がある。この森を最大限に活かし、敵を混乱させ、弱らせる。それが俺たちの戦い方だ」


 レオンの目は鋭く光り、兵士たち一人一人の顔を見渡す。

「敵を恐れるな。俺たちには力がある。足を使え、爪を振るえ、そして心を燃やせ。俺たちは負けない!」


 その言葉に、部隊全体の士気が一気に高まった。獣人たちは拳を握りしめ、牙を見せる者もいれば、尾を揺らして戦いの準備を整える者もいた。


 部隊は素早くそれぞれの配置に散らばった。森の中の木々や茂みを利用し、目立たないように潜む。地形を熟知した獣人たちは、敵がどのルートを通っても必ず攻撃を仕掛けられるように、巧妙に隠れ場所を選んでいた。


「目標は一撃で仕留めることだ。無駄な動きをするな」

 レオンは最後に念を押しながら、自身も影の中に身を潜めた。その体勢からでも、彼の目は闇を見通すように鋭い。


 近づいてくる王国軍の音が次第に大きくなる。鎧がぶつかる音、指揮官が叫ぶ声、そして重い足音が地面を揺らし、森の静けさを破っていく。


「……来たぞ」

 レオンが小声で呟き、周囲の獣人たちが一斉に緊張を高める。


 王国軍の兵士たちは整然とした列をなして森の中を進んでいた。その表情は油断しているようにも見え、先日の勝利に浸っているかのようだった。


「こんな森で連邦が何をできる? 隠れる以外に手はないだろう」

 兵士の一人が笑い声を上げた。それを聞いた他の兵士たちも、同じように鼻で笑う。


「確かに。俺たちが進めば、あいつらは追い払われるだけさ」

 指揮官らしき男が声を張り上げた。彼は鋭い目で前方を見据え、進行の指示を出しているが、その態度はどこか慢心が感じられる。


 その瞬間――


「今だ!」

 レオンの鋭い声が響き渡り、獣人たちが一斉に動き出した。


 獣人たちは木々の間から姿を現し、驚くほどの速さで王国軍に飛び込んだ。鋭い爪で武器を弾き、隙を見つけて兵士たちを地面に叩きつける。


「ぐあっ!」

 最前列の兵士が悲鳴を上げ、その音が他の兵士たちの動揺を誘う。


「な、なんだ!? 敵だ! 敵が現れたぞ!」

 後列の兵士が叫ぶが、その声が届く前に、別の獣人がその兵士に襲いかかる。


 レオンは先頭に立ち、鋭い咆哮を放った。その音波が周囲の兵士たちを揺さぶり、一瞬の混乱を生み出す。

「獣人たちの力を思い知れ!」


 王国軍は次第に混乱し始めた。整然としていた隊列は崩れ、各兵士が恐怖に駆られて動き始める。


「落ち着け! 陣形を整えろ!」

 指揮官が叫ぶが、その声も混乱の中で掻き消されていく。


 森の中で展開された奇襲は完全に成功した。王国軍は明らかに動揺し、その勢いを失いつつある。レオンたちは、これ以上長引けば自分たちの不利になることを理解しており、すぐに撤退の合図を送る。


「全員、次の段階に移れ!」

 レオンの声に応じて、獣人たちは素早く姿を消し、森の奥へと撤退を始めた。


 奇襲を受けた王国軍は、その場に立ち尽くし、混乱した様子で周囲を見回していた。彼らはまだ何が起こったのか完全には理解していなかったが、その中には焦燥と恐怖が渦巻いていた。


 レオンたちの奇襲が始まる前、放棄した拠点に颯太を中心にした4人が集まっていた。


 森を抜けた先にある放棄された拠点。その周囲には、無人の建物と荒れ果てた風景が広がっている。颯太たち4人は、その場所で王国軍を迎え撃つための準備を進めていた。空には薄雲がかかり、どことなく陰鬱な雰囲気が漂う。


「ここが例の拠点か……」

 ガルスが低い声で呟き、辺りを見回した。頑丈そうな建物の残骸や散乱する道具類が目につく。その中には、王国軍を誘い込むための罠が巧妙に隠されている。


 颯太は手に持った道具を確認しながら頷いた。

「罠は仕掛け終わったけど、これだけじゃまだ不十分だ。ミレイア、植物を使ってさらに隠すことはできる?」


 ミレイアは軽く頷き、手を差し出した。彼女の能力「薬草の精霊」が発動すると、周囲の植物が静かに揺れ、彼女の意図に従って動き始める。


「この辺りの植生を変えれば、罠が見えないどころか、自然の風景に溶け込ませることができるわ」

 ミレイアはそう言うと、茂みや低木を操作し、罠の上に覆いかぶさるように植物を配置していく。その手際は見事で、罠の存在を完全に隠してしまった。


「これなら、どんなに警戒している兵士でも気づかないだろうな」

 ガルスが感心したように呟きながら、さらに補強作業を進める。


 沙織は少し離れた場所からその様子を見つめていた。彼女の表情には不安の色が浮かんでいる。

「颯太、本当にこんなことをしていいの……?」


 その問いに、颯太は手を止めて沙織を振り返る。

「沙織、分かってる。これが正しいかどうかなんて、僕自身も分からない。でも、僕たちが生き延びるためには、これしか方法がないんだ」


 沙織はその言葉に黙り込むしかなかった。颯太の表情には決意が宿っており、彼の心が揺るがないことを理解していたからだ。


 森の奥から聞こえてくる騒音が次第に大きくなってくる。連邦軍が仕掛けた奇襲が成功した証拠だ。王国軍が混乱している様子が、時折響いてくる怒号や悲鳴から伝わってくる。


「奇襲は成功したみたいね」

 ミレイアが冷静に状況を確認し、植物操作を始める。手をかざすと、森の中の木々や茂みが動き出し、道の形を徐々に変えていく。


「この迷宮みたいな道を作れば、混乱した王国軍は自然とここに誘導されるわ」

 ミレイアがそう言いながら、植物をさらに操作する。その動きは流れるように滑らかで、すぐに森の中が完全に見慣れない風景へと変貌していく。


「見事だな。これなら、奴らが迷うのは間違いない」

 ガルスが頷き、周囲の準備を確認する。


 その時、遠くから王国軍の一部隊が近づいてくるのが見えた。兵士たちは完全に混乱しており、統率が取れていない。道に迷い、命令を叫ぶ声が飛び交っている。


「よし、あのまま誘導できれば計画通りだ」

 颯太が低い声で指示を出す。


 混乱した王国軍の兵士たちは、植物で作られた迷路のような道を進み、自然と放棄された拠点に誘導されていった。

「くそっ、この道はどこに繋がっているんだ!」

「ここが安全だって本当か?」


 兵士たちは疲労し、疑心暗鬼になりながらも、目の前に現れた拠点を見て、自然とその中に足を踏み入れていく。そこには、罠が仕掛けられた食料や物資があたかも放置されたように配置されている。


「ここに食糧があるぞ!」

 一人の兵士が声を上げ、それを聞いた他の兵士たちも次々に食糧へと手を伸ばす。


 遠くからその様子を見ていた颯太たちは、王国軍が罠にかかったことを確認し、静かに頷き合った。しかし、沙織の表情には深い苦悩が浮かんでいる。


「これで、王国軍が弱体化する……本当にそれでいいの?」

 沙織が小さな声で呟く。


 颯太はその言葉に耳を傾けながらも、冷静に答えた。

「正しいかどうかは関係ない。僕たちはただ、生き延びるために戦っている。それが現実だ」


 沙織は何も言わず、目を伏せた。その胸には、戦争の現実と自分の信念との間で揺れる思いが渦巻いていた。


「準備は整った。次に進もう」

 ガルスが静かに言葉を発し、全員がその場を離れる準備を始めた。


 颯太たちは、罠が完全に作動したことを確認し、静かにその場を後にした。その背後には、罠にかかった王国軍の姿が残されている。彼らはまだ、自分たちがどれほど危険な状況にいるかを理解していない。


 作戦は成功した。しかし、それがもたらす結果が、彼ら自身にどのような影響を与えるのかは、まだ誰にも分からなかった。

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