第3話 我は宮本武蔵なり

 播州ばんしゅうの地に足をはこぶのは村を捨てて以来である。


 昨年、筑後ちくご長門ながとの間にある船島ふなじまと言う小さな島において、名のある兵法者(巌流がんりゅう佐々木小次郎ささきこじろう)なる剣術家けんじゅつかと試合をして勝利した。


 勿論もちろん、試合は真剣勝負しんけんしょうぶの殺し合いである。


 負ければおのれが死んでいるのだ。


 もし、あの一撃で佐々木の頭蓋ずがいを叩き割れなかったとしたら……今想像してもきもがゾッとする。


 次の太刀では佐々木の反撃に遭い、きっとそれは避けきれない。


 佐々木の長刀ちょうとうが、己のまたから上へと斬り上り、身体が両断りょうだんされていた事だろう。


 しかしそうなる事をあらかじめ想定した上で、佐々木の長刀よりも長く、そして水を吸い重くなった棒を探し、それを周到しゅうとうに準備したのだ。


 それが一つでも欠けていたら負けていた。


 佐々木は強かった、技量ぎりょうだけではかるならば武蔵よりも数段上に違いない。


 あの決闘は、武蔵の周到な準備があってこそ勝利できたのだ。


 己の力量のみをたよった試合は決してすべきではない、己はまだそのいきに達していない。


 あの日以来常に己に言い聞かせていることだ。


 現在(巌流島がんりゅうじまの決闘)は講談こうだんや小説にもなり、あまりにも有名である。


 決闘の場所である船島は、勝者の武蔵ではなく敗者である佐々木小次郎がおこした流派(巌流)にちなんで巌流島と呼ばれている。


 巌流島の決闘以来、武蔵の兵法が攻めから守りに変わったのではないかと考える歴史家は多い。


 慶長けいちょう十八年、夏 武蔵は姫路城下ひめじじょうかに居た。


 姫路城は別名白鷺城べつめい しらさぎじょうとも呼ばれ白くて美しい、まるで羽を広げた白鷺しらさぎの様だと愛称あいしょうを込めてそう呼ばれているのだ。


 池田輝政いけだてるまさ播磨はりまの地を治めるにあたって、この姫路に大がかりな普請工事ふしんこうじが数年にわたっておこなわれた。


 城の改修工事かいしゅうこうじが終了したのは四年ほど前だが、ここ姫路の城下町はまだ広がりをみせている。


 播磨は徳川幕府とくがわばくふにとって、最も重要な地にあたる。


 池田家は外様とざまでありながら徳川一門とくがわいちもんに準ずる扱いを受けており、徳川方の大名だいみょうとしてまだ不安定な西方の諸大名しょだいみょうたちを監視する役目とともに、この播磨五十ニ万石をおおせつかっているのだ。


 家康は大阪を見据え、最も信頼できる者をくさびとして打ったのだ。


 しかしその信頼のおける池田家の当主、池田輝政が今年の三月に亡くなったのである。


 信長、秀吉、家康と三人の天下人に仕え、戦国の世を渡り歩いた名武将めいぶしょうの死に、姫路城下の人々も大いに悲しんだと言う。


「うむ、池田は駄目だめか……」


 名を上げ高禄こうろくでの士官しかんを求めて歩く武蔵には、この播州でならと期待するものがあったのだ。


 己自身が 播州浪人ばんしゅうろうにんを名乗っている。


 江戸に在る柳生宗矩やぎゅうむねのり将軍家兵法指南役しょうぐんけひょうほうしなんやくとして、禄高三千石ろくだかさんぜんごくかかえられていると聴く。


 この時代、将軍家兵法指南役なる役職は兵法者ひょうほうものが目指す域の最高峰さいこうほうの役職であろう。


 だとすると、自分たち剣術家にととては宗矩の三千石が禄高の最高峰と言う計算になる。


 その三千石と言う数字がやがて武蔵が己を売り込む為の基準になっていくのだが、それはまだ先の話しで、この頃の武蔵はそこまで図々ずうずうしくは考えていない。


 三千石とまでは行かないまでも、池田輝政ほどの武将であれば、武蔵の自尊心じそんしんを傷付ける事のないだけのろくほうじてくれるのではないかと期待が大きかっただけに、あてが外れて落胆らくたんしてしまう。


 名のある武将に兵法指南役ひょうほうしなんやく、又は軍師ぐんしとして召し抱えて貰えるのが兵法者として、ほまれなのである。


 しかし輝政亡き後となっては、池田家には魅力を感じない、己の自尊心も許さない。


 この先、何所どこへ向うべきかまた思案しあんしなければならない。


「お武家ぶけはぁん、今日のお宿やどはもうお決まりでっか?」


 思案しながら歩いている内に、旅籠屋はたごや連立れんりつする通りに行き着いていた。


 旅籠屋の呼び込み丁稚でっちうながされるまま、武蔵はその旅籠で今日の宿をとる事に決めた。


 兵法者として武蔵は己の剣をみがくために流浪の旅を続けて居るのだが、こうして旅籠に宿をとることも少なくは無いのだ。


 武蔵は武術だけではなく、芸術的感性げいじゅつてきかんせいも優れている。


 書、画、彫刻ちょうこく凡人ぼんじんいきを超えている、時には刀のつばなど制作してわれれば販売もする。


 兵法者として名が上れば、必然的にそれらも高値たかねが付くのである。


 時には野宿のじゅくもするのだが、財政的には裕福で路銀ろぎんに困ることは無い。


「いや、太閤たいこうはんがお亡くなりになられてまだ十五年しか立ってへんのに世の中えろう変わりまいたな」


「ほんま、池田のお殿はんもお亡くなりになられたよってにな、いまの播磨はがたがたですわ」


 部屋に案内され一息つくと、隣の部屋から話し声が聞こえて来た。


 壁が薄いせいもあるが、旅の旅籠ではよくあることだ、旅人から旅人へと噂は流れていく、そうやって噂は広がるのだ。


 旅籠屋に宿をとると、武蔵はいつも聞耳ききみみを立てて過ごす事にしている、そうやって情報収集をしているのだ。


「なんやまた大坂の方で大きな戦が始まる言うて、きな臭い噂も流れて来よりますよってにな」


「ほんまかいな」


「ほんまや、大坂が銭で浪人共をぎょうさん集めよる言う噂もあるんやで」


「そないに大事な時に池田のお殿はんは亡くなりよったんかいな、それをさせん為のお役目やったのにな、そりゃ死んでも死にきれんやろな」


「ほんまな」


 大坂とは豊臣家とよとみけのことだ。


 慶長五年に起こった(関ヶ原せきがはらの戦い)で家康は勝利した、武蔵がまだ十六の頃だ。


 東西分けて二十万もの軍が戦った日本の戦史上最も大きな合戦かっせんなのだが、決着はわずか半日の間に東軍勝利で終了した。


 その後西軍に属した武家はいちじるしく改易かいえき減易げんえきされ、首謀者しゅぼうしゃは処刑された。


 豊臣家は大坂に一大名いちだいみょうとしてかれ、世はしゅを失った浪人達ろうにんたちあふれかえった。


 武蔵も西軍せいぐんしょうである、宇喜多家雑兵うきたけぞうへいとしてこの戦に参戦さんせんしたのである。


 いきおいさんで参戦したものの、実際はあっけないものであった。


 会戦かいせんの合図と共に右へ左へと駆け走っている内に、いつの間にか勝敗が決まってしまっていたのである。


 他のことは何もしていない、ただ駆け走っていただけである。


 その後も、すぐに武者狩むしゃがりを恐れて、走り逃げた。


 今、もしもまた戦に出たとしたら、あの頃の様には行かないであろう。


 兜首かぶとくびを幾つもげて、大手柄おおてがらを立てる自信が武蔵にはあった。


 徳川の天下はまだ盤石ばんじゃくなものではない、いつまた乱世らんせの時代に戻るか解らないのだ。


 世は行き場を失い、食うや食わずの浪人で溢れかえって居るのだ。


 切っ掛けさえあれば何時いつでも決起けっきするに違いなく、その切掛けが此度こたびの大坂である。


 武蔵は大坂に行くつもりである。


 まだ途上とじょうではあるが兵法者としての己は、高きくらいにあると自負じふしている。


 未だ無敗、負けた事が無いのだ。


 大坂に行ったとて、まさか雑兵扱ぞうへいあつかいを受ける筈がない、論外ろんがいだ。


 豊臣家にそんじ「宮本武蔵が参上仕さんじょうつかまつりました」と一言申せば良いのである。


 それだけだ、それだけで向こう側からすれば百人力、いや千人力の力を得た様な気持ちになるに違いない。


 後はろく役職やくしょくの話をするだけで終わりなのだが、どこらあたりで首を縦に振るべきか。


 軍師を乞われるやも知れない、兵法指南役であるやも知れない。


 軍師にも魅力はあるが、やはり己が今まで築き上げて来た方がよろしかろう、豊臣家兵法指南役を選ぶべきだ、それが正解であろう。


 豊臣の天下が再びおとずようものなら、我が流派りゅうは円明流えんめいりゅう)が天下一の流派となるのだ。


 いつの間にか武蔵は拳を握りしめている事に気が付いた、興奮コーフンしているのだ。


 兵法者たる者、いつ何時であろうと平常心を保ってないと成らない、いつ敵の攻撃に襲われるか解らないからだ。


 常に平常心でれば、どんな攻撃を受けても慌てずに対処出来たいしょできるのである。


 武蔵は己を恥じた、武蔵の未熟者みじゅくもの、武蔵の未熟者と己を攻めた。


 天下一の兵法者としょうされるのだ、この程度ていどでは豊臣家から見限みかぎられてしまう、気を付けようと武蔵は己の心に念じた。


「また出たらしいわ」


小坂部おさかべかいな⁉︎」


「そや、その小坂部がまた出たんやて」


 隣の客がまた話し始めたが声が低い。


 何やらが出たとか、それが出たのは久し振りだとか、そう言った事を語り合って居るのだ。


 それが出ると何か良くない事が起るのだそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る