第14話 大和と慎吾
イルミネーションが青白く散りばめられた土曜の夜の都会は、しんと冷え込んでいる。地下鉄の駅から目的地まで徒歩五分、慎吾はこの程度で息が上がる自らの体力のなさを憂えていた。白い息が、ハイテンポで繰り出されていく。
リュックに入っている荷物と右肩に下げたカメラ入りのバッグはさながらダンベルと言ったところだろうか。なだらかな登り坂という負荷を加えてすっかりトレーニングをしている気分になってきた。太らなければいいと思っていたがやはり筋肉も持久力も欲しい。鍛えなきゃな、ともう何度目か分からない誓いを立ててせっせと坂を登り続ける。
細長い雑居ビルに到着した時には結構な消耗を感じていたが、頑張った甲斐あって大事なパートナーである大和のサロンに約束より少し早めに着くことができた。ひとつ大きく深呼吸。
ビル入口の自動ドアを抜けるとすぐにエレベーターがある。二、三人で一杯になりそうな極小エレベーターホールに足を踏み入れた慎吾は、足下に蹲る人影を見つけて驚きのあまりカメラの入ったバッグを取り落としそうになった。
「わ、びっ……あれ」
叫びかけたがよく見ると覚えのある髪色、体格、コートだ。こちらの声に気がついて上げた顔はやっぱり知った人だった。
「柊平。こんなところでどうしたの?」
「慎吾! 慎吾こそなんでここに?」
「これから大和の動画撮るんだ。で、柊平は何してるの?」
柊平とは大学入学時以来の親友だけれども、こんなところで突然会えば流石に驚く。それも明らかに訳ありな顔をして蹲っているとなれば尚のこと。
慎吾はひとまずその場に荷物を下ろし、自らも腰を下ろした。慎吾と柊平と荷物でエレベーターホールは満員になってしまったけれどやむを得ない。
このビルにいるなら大和に会いに来た可能性が濃厚だが、この状態の柊平をエレベーターに乗せてはマズいと感覚的に分かる。どうせ大和と柊平の言い合いは柊平が負ける、と言うより大和に口で勝てる男をあまり見たことがない。今すでに何らかのダメージを負っている柊平を三階に連れて行って、さらに打ちのめされる姿は見たくなかった。
だから、まずはここで話を聞こうと思った。
◇◇
「えっ、タツキくん来たの? 会いたかったなあ」
タツキという名前は以前飲んだ時に柊平から聞いていた。
思い人。
ゼミの集まりに前乗りした時に話が途中で終わってしまったので、二次会を抜けて大和を含め三人で飲み直し、じっくり聞かせてもらった。タツキについて話しながらまるで風船が膨らんだりしぼんだりするみたいになる柊平を見るのは正直楽しかった。もしくは可愛くて心が和んだ。十年ぶりの恋。
柊平の話を聞いて慎吾はタツキという五歳下のお姫様みたいなイメージを抱いてしまったのだけれど、実物はどんな人なのかとても気になっていた。これは後で大和からなんとしても話を聞かなければならない。
それにしてもふたりでここに来たなんて、つまり柊平は好きな人と一緒に週末を過ごしていたということだ。そこからどうするとこんなにしょげてしまうのだろうか。
「で? 大和にカットしてもらった後何があったの」
そこから一部始終を聞き終えた頃、慎吾はなんというか、とても微笑ましい気持ちで柊平を見ている自分に気が付いた。だって三十の男が好きな子に突然キスされて逃げ出してきたのだ。可愛いったらない。
「うん、びっくりしたんだね」
「馬鹿にしてる?」
「してないよ。えーと、こないだの飲み会あったでしょ。あの後大和と話してたんだ」
口を尖らせる柊平を前に、慎吾はなるべく話が拗れないよう慎重に言葉を選ぶ。
大和は口が悪いけれど悪人ではない。むしろ柊平のことはちょっと妬けるぐらい大切に思っている。でも彼の言葉をそのまま伝言するとあっさり傷付けてしまうこともあるから気を付けなければならなかった。
「柊平は長い間我慢ばっかりしてたから、これから徐々に解放されて行くんだろうねって」
大和の辛辣で的を射た直接的な言葉の数々──アイツ勝手に小さく纏まろうとしたけどやっぱり出来ませんでしたってなってるワケじゃん? 自分の中で破綻してんだよ。もういい大人なんだから自力でツケ払って好きに生きろよって思わね?──には慎吾も概ね同意なのだけれど、今気持ちが乱れている柊平に伝えるのは少し酷だ。このままエレベーターに乗って結局大和に言われてしまうのも可哀想だし、そうならないためにももう少し頑張ろうと思った。
「我慢」
「うん。就職も、結婚も、恋愛も。我慢した分これからどんどん楽しくしていけるといいよねって」
「うーん……」
「だってタツキくんは柊平にキスできる人だったってことでしょ? これから楽しい未来しか見えないよ」
あの日飲みながら柊平が話していたのは、タツキは恐らく男を好きにならないと言うことだった。どうやって確かめたのか知らないけれど柊平は確信していて、もう先には進めないと肩を落としていた。それなのに全然気持ちを切り替えられず、あの日もお誘いメッセージに舞い上がりスマホに熱中し過ぎた挙げ句大和に怒られていた。
その姿は、柊平という男が元来何に対しても好きを抑えられない人だったと言うことを慎吾にまざまざと思い出させた。十年もよく封印できていたものだ。
傍から見たら、見た目もよく頭もよく国家公務員にキャリア採用されて皆の憧れの女性と結婚するなんて順風満帆にも程がある。けれどそんな二十代を過ごした柊平が実際に幸せかどうかなんて、本人にしか測れない。大和の言うとおり好きに生きるのがオススメだけれど、柊平の抱える事情は友達であっても不可侵の領域だ。最後は自分で選んでもらわなきゃならない。だからたぶん、絶好のチャンスなのだろう。
柊平が縋るような目で訴えかけてきた。
「やっぱそうなんだよね?」
「オレはそう思うけど、でも柊平が自分でちゃんと確かめた方がいいんじゃないかな」
背中を押すような気持ちで口角を上げ、慎吾は答えた。
確か似たような会話を十年前にもした記憶がある。あの時の柊平は大喜びで飛び込んだのに少し悲しい結末になってしまったけれど、だからと言って今また同じ結末になるかどうかは誰にも分からない。この先どうするかはやっぱり柊平が自分で決めなくちゃならないのだと思う。こちらに出来るのは応援だけだ。
慎吾は重たいカメラを持ち上げながら尋ねた。
「オレそろそろ行くけど、柊平も大和のところに行く?」
「やだよ。何言われるか分かったもんじゃない」
「その気持ち分かる」
「それ慎吾が言ってどうすんの」
「ふふ、調子出てきたね」
エレベーターのボタンを押すとすぐに扉が開いた。乗り込みながらもう一度聞いてみたけれど、柊平はやはり乗らないと答える。
「帰る。ってか、ちょっと行ってくる」
「うん。大和にはここにいたこと内緒にしておくね」
ばいばい、と手を振ったら柊平が大きな目をきゅっと細めて笑った。
「慎吾、ありがと!」
こんな風に笑う柊平を見たのが久しぶり過ぎて慎吾は面食らった。これはもしや、タツキお姫様のおかげなのだろうか。
◇◇
「来たよー」
三階の一番右、ドアを開けながら声を掛けた慎吾を大和が苦笑いしながら出迎えてくれた。
「何その顔、疲れ過ぎ。やっぱフルリモートってのも考えもんだな」
体力なさ過ぎ問題については返す言葉もないなと思いながら、慎吾は差し出された手にカメラの入ったバッグを渡す。リュックを下ろしたところでふと大和の視線を感じ、顔を上げたら意外と顔が近い。あれ、珍しいと思いつつも素直にキスを受けた。普段はこちらから強請るとやれやれみたいな顔でしてくれるタイプなのに。
「どうしたの、大和」
「いや、なんだろう」
バッグを提げたまま、大和自身も自分の行動に説明がつかないような顔をしている。何かあったのだろうか。
撮影には結構な準備がいる。狭いサロンの中にライトやカメラを上手く配置するだけでも神経を使うし、カット台周辺も磨き上げなければならない。とはいえ大和も慎吾も慣れたものだから敢えて何も言わなくても互いにすべきことがわかっている。
テキパキと動きながらも、大和の口数が殊の外少ないことが慎吾は気になっていた。絶対何かあったんだ。いよいよ聞いてみようかと思った頃、漸く大和が口を開いた。
「今日さ、柊平が例のタツキくん連れてきたんだよ。急に電話してきて『ここにお洒落したい人がいるんでよろしく』って謎テンションで」
「へえ、タツキくんが。どんな人だった?」
下で既に聞いた話とは言わず、慎吾は驚いて見せた。来たことは知っていてもどんな人かは知らないのだから是非大和に聞かせてもらいたい。
大和はポケットからスマホを取り出し写真を見せてくれた。絶対公開しないと約束して、自身の研究のためとかなんとか言って彼の帰り際に一枚だけ撮らせてもらったのだそうだ。
ツヤツヤの黒髪がほぼセンターで分かれて後ろに流れるツーブロック。スクエアの眼鏡がとてもよく似合っている。やや丸顔みたいだけれど長めの前髪が流れているおかげですっきり見え、キリッと上がった眉や目と相まってデキる感じに仕上がっている。
もっとふわっふわボーイかと思っていた慎吾は拍子抜けした。全然お姫様なんかじゃない……いや、見た目では決められないのだけれど。表情が「無」なのが気になるものの、とても格好良い。
大和がぼやいた。
「動画撮っていいか聞いたら柊平事務所に断られた。アイツ、マジで煩くてさ。オレはタツキくんに質問してんのに全部アイツが横から答えんだよ。親かよって言ってやったわ」
大和の動画には、モデルがきっちりと顔を晒す。ガラリと変わってイケメンになったりすると視聴数が伸びるしコメントも増えるわけだけれど、そもそもイケメンに仕上がる素養があるかどうかは大和の目が選んでいる。つまりタツキは大和のお眼鏡に適ったということだ。
ただ、そうして動画に出ると顔を覚える人もいて、街で声をかけられることがあるらしい。大和自身もよくじろじろ見られたり話しかけられたりしている。頻繁に髪色を変えるようになったのはその影響だろうと慎吾は思っている。タツキが人目に触れてうっかり人気者にでもなった暁には、柊平は居ても立っても居られなくなるだろう。
「ふふ、大事なタツキくんは僕が守る的な」
頭を抱える柊平を想像しながら慎吾が言えば、大和は肩をすくめた。
「それな。僕のタツキくんじゃなくて大事なタツキくんよ。大事に大事にしたいけど僕のじゃない。ってずいぶんドラマティックな話だねえ」
スマホをポケットに戻しながら大和が乾いた笑いをこぼす。
ああもう、絶対何かあると慎吾は焦れてその肩に手を伸ばした。グレーのカラコンを通してこちらを見る大和に、尋ねる。
「何があったの?」
「……いや、なーんかさ、タツキくん見てたら昔のお前思い出したんだよね」
「オレ? オレお姫様じゃないよ」
「お姫様ってなんだよ。そうじゃなくて、いや待てよ、お姫様、うーん」
煮え切らない大和なんてこの人生でそうそう出会えない。一体どうしたと言うのだろうか。この際だからもう一方の手も伸ばし、大和の両肩を掴んだ。それでも大和が、口から生まれたような大和が、かなり長いこと言い淀む。暫く待っていたら、なんだか根負けしたみたいな顔で話し出した。
「自分のこと大事にしてないっていうの? 来るもの拒まず、去るもの追わず、いつでも身を引きますんでお構いなく、みたいな顔してるんだよな。いや実際は知らんよ? でも傍から見ると、あっコイツここに置いてっちゃダメだみたいな気にさせられるって言うか」
「……初めて聞いた」
「初めて言った」
「オレのことそんな風に思ってたの?」
「むかーし昔のお話」
出会って十年余り、付き合って六年、一緒に住んで三ヶ月になる。それでもまだまだ知らないことは沢山あって、今だから言えるみたいな思いが実は積もっていると知るたび愛おしい。
慎吾はかつて、大和が実は柊平を好きなのではないかと思っていた頃をふと思い出した。頭の回転が速い上に考える速さで言葉にできるふたりがやいのやいのと高速で言い合う時、大和は本当に楽しそうだ。言葉を考えながらでないと話せない自分は鈍くていつも蚊帳の外だと感じ、きっと大和にとって自分は物足りないのだろうと諦めていた頃があった。だから大和が近づいて来ても気を遣わせないよう言葉を選んでは避けていたあの頃。確かに、自分がどうしたいかという気持ちは後回しだった。
聡い大和に気付かれていたのかと思うと少し面映いけれど、事実大和が根気強く声を掛け続けてくれたから何年も経て漸く付き合うようになったのだった。ちょっと胸の奥が暖かくなる。
大和が慎吾の腕を掴んで突然引っ張ったので慎吾はぐらりと引き寄せられた。今日の大和は少しセンチメンタルなのかもしれない。もう一回キスを受けながら、けれどそんなことを言ったら照れて口数が増え過ぎてしまうと思いただ微笑む。
「さてと、準備終わらせるぞ」
「うん」
再び動画撮影のセッティングに戻りながら、慎吾は階下で交わされた会話を密かに思い起こす。もしタツキが本当に大和の言うとおり自分を大切にしていなくて人に執着しないのならば、果たして柊平にキスを仕掛けたりするだろうか。ますますどんな人なのか気になって来た。
漸く柊平を元気にしてくれる人が現れたのだ。是非上手くいって欲しい。
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