1話-3 旅立ちの杏仁豆腐

「ねえ梅眠めいみゃん、こういうのを馬子にも衣装って言うんだよね……?」

「とんでもない! とてもお美しいですわ。わたくし、涙が止まりません」

「ご冗談を。てか、この化粧、とっちゃダメ? 呼吸困難になりそうなんですが」

「ご安心ください。すぐに慣れますわ」

「頭のこれも、うっとうしい。高そうだし、落としたらマズいやつだよね?」

「ええ、気をつけて歩いてくださいましね?」


 後宮入りの朝、凛風りんふぁはすでにげっそりと疲れていた。

 多少着飾った衣で屋敷を出ると思っていたら、とんでもない。豪華な花嫁衣装が用意されていたのだ。


「え、てか、ほんとうになんで? 入宮の話がでて、五日で用意したの? 梅眠ナニモノ?」

「わたくしは、ただの侍女でございます」


 嬉しそうに微笑む梅眠めいみゃんの瞳には、気品ある佳人がうつっていた。


 綺麗に結い上げられた、射干玉ぬばたまの黒髪。そこで揺れる、月長石のかんざしと金の歩揺ほよう

 すらりとした肢体を包む襦裙じゅくんは上等の白絹で、こまかな花葉紋の刺繍がほどこされている。肩にかけられた披帛ひはくもやはり白い薄絹で、銀糸の縫い取りがきらりきらりと、輝いていた。


 卵形の整った面も、今日は化粧がされている。


 凛風りんふぁの肌は綺麗なので、ほんの少しおしろいをはたき、目尻を紅く色づけただけだが、ぞくりとするほど色めいていた。


凜風りんふぁ様、とてもお綺麗ですわ。そのお姿を見れば、どんな殿方も心揺さぶられますでしょう。……その、口さえ開かなければ」


 頭を掻こうとする凜風の腕をそっと押さえ、梅眠めいみゃんはにっこりと笑う。

 凜風は渋面だ。


「あああああ、この花嫁衣装、売りたい! どっから出したのよー。ほんと、無駄っ」

「なんてことを仰るのですか! いけませんよ、凜風さま。それはお嬢様のお衣装なのですからね?」

「うわ、卑怯……」


 ピタリと動きを止めざるを得なかった。

 母の娘時代の衣装がまだ手元にあるとは思っていなかった。すべて糸を解いて花硝たちの衣に仕立て直すか、どこかに売ったと思っていたから、今着ているものを粗雑に扱うわけにはいかなくなった。


「そのお衣装はお嬢様の一番のお気に入り。いつか凛風りんふぁ様がお召しになれるよう、取っておきましたの」


 るんるん、と。紅潮した頬を押さえる梅眠めいみゃんには、本当に敵わない。

 しかし、凛風りんふぁの姿を上から下まで見つめていた侍女は、少し首を傾げたのだった。


「とてもお美しいですが、あまり凛風りんふぁ様らしくないお姿かもしれませんね。お嬢様と凛風様は、親子でも違うということでしょうか」

「だと思うー。母さまは、月の精霊みたいに綺麗だったから」

「ええ、それこそ月仙が嫉妬するほどにお美しい方でしたが、凜風様もお美しいのですよ? ただ、似合う衣が違うというのでしょうか……?」

「そんな真剣に慰めてくれなくてもいーよー」


 ヒラヒラと手を振って、椅子に座った。つくえの上には麻布の包みが置いてある。

 中身は包丁だった。

 凛風りんふぁにとって大事な大事な包丁だが、後宮に持ち込もうとすれば没収されてしまうだろう。名残惜しいが、置いていくしかないものである。


くるまを確認して参ります。しばしお待ちください」


 布の包みに頬をすり寄せて相棒との別れを惜しんでいると、梅眠めいみゃんが拱手をして出て行った。

 足音が遠ざかる。しかしすぐにまた、足音が近づいてきた。なにか忘れたのかもしれない。


「梅眠、どうし……げ」

「おねえさまっ」


 入ってきたのは小鳥のような少女だった。

 小さくて、色白でそしてとびきり美しい。風が吹けば倒れてしまうのでは、と恐怖させるほどに儚い風情がある。

 目が合うなり、少女、花硝ふぁしょうはすがりついてきた。


「ああ……ほ、ほんとうに行ってしまうのですね」

「なんの、こと?」

「入宮されると聞きました、嵐晶らんでぃんから」


 思わず舌打ちをしたくなった凜風である。

 後宮入りのことは、花硝ふぁしょうには伏せられていた。叔父が花硝の代わりに凛風を後宮に差し出したことを秘密にしたかったというのもあるが、花硝はある意味とても面倒な性格だったからだ。


「ああ、ああ。どうして、どうしておねえさまがそんな目に……」


 すぐに泣くのである。

 これが師父しーふたちなら「小凛しゃおりんが後宮入り!? どんな冗談だ。笑わせてくれる」と本当に爆笑してくるので奴らの尻を蹴飛ばせばいいが、泣く子の対応にはほとほと困る。


花硝ふぁしょう、わたしのために泣くな。ちょっと出稼ぎをしに行くくらいなものだ」

「いいえ! 後宮は魑魅魍魎うごめく恐ろしいところと聞いております。ああ……どうしておねえさまがそんな!」


 透き通った瞳から、涙がはらはらと、はらはらと、こぼれる。

 それだけならまだいいが、興奮したせいで呼吸が乱れている。

 凛風りんふぁの目には、その呼気が薄いもやに見えた。


 ほんとただでさえ体が弱いというのに、どうしてこの子はそうすぐに興奮するの! 


 本当によろしくない。これで花硝ふぁしょうの身代わりに後宮に行くのがバレたら、どうなるのだろう。……罪悪感で身投げでもしかねないではないか。


「ま! そういうことだから!! 花硝ふぁしょうは元気で暮らしてっ。私は私でどうにかするからっ!」


 ボロが出る前に、三十六計逃げるに如かず。

 花硝ふぁしょうの肩を両手で叩き、凛風は脱兎の勢いで走り出した。

「いかないで!」と悲鳴が追いかけてくる。振り返らない。綺麗な衣装の裾を踏まぬよう指で摘んで走る。走る。

 扉を出て回廊、回廊から踊り場、踊り場から前庭。勢い余って俥番と話す梅眠とぶつかりそうになる。


「り、凛風りんふぁ様!」

「出立しよう! わたしは、一刻も早く後宮に行きたい!」


 ひらりと梅眠めいみゃんの身をかわし、よろめいた侍女の手を掴んで支えると、梅眠はまんまるな目で見返してくる。


「一体なにごとでございますか?」

花硝ふぁしょうに出立がバレた。……あとは察してくれ」

「なるほど」


 有能な、侍女の対応は早かった。

 雇った俥引きに指示を飛ばし、さっさと凛風りんふぁを俥に乗り込ませた。


「荷物は後ほど送りますわ。――では、ご武運を!」

梅眠めいみゃんも元気で」


 俥から顔を出すと、騒ぎを聞きつけた者たちが屋敷から出てくるのが見えた。

 その中には叔父もいる。妙に慌てていた。

 予定していた出立時刻をぶっちぎったので、怒っているのかもしれない。


「まああとは、梅眠に任せよう」


 立つ鳥跡を濁さず。後ろは振り返らない。

 そして向かうは国中の美しい女たちが集う後宮。

 さて、鬼が出るだろうか、それとも蛇か。

 けれど不思議と不安はない。


「わたしは、美味しい料理を作るだけだ」


 そうして、後に伝説となる料理妃、じゅ 凛風りんふぁはその華麗なる一歩を踏み出したのだった。

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