3 まりあ・すみす
三、まりあ・すみす
血塗れの少女、両足の千切れた男、腹が裂けて内臓が覗いた女に、目や耳、身体のあらゆる部分から赤い血を流す子供たち。私のちっぽけな診療所は、すぐに重傷者で溢れかえり、それでも運び込まれる人たちは、せめても雨の掛からない軒下、布を一枚敷いたきりの地面に放置され、死ぬまでの残り僅かな時間を苦しみ抜いている。
そう、この人たちは直に死ぬ。この診療所にはろくな薬も設備もないし、それどころか他の場所より衛生的だとすら言いがたい。それでも、運び込まれる患者が後を絶たないのは、教会傘下の衛生的な病院ではしかるべき人々を救うのに精一杯で、その他大勢までは救えないからだ。だから、普段は寄りつかない人々さえ、ここへ助けを求めてやってくる。いくらあの国の医学部を卒業したと言ったって、女の医者など信じられるかと、吐き捨てたような男たちまでもが。
いま、目の前で死にかけている男もそうだ。彼もまた、私の顔のひしゃげた左半分を指し、こいつは魔女だとか、教会に逆らう悪魔の下僕だとか、あることないこと吹聴し、散々、仕事の邪魔をした男の一人。開業後、しばらく続いたボヤ騒ぎも、卑劣な壁の落書きも、恐らく彼らの仕業だろう。嵐の夜、私と、助手のるーしーの寝込みを襲おうとしたことも含めて。
しかしそんな男も、いまは私を罵ることさえ出来ず、粗末な布の上で息も絶え絶えに横たわっていた。教会の美しかった窓の破片が体中に突き刺さり、ひどい火傷を負った状態で、加えて、気道や肺も焼けたのだろう。呼吸は細く、頼りなく、もって数時間の命であることは間違いない。
もし、この男があの国の人間だったら――せめてもと硝子の破片を取り除きながら、私は精一杯の皮肉を思った。もし、この男が主に仕える人間だったら、議員や金持ちの家の息子だったら。もし、そうだったのなら、こんなミナミの個人医院に運ばれることもなく、教会の病院で手当を受けることが出来ただろう。
私のように女ではなく、せっかく価値ある男という性に生まれついたというのに、その最期がこれほど惨めなものになるだなんて、想像しなかったに違いない。もちろん、それはこの男だけではなく、ここに為す術もなく横たえられた、他の大勢の男たちにも言えることではあるけれど。
息をつき、私は雑念を振り払うように頭を振った。窓からささやかな墓標が一望できる、この小さな診療所が地獄絵図と化したのは数時間前、オーサカ中に響き渡るような音を轟かせ、ミナミの教会が爆発したからだった。
どん、地震のような揺れを感じ、るーしーと共に慌てて外へ飛び出すと、雨空にもうもうと立ち上がった煙が、町の異変を教えていた。オーカミ――瞬間、私たちの頭に浮かんだのは、その単語一つだった。この国にかつて住んでいたニホンジンという原住民、その末裔を名乗る原始人たちが、オーカミという組織を作り、各地で教会を爆破するという事件が、ここ一年の間に多発していたからだ。
一体どれほどの間、空を見上げていただろう。気づけば、辺りは一気に騒がしくなり、私たちは波のように押し寄せる怪我人の手当に忙殺された。思えば、今日は日曜日で、教会が人々にぱんを配る日だった。オーカミはそこを狙ったのだ。より多くの人の命を奪い、より多くの被害を私たちに与えるために。
目の前の男を含め、死にゆく人々のために、私は悲しんだ。別に優しさからではない。私はそんな出来た人間ではない。けれど、私はかつてほんの少しだけ、この世界の真実に近づいたことがある。男と女、貧乏と裕福、そしてあるいはこの国とあの国という、私たちを隔てるものの真実に。そして、その経験が、私の心を暗く染め、過去を反芻させるのだった。もし、あの頃に戻れたなら、あんな事件に巻き込まれることがなかったのなら、いや、巻き込まれてなお、私という人間が変わることがなかったら――。
何度も繰り返しやってくるその思考は、ただ無力感ばかりを増幅させ、何の役にも立たないことは知っていた。けれど、目の前の患者に集中しようとすればするほど、私の顔の左半分は疼き、ひくつき、過去を現在にたぐり寄せた。かつて、とても嫌な人間だった私。この顔の左半分に何の傷もへこみも痣もなく美しく、おまけに勉強もでき、それだけで他のすべても他人より秀でていると信じていた私を。
とはいえ、私が嫌な人間だったことと、私の才能は関係がなかったかもしれない。
本来、人の秀でた部分というものは、その人を明るく真っ直ぐな、愛される人間にするものだからだ。けれど、私がそうなれなかった。美しかった私は醜いものを見下し、同じように馬鹿を見下した。そうして私のほうが高い位置にいるのだと――勝者なのだということを常に人に示そうとした。いや、それはそうしなければいられなかったのだ。なぜなら、それほどの美貌と才に恵まれながら、私はとても不幸だったからだ。この国で、女として生を受けた私は。
この国で偉いのは男だ。子供のうちはまだしも、一度大人になってしまえば、どれほど才能のある女でも、男には逆らえない。女は男に傅き、子を産み、育て、働き、ぼろきれのようになって死んでいく、それだけの存在なのだ。
空は高く、地は低いように、どんな男でも、男であるだけで上であり、女はその下であることが決まっている。そして、私は生まれながらにして虐げられることが決まっていた女だった。だから、私もまた自然に他人を虐げたのだ。私のように美しく、才能のある人間が上で、醜く、無能な人間は下である――それもまた、世の中の仕組みならば、私が他人を虐げることも自然だろう。
けれど、だからといって、私は私自身が虐げられることを受け入れたわけではなかった。それどころか、それを不当な扱いだと嫌い、あの国へ行きたいと強く願った。
なぜなら、あの国において男と女は平等で、才能さえあれば、女でも男の上に立つことが出来る――あの国からやってきた女性に、私はそう聞いたことがあるからだった。だから、あの国に行きさえすれば、私は幸福になれる。男と対等、いや、その上に立ち、この溢れんばかりの才能にふさわしい人生を手に入れることができるのだ、と信じたのだ。
加えて、私にはもう一つ、そう信じる根拠があった。それは、そもそも私の生まれたこの国は、あの国からやってきた素晴らしい人々が作った国で――もっとも、その素晴らしい人々の血も、元々この島に住み着いていた原始人の血と混じり合ったせいで、悪いものへと成り下がってしまったけれど、しかし、私個人はといえば、その原始人の血の混じらない、恐らく、ほぼ純粋なあの国の血を引いた人間だった。
無論、この国のずさんな管理体制のせいで、私の両親に関する記録は何一つ残っていなかったが、もしそうでなければ、私がこれほど美しく、才気溢れた人間であるはずはない。
ゆえに、私にとって、あの国へ行くということは、同時にあるべき場所へ帰るということでもあったのだった。あの国でこそ、私は真に輝くことができる。誰にも虐げられることのない、私に相応しい人生を送ることができる。
けれど――現実はそうではなかった。あの国へ渡った私が思い知ったのは、その考えがひどく間違っていたということだけだった。あの国は良く、この国は悪い、そして原始人はこの国の悪の根本だと、おとぎ話のように、現実はそう簡単に割り切れないのだ。だから、いま、私はこの惨状の中にいてさえ、オーカミは悪だと断じることができなかった。
それどころか、私はそう断じた過去を恥じ、やり直したいとさえ思っているのだ。もし、過去の私がもっと賢ければ、私が女という性に苦しむように、他の誰かも――例えば原始人と呼ばれた人間も、生まれついたその属性に苦しんでいるのだと気づくことができたかもしれない。そして、そうなっていれば、未来は変わっていたかもしれない。次の朝には死体に変わる人々も、その短い苦しみも、存在しなかったかもしれないというのに――。
「先生」
そのとき、るーしーの声が私を呼んだ。そうして現実に引き戻されてみれば、降り続く雨に日は落ちて、悲痛に静まりかえった夕闇が所在なさげに佇んでいた。
開いた戸から入り込んだ風が、ふわりと米の匂いを運んだ。人々に食べさせるため、るーしーが米を煮ていたのだろう。不意に差し込んだ日常に、私は思わず目を細めた。しかしその直後、その背後に認めたのは、日常とはほど遠い人間だった。映画の中から抜け出てきたような、背の高い、すらりとした男女の二人組。その整った容貌から放たれる、冷たい視線――。
私にはそれがあの国の人間であることが一目で分かった。と同時に、顔の傷が引き攣った。拒絶感が全身を駆け抜け、しかし、そうする間にも、二人組は呻く人々の間を無遠慮に進み、私を間近に見下ろした。
「特高だ。まりあ・すみすというのは、お前だな? 少し話を聞きたいのだが」
その特別な身分証を義務的に提示し、女の方があの国訛りの言葉を発した。
特高――特別高等警察は、簡単に言うならば、この国の捜査権が与えられた、あの国の警察だ。もちろん、聞く人が聞けば、これはおかしな表現に違いない。この国という独立国家に対し、他国の警察が自由に干渉することなど、通常ならばあってはならないことだからだ。しかし、現実にそれは建前で、この国の警察は事実上、特高の活動に口出しできないばかりか、その下部組織であるかのような存在だった。
いや、それも警察ばかりではなく、裁判所も、当然のことながら教会も、それどころではない、この国自体があの国の下部組織のようなものなのだということを、望まないながらに私は知っていた。加えて、そこに関わる人々もまた、この国のためではなく、あの国の利益のために動かされているのだということも。
待遇も給料も良く、大きな社会的信用も得られる教会傘下の病院に勤めず、私が自らここに診療所を開いた理由の一つはそれだった。あの国を悪と断じるわけでも、あの国に逆らおうという訳でもまったくない。そんな確固とした思想も気概も、私にはない。ただ、私はあの国に行く以前ほど、あの国のことを盲信できなくなってしまったのだ。何もかもが良いはずのあの国を、素晴らしいはずのあの国の人々を。
私は二人組に向き直ると、不安そうなるーしーに、大丈夫と頷いた。それから、表情を変えない二人組に向き直った。こんなときに、こんな小さな診療所に、一体何の用なのか。疑問がないわけではないが、こちらから何を尋ねても無駄だということは、その態度からも明白だ。彼らが一方的に繰り出す質問に答える以外の選択肢など、私に与えられていようはずもない。
「分かりました。ではこちらで」
せめてもの反抗心から、あの国で身につけた訛りでそう言うと、私は二人を離れへと案内した。戸を開け、粗末な屋根の掛かった外廊下へ出ると、せめても雨に濡れないその場所には、怪我の軽かった子供たちがうずくまり、るーしーの粥を食べていた。お腹が空いていたのだろう。顔を上げることもなく、一心にすすり込んでいる。と、その様子を一瞥した二人組の顔に、一瞬隠しきれない嫌悪が浮かんだ。
――この薄汚い米虫が。
その瞬間、記憶の底から蘇った声に、私は思わず息を止めた。感覚のない左頬が引き攣れ、頭の奥がずきりと痛んだ――なぜ、私がこんな目に遭わなくてはならないの? 僅かな国費留学生の枠を勝ち取り、あの国の医学生となり、念願の幸福を手にしようとしていた美しい才女である私が、どうして――。
痛みの向こうで、学生だった私のすすり泣きが、虚ろに響いた。けれど、その声に聞こえないふりをして、私はそのまま離れに二人組を招き入れ、戸を閉めた。
あの嫌悪の表情を目の当たりにした直後だというのに、そうして改めて向き合ってなお、未だあの国の人間は私の目に美しかった。俳優でも何でもない、ただの一般人だというのに、彼らはこの国の人間と比べて――いや、傷がない頃の私に比べても、格段に美しい人たちだった。
彼らの前では、私の大きな目は小さく細く、色白だと褒めそやされてきた肌もまた、醜く黄みがかり、白とはほど遠いものに見えた。私でさえそうなのだから、この国の他の人間に、白い肌を持つと言える者はいないだろう私たちの肌の色は、黄色。それ以外の色では有り得ない。
それが例え、私のように白に近い肌色でも、原始人のように濃い黄色をした肌色でも、それらはすべて「黄色」とひとまとめにされ、決して白の中に入ることなどできない。否、そもそも、白とはそういう色なのだ。ほかのどんな色が混じることも許されない、だからこそ、とても美しく純粋で、価値ある色。ゆえに、その色の名を冠することができるのは、あの国の人間だけであり、美しいのはあの国の人間だけということになるのだ。
そんな簡単なことに、いままでなぜ、私たちは気づかずにいられたのだろう。私は目の前の二人に悟られないほど、僅かに口角を上げた。美人だとか、勉強が出来るだとか、そんなこと以前に、私はこの国の黄色い人間だった。まったく、そんな自覚もないのだから、私たちはあの美しい人たちから馬鹿にされるのだ。私たちのような醜い人間が、彼らのように美しい人間と同じだと、そんなおかしなことを信じているのだから。
そう、だから、それを教えてくれたのが、いまも脳裏にはっきりと蘇る、私を呼んだ声なのだった。あの日あの国のあの路上で、強い暴力を伴って、白と黄色、豊かさと貧しさ、そして、ぱんと米、両者には明らかな違いがあり、決して交わらぬものであるということを、この国に生まれ、米を食って生きる私たちは人ではない、米虫だったということを教えてくれた声だったのだ。
米に湧く幼虫のように不快で醜い、黄色い芋虫――米虫。それが、あの国においての私たちという存在だった。私たちがこの国の原住民を原始人と呼ぶのと同じ、侮蔑と嘲りに値する存在――。
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