月光に狂った世界に明日は来るのか
ミチシルベ
第1話 牢獄
目を覚ますとそこは牢獄だった。
およそ学校の教室程の広さの空間に、あるのは黒ずんだござのような敷物と擦り切れた布切れ。部屋の角には底の見えない直径15センチほどの穴。何より目の前の鉄格子がこの場所を牢獄だと根拠付けていた。
牢屋は薄暗く、通路を挟んで反対側にも鉄格子があることは何とか分かるが中が視認できない。
「何が起こって……」
どうなっている? 俺は犯罪を犯した記憶も警察に捕まった記憶もない。そもそも俺はさっきまで学校の教室で授業を受けていた筈だ。
その証拠に俺の服装は見覚えのある自身の高校の学ランで、手には授業中使用していたシャーペンが握られていた。
意味が分からない状況で頭が混乱する。しかし、一つだけ分かる事がある。
――この場所はヤバい。
空間に充満した吐瀉物の様なすえた臭い。目が慣れた事で見えてきた壁にある黒いシミの数々。よく見れば所々に小さな蟲が這い回っている。
日本の刑務所がどうなっているのか写真で見た事はあるが、決してこの様な不衛生な場所ではなかった。
ここは人が居ていい環境じゃない。それにさっきから何かに見られているような……いや、考えすぎか。何にせよ早くここから脱出すべきだ。生存本能がそう叫んでいるのを感じる。
「っても……どうやって出ればいいんだよ」
試しに鉄格子を思い切り蹴り上げてみる。が、返ってくるのは通路に響く鈍い金属音のみ。とてもじゃないが生身で破壊はできそうにない。
それに鉄格子に近づいて初めて気が付いたが、この鉄格子には扉がない。ならば俺はどうやってこの中に入れられたのか。少なくとも部屋の中にどこか出入り口にあたる部分があるはずだ、でなければ可笑しい。
そう思い部屋を探索する。探索といっても物が無いため時間はそう掛からなかった。どこにもそれらしき場所は見当たらない。
しかし、壁に近づき目を凝らしていると、一部に細かい傷の様なものが付けられているのを発見する。それが文字である事に気がついたのは少し遅れてであった。そこには短くこう書かれていた。
『心を揺らすな』
「心を……揺らす? どういう――」
――その時だった。遠くから何か重いモノを引きずる様な音が聞こえた様な気がした。
……ずるり。
疑惑は確信に変わる。確かに何かが近づいて来る。
次第に音は大きくなり、音の中にネチャリとした粘性の強い音が混ざり始め、そしてそれに伴って腐敗臭の様な臭いも一層強くなる。
俺は思わず息を止めた。隠れないと……隠れる――って一体どこに?
逃げ場がない。そのことに気づいた俺は自然と手足が震え出し、その場に立っているのもやっとだった。そうしてる間にも音は近づき、遂には隣の牢の前にまでそれが到達する。
――ずるり。目の前に現れたのは化け物であった。
通路ギリギリの大きさの巨大なミミズ。その体表はまるで挽肉を適当に繋ぎ合わせた様な外見で、所々から職種の様な管が垂れ下がっている。加えて、肉と肉の継ぎ目からは光沢のある粘液が滲み出していた。そして、体表から垂れる触手の一つが蠢き、鉄格子の間を縫って中に躙り入ってくる。
声が出ない。人は本当の恐怖を感じた時何もできないのだと知った。
俺は可笑しくなってしまったのだろうか。まるで悪夢に囚われてしまったかの様な……。俺は両手を組み、目をこれでもかと強く閉じて体を震わせた。
にちゃり。何かドロリとした生暖かいモノが頬を掠めた。すぐそばにソレはいる。俺はただ祈った、早く夢から覚めます様にと。
音が少しずつ遠ざかっていく。
「――っ、行った……のか?」
恐々と目を開けるとそこに先ほどの化け物は存在しなかった。
ただ変わりに目の前に奇妙なモノが置かれてあった。形容しがたい肉の塊。ちょうど拳ほどの大きさのそれは、独特の光沢を放ち、ドクドクと脈を打っている。
俺は何故かそれから目が離せなかった。その肉の塊はとても魅力的で、どこか懐かしく、そして――とても美味しそうであったから。
気が付けば自然と肉の塊に手を伸ばしていた。鼓動の高鳴りと共に咥内に唾液が溢れ喉を鳴らす。我慢できない。俺は大きく口を開けてそれを運ぶ。
「い、いただきま――」
――刹那、先ほど見た『心を揺らすな』という文字が脳裏によぎる。
俺は咄嗟に反対の手に握ったシャーペンで自身の手の甲に突き刺した。
「っ! ぐゔぇ……はっ、はぁ……!」
痛みより先に込み上げてきたのは強烈な吐き気。流血と共に少しずつ正気が戻てくる。
「何なんだよ! クソっ、俺は何でこんなもの食おうとしてんだ!」
俺は肉塊を壁に叩きつけた。肉塊はべしゃりと音を立てて壁にぶつかり、まるで死にかけの虫のようにびくりと跳ねると動かなくなった。
こんなもの食べようしてたなんて真面じゃない。この文字だ、この文字に助けられた。壁に刻まれたこの文字を思い出さなければ俺は今頃……。恐怖で背筋が冷える。
命の恩人であるそれに感謝を込めて、そっと壁に刻まれた文字を撫でた。次の瞬間、文字が青白く光る。
「なっ! 今度はなにが起こって――」
俺は文字の内容が変わっていることにすぐに気が付いた。
『抗いし者よ 汝に踏み出す力を』
そして、足元に筒状に巻かれた紙が置かれていることに遅れて気が付く。
「意味わかんねえ……力って。これを読めってことか……?」
紙を恐る恐る拾い上げる。それは俺のよく知る紙の素材ではなかった。テレビで見たことがある、確か……羊皮紙とか名前だった気がする。紙は軽く紐を結び閉じられており、紐は簡単に取ることが出来た。
どうする。またさっきの様に頭が可笑しくならない保証はない。……いや、読む以外の選択肢はないか。このままじゃ牢屋の中で死ぬのを待つだけだ。
「ええい! ままよ!」
中に書かれていたのは知らない言語だった。日本語でも、英語でのない。――それでも内容が自然と頭に入ってきた。無理やり脳みそに叩きこまれるような感覚。
「っ! やめっ……ろ!」
頭が割れそうだ。……魔術……一歩、視界に、移動できる……?
【渡りの一歩】
目を開いた瞬間。身体は動いていないにも関わらず、一歩前に進む感覚。そして気づいた時には俺は牢の外に立っていた。
頭が軋む。脳みそを直接触られたかの様な不快感だ。そして俺は奇妙な事に、この移動がどのような原理で行われたのか理解している。
「ハハッ、魔術って……あり得ねえだろ……」
あり得ない。ここに来てからの全てが俺の常識外の出来事だ。牢屋に入れられている事も、化け物がいる事も、あの奇妙な肉塊も、ましてや魔術だ? おいおい、俺はゲームの中にでも入っちまったのかよ。
どんだけ現実逃避しようと、これは現実で既に事は起こってしまっている。常識は崩れ、世界の理は変わってしまった。だが一つだけ確かな事がある。
「……死にたくねぇな」
言葉は自然と口から溢れた。
欲しいゲームがあった。来週発売される漫画が楽しみだった。友達と遊ぶ約束もしていた。母ちゃんにまだ親孝行してない。それに、まだ彼女が出来た事も無いんだぞ。やりたい事、やり残した事山程あるんだ。こんなシミ垂れた所で死んで堪るか。
「絶対生きて帰ってやる」
決意を胸に俺は一歩前に踏み出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます