瑞兆舞う
発案は、エティエンヌの病が峠を越した、あの朝だった。
「おまえの声が力になった。神の一皿は、確かに私に勝利をもたらした……ありがとう」
朝日の中、少しばかり力を取り戻したエティエンヌは、そう言って笑った。
勝ったのはエティエンヌ自身の力だった。あの神経質な少食の王子は、いつしか死病に自ら打ち勝つまでに強くなっていたのだ。俺の目頭はじわりと熱くなった。おそらくは隣に立つジャックも。
今はゆっくり養生させたかった。だが休めと言ってやると止められた。
「できればこの状況を有効活用したい。私の病については、城下にも敵陣にも噂が広がっているだろう……何らかの計略を仕掛けたい」
「とはいってもなあ」
首をひねりつつ周りを見れば、前夜に供した麦粥の椀があった。刻んだ
「
その説明だけで、エティエンヌはすべてを察したようだった。
「眠るのはいいが、望んだ時に起きられるのか?」
「寝覚めをよくする
「ならば、それも在庫はあるのか……」
柔らかな朝日の中、俺・エティエンヌ・ジャックの三名がすべての計画を立案した。
必要な文書を用意し、敵陣へ斬り込む精鋭を選抜し、不測の事態への備えを幾通りも想定し、最後に俺が
白磁のカップに口をつける時、エティエンヌは静かに笑っていた。決意の裏に、隠しきれない緊張の色があった。
やがて仮死状態になった身体を、俺とジャックが棺に入れ「死化粧」を施した。つまり小麦粉を水に溶いて、
「幼い頃、殿下が道化をおもしろがりましてね。顔に揃いの模様を描いてさしあげたことがあるのです。不意に思い出しまして」
従者殿に笑顔が戻ったのは、素直に喜ばしかった。
もっとも、その笑いが続くかどうかは、作戦の進行次第ではあった。
貴族連合軍本陣。俺とエティエンヌを守るように、儀仗兵姿の精鋭六人が周りを囲んでいる。
俺は右手に炎を宿らせつつ、高らかに宣言した。
「無益な殺生は好まねえ。降伏するなら今のうちだぜ!」
眼前のベルナールは、当初の困惑から回復しつつあった。すさまじい目つきで俺たちをにらみつけ、指をさす。
「文書の前提条件が崩れた? ならば、ふたたび充足すればよいだけのこと」
虚勢じみた笑いを伴った、高い叫びがあがる。
「討ち取りなさい、僭主エティエンヌを! それで、すべてはあるべき状態に戻る!!」
降伏勧告を無視し、敵兵がなだれ込んでくる。不本意だが予想通りだ。戦わねばならない。
精鋭兵たちが、一斉に眼前へ火を放った。瞬時に周りが火の海になる。
本陣を包む火の海。矢継ぎ早に打ち出される炎。敵兵たちは近寄れない。
ベルナールは炎の輪の中、へたり込んでいた。乱れ飛ぶ炎の矢に腰を抜かしたようだ。泥水の中の魚のように、口をぱくぱくと動かしている。
「じゃあな」
俺は掲げた手に力を集めた。なおも何か言おうとするベルナールへ向け、炎の槍をかたちづくる。
無様に震える姿の向こうに、懐かしい幻が見えた。白い軍服をまとった堂々たる偉丈夫。この国を覆う冷たい支配の元凶。かつて確かに「友」と呼び、呼ばれた者。
鋭い眼光が俺をにらむ。おまえに私が
ああ、打ち払うとも。おまえが遺したなにもかもを。
炎の槍を、振り下ろす。
すさまじい断末魔があがった。精緻な刻印が施された革胸当てが、刺繍入りの黒い陣羽織が、炎に包まれた。
混乱する敵陣中で、俺は掌を天高く掲げ、真上へ向けて炎を撃った。二発、三発。天高く上がった赤い光は、状況を伝える狼煙だ。
炎で道を作り、王都城門へ向けて駆ける。
いくら事前に腹いっぱい食べたとはいえ、火蜥蜴のマナには限りがある。尽きないうちに王都守備部隊本隊と合流する必要があった。
手筈通りなら今頃、ジャックがエティエンヌの「遺言」を、守備部隊と市民たちに伝えているはずだ。
『我が愛すべき、王都ブリアンティスの市民たちへ
我が病状について、心配をかけたことを深く詫びる。私の回復を願い、祈りを捧げてくれた者も多いと聞き及んでいる。すべての真心に深く感謝する。ありがとう。
また我が安否について、虚偽の公表を行ったことも謝罪する。
私は生きている。だが生きたままでは、敵陣深く侵入することは叶わなかった。従って私は、死を偽り敵の懐へ飛び込むことを決意した。
市民たちよ、私は必ずベルナールを討ち果たす。彼の首級と共に生きて戻ってくる。
ゆえに願う。
戦える者たちは立ち上がり、私と共に戦ってほしい。
戦えぬ者たちは、可能なかぎりにおいて戦士たちの手助けをしてほしい。
私は命を賭して、未来への道を切り開く。願わくは後に続いてほしい。
王都ブリアンティスの市民に、そしてフレリエールの国土と人民に、天の祝福があらんことを。
エティエンヌ・ド・ヴァロワ記す』
前方から鬨の声が聞こえる。白服の王都守備部隊と、黒服の貴族連合軍とが激しく戦っていた。白い方が押され気味だ。
が、幾筋もの炎が黒服の背を射抜けば、形勢は逆転した。
白服は色めき立ち、混乱する黒服を押し返し始めた。混戦の中、黒髪の青年がひとりエティエンヌへ駆け寄ってきた。ジャックだった。
「殿下! よくぞ、ご無事で――」
顔をぐしゃぐしゃにして泣くジャックを、エティエンヌは優しく抱き寄せ、髪を幾度も撫でた。白無地の死装束をまとった立ち姿が、聖者と見紛うほどに神々しい。
とはいえ今は、まだ戦場の真ん中だ。
「再会を喜ぶのもいいが、まだ戦いは終わってねえぞ」
言いつつ背後の様子を確かめる。と、はるか遠方に砂煙が見て取れた。
幾人もの伝令が、王都へ向けて馬を走らせている。一騎がエティエンヌに気付き、馬上から敬礼をする。
「西海岸の援軍、到着いたしました! 現在、貴族連合の後方部隊と戦闘に入っております!!」
俺とエティエンヌとジャック、三人で顔を見合わせ笑う。
開戦前、エティエンヌは西海岸の諸侯と密に連絡を取り合っていた。取り交わした情報のうちには暗号表も含まれていた。すなわち王都包囲後、双方が連絡を試みる際に用いる合言葉だ。これにより、伝令が途中で敵に拘束された場合も内容を漏らさずにすむ。
暗号は時候の挨拶の形をとっていた。書き込む植物の種類が伝達内容を、数が時期を示す。
たとえば以下の文言は「今日この時間」での「総攻撃」を意味している。
『晩秋の折、五輪の白い
内と外から攻め立てられた貴族連合軍が、混乱のうちに瓦解していく。
俺は精鋭兵たちと共に、全力で味方を支援した。黒外套の下で大量に隠し持っていた、火蜥蜴肉の炙り焼きを食べながら。食べながら戦うのは、当初少し抵抗も感じた。だが戦場の熱気の中で、ささいな引っかかりはすぐに消えてなくなっていった。
やがて王都城門の周辺から、敵兵力は一掃された。
数で依然勝るはずの貴族連合軍は、完全に統率を失っていた。王都守備部隊と西海岸の援軍とに残存兵力の追討を任せ、俺とエティエンヌは王都へ帰還した。
門をくぐると、俺たちを迎えたのは市民の歓声だった。エティエンヌの名を呼ぶ熱い声、そして祝福の歌声。エティエンヌは死装束のまま手を振って応えた。
だが不意に、ゆっくりと長身が傾いだ。抱き止めてやると身体が熱い。
考えてみれば、病み上がりですらなかった。小康状態の病身をおして無理に出てきたのだ。あれだけ激しく動いてしまえば、また体調は悪化しかねない。治癒の手段がない現実は、なんら変わっていない。
市民へ笑いかけるエティエンヌを、肩を組んで支えてやりつつ、俺は密かに途方に暮れた。
不意に周りからどよめきが上がった。人垣が一斉に上を見ている。
俺も顔を上げた。
王都の上空を悠然と飛ぶ姿があった。堂々たる炎の翼と尾をなびかせながら、ゆっくりと上空を旋回する姿を、かつて俺は見たことがあった。
「大いなる
優れた王が現れた時、人々の歓喜に応えて姿を見せる瑞兆の鳥。人々の熱狂と興奮に包まれながら、俺は不意に気付いた。
身の内にマナが湧いている。いや、外から浴びせられている。
大いなる
俺は、エティエンヌの身体をジャックに預けた。自由になった五体を、鳥へ向けて大きく広げる。
――マナをよこせ。癒しのマナを!
神の料理人は、マナを人が摂れる形へ変化させる者。ならば俺は浴びたマナを、人を癒す力へ変えられるかもしれない。
市民の声に応えるかのように、瑞兆の鳥は王都上空を長く飛び続けた。やがて鳥が去った頃、俺の身の内には温かな魔法の力があふれていた。
――いける、これなら。
エティエンヌの身体をジャックから受け取る。しかと抱き締め、力を流し込む。
――おまえが呼んだ鳥だ。おまえが勝ち取った力だ。
――今度ばかりは、おまえのためだけに使ってもいいだろう?
抱き返してきたエティエンヌの手に、確かな力が宿っていた。
涙が、あふれてきた。
俺はさらに強く、背を抱く手に力を籠めた。市民の歓声は、尽きることなく天へこだましていた。
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